99 謎の手帳
島木さんとツクモが相談して、島木さんがいったん研究所に戻り、ツクボウの本社や、お守りの分析関係を取りまとめてくれている飯田さんと連絡を取り合うことになった。ツクモは、島木さん曰く、『番犬代わりに置いて行きます』、ということで、明後日の対決までうちにとどまって、祖父の書付けやその他の神社の資料を当たって情報を集める。近年のものが優先で、古文書はさすがに後回しだ。
社員さんが創業一家の二男坊を捕まえてしれっと番犬なんて冗談を飛ばせる当たり、よほど風通しのいい会社なのか、島木さんが豪胆なのか、ツクモがある意味かわいがられているのか。そのどれもが少しずつなのかもしれない。そして、築井家にとっても社にとっても大事なお坊ちゃんであるツクモに何かあったらどうするのか、とわたしは思ったのだが、そんなことを言っても聞き入れられる雰囲気ではなく、言葉にも出せずに呑み込むしかなかった。
島木さんを見送ったあとで、わたしとツクモはさっそく祖父の手文庫の中身に取り組むことにした。箱の中身は、単なる備忘録やメモの類で、誰が見ても構わないような内容なのだという。一子相伝の内容を含む、ほかの人に見せられないようなものは、別の場所にカギを掛けて保管しているのだと父は言った。
父は痛み止めを飲んでもまだそれなりに足が痛むようで、母が早く休むように言っていたのだが、気になるらしく、リビングのソファに居残って、わたしたちが作業を進めるのを見ていた。母は、ツクモのために客間の空気を入れ替えたり、普段は二階の寝室で休んでいる父が階段を上り下りしなくて済むよう、階下の和室に布団を運んだりと、忙しく立ち働いていた。
「でも、どうしておじいちゃんは、金山令正さんの調査を断れって言ってたのかな。量吉さんがどうして関係あるの?」
「ふみちゃんのおじいさんは、日記で、再度って書いてる。ってことは一度目があるってことですね?」
ツクモが父を見た。
「そういうことになりますな。正直、ここで、ああこの方亡くなったんだ、と思ったものですから、それ以上気にしていなかったんです。読んだかも知れませんが、記憶になくて」
言い訳がましく言う父に、ツクモはかぶりをふった。
「それこそ、ずいぶん前に読まれたこの記述を思い出していただいただけでも、すごい手がかりです。この日記、他の日付も拝見しますね」
ツクモは、なにか目的があるようで、手早くページをめくっている。
「最初は二月なのか。じゃあ、一冊前かな。ふみちゃん、この前の日付のノートある?」
ツクモは持っていたノートをわたしに返して、箱の中を見た。
「ああ、これだ」
目当ての一冊を見つけたようで、そのノートをまたせわしなく繰り始めたので、わたしは何気なく、ツクモに返されたノートをぱらぱらとめくった。
さっきのページにたどり着く。
『九月十八日
昨夜、交通事故で亡くなったのが、カナヤマリョウセイ氏だったと聞いた。少々ぶしつけなところがあったとはいえ、まだ若い方だったのに、気の毒だ。量吉さんが祟りをしきりに気にして、気を病んでいる。定期的に様子を見にいく必要あり』
次のページをめくった。
祭りに入ってもらった業者さんへの支払いや、警察署へお礼のあいさつに行った記述が並ぶ。さらにページをめくったところで、目がとまった。
『九月三十日
量吉さんから警備中の拾得物の手帳をあずかった。警察に届けるべきなのだろうが、これが厄介な騒動を引き起こしていたことを考えると、返しづらい。どうしたものか』
父に読ませるために書いていたにしてはあいまいで、感情的な記述だった。祖父も何か迷っていて、衝動的に書いたようだった。
拾得物? 手帳? 量吉さんは何を見つけたんだろう。
数ページ先までざっと目を通したけれど、警察に届けたとも持ち主に返したとも書いていない。
わたしは父にそのページを示した。
「お父さん、この話、わかる? 量吉さんの警備って何?」
「ああ、祭りの分担じゃないかな。量吉さんは、この頃は毎年同じ分担で、通り抜けする車がいないように、下の幹線道路に通じる道で警備・交通誘導にあたってたんだ。ほら、みんな使わないほうの道。もっと手前の分かれ道のところで、羽根木方面に曲がらないように警察が誘導してくれるんだけど、裏道みたいなところから迷い込んでくる車がたまにあったから」
にぎやかなところがちょっと苦手で寡黙な量吉おじいちゃんらしい分担だった。本人も居心地がよかったのだろう。
「この、手帳って?」
「うーん。父さん、継いだばかりのころはとにかく祭りやその他の行事を切り盛りして、頼まれた御祈祷や地鎮祭に行くので手いっぱいだったからなあ。それに関係ない記述は正直、斜めに読み飛ばしていたというか。でも、待てよ、手帳?」
