98 見えないガラスの向こう
「おびき出しはしましたが、どうしたもんでしょう」
父は途方に暮れたように腕を組んだ。
「脅しには脅しでしょうね」
島木さんはニヤリと笑った。
「文史朗さんが言った通り、彼は何かに焦っていた。時間がないはずだ。しかも、調査の日時ははっきりと指定してきている。ここは譲れない条件のようでした。このあたりをてこに、あちらにとって不都合な事実を揃えて提示し、こちらの言い分を飲んでいただけるようにお願いすることになるでしょう」
お願い、と言うときの島木さんの目に映った色はなかなかどうして、お願いという言葉ではすまない迫力だった。味方だと力強いことこの上ないが、絶対に敵に回ってほしくないタイプ。
「不都合な事実?」
わたしは首をかしげた。
「例えば、こちらが押さえている違法行為の証拠ですね。揺さぶりをかければ効果はあるはずです」
「どうしてですか?」
「例えば一つには、私が思ったより、リョウキさんご本人が出てくるタイミングが早かったと感じているんです。彼が使える人間が少ないということでしょう。多少手荒なおつかいを頼める相手はいるとしても、こうした交渉を頼める相手がいないということです」
「計画したり、考えたりするところも、相談する相手もなく一人でやっているってことかな」
ツクモが口をはさんだ。島木さんはうなずいた。
「おそらく。まっとうな判断力がある人間が関わっていれば、途中で止めたはずです。あまりに行き当たりばったりだし、文史朗さんがいう通り、結果が重大すぎる。自転車のブレーキの件は、乗っていた人間なり巻き込まれた周囲の人なりが、けがをする可能性は十分予測できたはずですから、訴え出れば、刑事的な責任も重いでしょう」
「僕のけがは、まあ、自分の不注意が招いた結果でもあるので、本音を言えばあまり騒ぎ立てたくはないんです。久しぶりに乗るんですから、出発前にブレーキの確認くらいすべきでしたし、自転車に異常を感じた時点で、スピードを落とす方法を考えるべきでした」
父は自嘲気味のため息混じりに言った後、表情を改めて続けた。
「でも、さっきの電話はいただけません。娘に繰り返し嫌がらせをしていることも許せない。今後、こんなことが続くようでは、安心して娘を大学にもやれません。いたずらにしては度を越しているし、放っておけばエスカレートしていくのは確かです。れおくんには、こんなことはもうやめてもらいたい。どうしたらいいのか」
島木さんは淡々と応じた。
「今の電話での会話はもちろん、録音させていただいています。それ自体が決定的な証拠にはならないかもしれませんが、お兄さんたちに、彼の動きに懸念を抱かせるには十分です」
「お兄さん。正妻さんのご子息たちということですか」
問い返した父に、島木さんは答えた。
「はい。カナヤマグループも以前は結構強面で、ギリギリの無茶をしてきましたが、今はもう、主導権はほとんど彼のお兄さんたちに移っているんです。お兄さんたちは、おじいさんの時代のやり方が通用しないことは十分わかっていて、コンプライアンスを重視する方針を取っています。旧態依然の組織を改革するのに、ずいぶん苦労されてきたはずだ。そういう中で、目的のために手段を選ばない、という種類の行動をリョウキさんがとったことが明るみに出れば、これまでやっと刷新してきた社内の雰囲気を混乱させかねない。リョウキさん自身はいざとなれば助けてもらえる気でいるかもしれませんが、実際には、彼がいくら血縁者でも、厳しい対処をとらざるを得ないはずです。お兄さんたちは事を穏便に済ませたければ明るみに出さずに処理するしかない」
島木さんはいったん言葉を切って、目の前のお茶を一口飲んだ。もうすっかりぬるくなっているだろう。感情を伺わせない落ち着いた声音で、彼女は先を続けた。
「彼が自分から、厄介なたくらみをやめてくれるのが一番いいんです。社会的制裁合戦になると、組織の体力から言って、一番迷惑をこうむるのはおそらくこちらの神社ということになるので、それは避けたいですし、彼がやけを起こして取り返しのつかない行動を取ることも防がないといけない。できるだけ、理性と打算に訴えかけていく必要があると思います。まずは彼本人に、今の状況を認識してもらわないといけないでしょう。追い詰められているのはこちらではない、彼だ、ということを。刑事告訴しても、お兄さんたちに話を持って行っても、こちらの態度次第で彼の環境は四面楚歌になる」
「飯田さんが言ってた。先手が取れないとしても後手に回るなって。情報は集められるだけ集めておくのがいいんだろうね」
ツクモもうなずいて、父を見た。
「金山リョウキは、私の中学生時代からの知合いです。腐れ縁といったほうがいいかもしれませんが。彼の父方、私の母方の遠い親戚でもある。私とのあまり良好とはいえない関係が、こちらへの無礼な態度の遠因でもあるように思うんです。こちらで集めた情報をもとに、一度、彼と話をさせてくれませんか。七曜神社に迷惑を掛けないように、説得します」
「それが森崎令生君なら、僕だって、知らない相手じゃない。森崎量吉さんには、僕は生涯かけても恩を返せないくらいお世話になったんです。そのお孫さんのれおくんが今の青年なんですよね。彼はまだ若い。僕にしてみれば、子どものような歳です。即座に警察沙汰にして将来を台無しにするのは、やはり気が引けます」
父は苦い顔をして、窓の外を眺めた。エアコンをつけているため締め切った窓ガラスには、室内の景色がうつりこんで、外の景色などまるで見えなかったけれど、父は見えないガラスの向こうの、そのさらに遠い先を眺めているようだった。
「僕は色々な状況を知っていたわけではありませんでしたが、気になる子でした。小さいころから大人の事情に振り回されて、きっとしなくてよかったはずの苦労をした子なんです。赤ちゃんのころから見てきましたし、急にこの土地を離れることになって、どうしたか、案じていたんです。最初かられお君だと名乗ってくれれば、違う話もできたのになあ」
父は少し寂しそうに言って、それから、島木さんとツクモを正面から見た。
「僕はこんな状況で、身動きがとれません。植物のことについても、こうした交渉事についても、お二人のほうが僕よりずっとよく知っているでしょう。家族を守るために、どうか、力を貸してください。打てる手があるなら、お願いします。僕にできる協力ならなんでもします」
「ありがとうございます。……病院の玄関で金山を捕まえて、病院の外で話をするのがいいんだろうね」
ツクモから言葉の後半を向けられた島木さんもうなずいた。
「病院の中でする話じゃないでしょう。そこから場所をうつるのが妥当でしょうね」
「わたしもやるよ」
わたしは手を挙げた。
「うちの神社のことに、うちの人間が関わらないわけにはいかないよ。後継ぎなんだから、わたしもちゃんと立ち会う」
「郁子、おまえ、後を継ぐかは決めていないってしょっちゅう言ってるじゃないか」
「継がないと決めたわけでもないから。こんな事態に黙って引っ込んでるわけにはいかないでしょう」
「だが、危ないじゃないか――」
渋い顔の父をさえぎるように、それまで黙って話を聞いていた母がすっと割り込んだ。
「向こう見ずなことはしないし、島木さんと築井さんの注意をちゃんと聞くのよ」
「はい、お母さん」
わたしが元気よくうなずくと、父は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「こら! 父さんを抜きに話を進めるんじゃない。蒔ちゃんはどっちの味方なんだ」
ぶつぶつと言う父に、母は涼しく微笑んで、返した。
「郁子が自分でいいと思ったことをするのを止められる人間なんている? この子の強情は筋金入りよ。知ってるでしょう。秀治さんの娘で、私の娘なのよ」














