見えない虹
台風のすぐ次の日だった。
僕は一本の電話に呼び出された。
慌てて駆けつけた僕に君は言った。
風に舞った長い髪に隠されて聞き取れなかった。
「どうしたの?」
濡れた瞳が僕からゆっくり視線を下ろす。
「怖いの。」
いつも気丈な君が今日はどこか弱々しい。
何が怖いと問いかけても君は何も言わない。
ただただ考える様に声を押し殺す。
シンガーの君の息遣いは一定のリズムで鼓動と同じ早さで進んでいく。
「何のために歌うのか、分からない。」
そう洩らす君の声は少し掠れていた。
「声、どうしたの?」
大事にしなきゃと言いかけてやめた。
君の頬を伝う透明な雫が僕の胸を苦しめる。
触れられる距離にいるのに僕は君に触れられない。
僕の一方的な片思い。
君は僕が友人でいる事を望むから。
僕のために歌ってよ。
そう言えたらどれだけ楽だろうか。
でも君の歌は本当に多くの人を幸せにすると思うんだ。
だからその歌声は僕だけに向けさせちゃいけない。
「これから、いっぱい歌うことになると思う。」
黙って相槌を打つことしか僕は出来ない。
「でも、今まで好きな気持ちだけで歌ってたのがこれからはハコも用意されてない足を止めてくれる人がいるかも分からないそんな環境で歌うって考えたら、私の好きが通用しなかったらそう考えたらなんのために歌えばいいのか分からなくなっちゃった。」
力なく笑う君は苦しそうで目を逸らした。
ファンのために歌えとか見知らぬ誰かのために歌えとかそんな事は言えない。
まして、自分を見失う事を恐れる君に自分のために歌えなど言えない。
「君は何を目指してるの?」
考え込んだ君は、やっぱり分からないと首を振る。
「方向性も目標も何もない。ただただ、話をもらうままにライブをしてきただけで目の前のイベントが終われば私には何も残ってない。」
考えながらゆっくりと言葉が紡がれる。
「楽しかったからそれでもいいと思ってた。けど、…。」
言葉を切った君の呼吸のリズムはやっぱり心地よくてこんな時でも僕は君の唇を盗み見た。
「これからお金をもらって歌うようになったらそれじゃダメだと思って、そしたら怖くなって分からなくなっちゃった。」
台風の余韻を残した強い風がザワザワと周りの木を揺らす。
それに負けないくらい大きな声でセミが鳴き続けていた。
「とりあえず、やめないでよ。」
安っぽい言葉しか出ない自分が嫌になる。
君が欲しい言葉を僕はあげられない。
「ゆっくり探してみるのもいいんじゃないかな?」
君は深く項垂れた。
焦ってる人間に焦るなと言って落ち着けるわけが無いのだ。
分かってて言う僕はだいぶ酷だ。
「喉、大事にして。」
さっき買ったばかりの水滴のついたミネラルウォーターを差し出す。
無言で受け取る君は少し疲れた顔してた。
本当は君の才能に嫉妬してるなんて僕は言えない。
とうに諦めたドラマーの夢を君は知らないから。
強い風に雲は東に流されて西には青い空が広がっている。
漏れた光が君の頬を照らした。
「話聞いてくれてありがと。泣いたらちょっとスッキリしたや。」
立ち上がった君はいつも通りでありがとうと少し笑った。
何も解決してないのにどこかスッキリした顔をする君に僕の胸は少し痛んだ。
雨上がりの虹が僕には見えない________。