父は立ち上がろうとしたが、足が痛むのか、顔をしかめて、ソファに深く掛け直した。
「その箱の下のほうに、防水紙に包んで紐を掛けた小さい包みが入ってるんだ。手帳って言うならそれかなあ。なんか入ってるな、くらいで気にしたことがなかったんだけど。じいちゃん、気になったものや大事なものは大体この箱か金庫か、一子相伝の書物が入れてある棚に入れてたんだ。金庫や棚のほうでは見かけてないから、今もあるとすればここじゃないかな」
この、おおらかさ。一歩踏み込んで、大雑把さと言ってもいい。自分の感性に引っ掛からなかったものに関しては、なんか入ってるな、で放っておける性格。これが父なのである。そして、気になったものを箱にぽんぽん放り込んで、後はそのままにしておく祖父。親子である。
わたしは、無造作に詰め込まれたノートや紙束を揃えてよけながら、箱の下のほうを見た。
一番底のところに、それはあった。
荷造りに使うような、薄茶色の薄い紙。多少の防水効果があるようにか、コーティング加工がしてあるようにも見える。それにくるまれ、麻紐でくくられた、文庫本くらいのサイズの何かが、どうやら父の言っていたものらしい。
「お父さん、これ?」
わたしは包みを取り出して父に見せた。
「ああ、それそれ」
父が手を伸ばすので、渡すと、するっと紐をほどいて中身を出して見せてくれた。
「ほら、やっぱり手帳だった。これを量吉さんが拾ったのかなあ。誰のだろう」
使い込まれた風情の、柔らかそうな黒い革の表紙がかかった手帳だった。父はページを開く。わたしも横から覗き込んだ。表紙はカバーだったらしく、中はごく普通の細い罫線が引かれたノートである。書き終えたら中身のノートを交換して使っていたのだろう。右上がりの癖が強い筆跡だ。走り書きのように省略された字と文体で、ぎっしりと書き込みがしてあった。ところどころに、ペンの黒一色で簡単に描かれたイラスト。草木のようだ。父は読み込むでもなく、ざっと眺めるようにしてパラパラとページをめくっていった。
とあるページのイラストに、わたしははっとした。
「ちょっと待って。お父さん。このページ。ねえ、ツクモ、大変! 見て!」
わたしの剣幕に、ツクモも急いで自分の読んでいたノートを置いて近寄り、わたしの肩越しに手帳を覗き込んだ。
そこにあったイラストは、初めて見るものだったが見覚えがあった。
二羽のチョウ、あるいは、一羽のチョウの裏表。
片側には、羽のふちに、七つの斑点がきれいに整列している。もう片側は色のグラデーション。イラストの横に書き込まれたメモには、群青、白、オレンジとある。
「古文書にあったチョウだよ!」
「七曜蝶だ!」
わたしとツクモは同時に叫んだ。
「この手帳、誰の?」
答えは最後のページにあった。
東京の住所、それから、署名。
「金山令正さんのフィールドノートだ……」
ツクモが呆然としたようにつぶやいた。
「このチョウ、そんなに珍しいんですか? 毎年、祭りの時によく見ますよ。ああ、でも、山から外に出ないのかな。言われてみれば外では見ませんね。郁子、見たことなかったっけ」
父はきょとんとして言った。
「ないわっ! 半分くらい、これにわたしの夏休みが振り回されてるんだけど!」
あまりに緊迫感のない、父のずれた反応に、わたしが頭を抱えたのは言うまでもない。
一方のツクモはぱっと顔を輝かせた。
「本当にいるんだ! すごい! これが、金山の大きな目的の一つのはずです。このチョウは、おそらく、まだ学問の世界にきちんと発表されたことがない、未記載種、いわゆる新種です。これだけ大型のチョウが発見されたとなれば、話題にもなるし、当然名誉もあるでしょう。彼の専門分野は化学ですが、アマチュア昆虫愛好家でもありますから」
「へええ。なんだ、これがねえ。いっぱいいますよ、祭りの時期には。掃いて捨てるくらい。チョウは一応ご神体でもあるので、捨てませんけど」
父は顔をしかめた。
「こんなもののために、郁子は斜面から落ちてけがをさせられて、服もダメにされたんですか。スズムシで怖い思いもさせられて。こんなもののために」
「えらく親ばかなこと言ってるけど、一番大変なけがをしたのはお父さんだよ……」
父のつける物事の優先順位は、ときどき、かなりおかしい。
「えー、本当に今もいるんだ。見てみたいなあ。どうにかならないかなあ」
うっとりとイラストを見つめてつぶやくツクモも、大概どうかしている。
長すぎる一日の果て、わたしは軽いめまいをこらえてこめかみを押さえつつ、深い深いため息をついた。














