94 アルバムの写真
量吉さんが恐れていたのは、リョウセイさんの事故だけではない。もう一人。祟りがあると恐れていた。
れおくん。
かちり、と頭の中で何かがはまる音がした。
わたしはれおくんの顔を思い出そうとした。でも、焦った頭では、うまく思い浮かばない。
「お父さん、量吉さん家のれおくんって覚えてるよね? 写真あったっけ?」
父は首をひねった。
「あの、山で郁子を置き去りにしたやんちゃ坊主だよな?」
「その、親ばかフィルター丸出しの覚え方はやめてあげてよ。大事なことなの」
「お囃子やってたろう。装束を着て、みんなで撮った写真がなかったか?」
母が父の横から口を出した。
「あったわよ、郁子が幼稚園の年長の年。れおくん、五年生。六年生のお囃子の時は練習途中でやめちゃったのよ。山の件で気詰まりになっちゃったって言って。待ってて、今出してあげる」
そう言いおくと、すっと立って部屋を出ていった。
「ふみちゃん、どうしたの」
ツクモは怪訝そうに尋ねた。
「れおくんの漢字。今日、医院で聞いたの。トラおばあちゃんに」
「トラおばあちゃん?」
「量吉さんのいとこ。ご近所に住んでるの。れおくんの漢字は、命令の『令』に、『生きる』で『令生』。リョウセイさんの字と一緒の「令」だよ。金山さんのリョウキってその字じゃないの? 金山さんが、量吉さんの孫のれおくんじゃないの?」
はっと、ツクモが息をのむ音が聞こえた。
「年齢も引っ越した時期も全部一致する。わたし、両方見てたのにどうして気がつかなかったんだろう。そうよ。カフェテリアで、初めて会ったはずなのに、すごい目でにらまれたの。れおくんはわたしのこと、覚えてたんだ。あの時、一目ですぐに分かったんだ。なのに、わたしが思い出さなかったから怒ってたの? それとも、わたしのせいでおじいちゃんやお母さんに叱られたこと、まだ怒ってるから?」
「落ち着いて、ふみちゃん」
「ツクモ。わたしが違ってるなら言って。金山さんの字は?」
「令生。ふみちゃんの言うとおりだ」
「お母さんのジュンコさんは、順番の順。森崎順子。金山さんのお母さんは?」
「名字は金山だと思ってたから聞いたことがなかった。漢字も。ただ、母はより子さんと呼んでいた」
順子は、ジュンコともヨリコとも読める名前だ。
「島木さんは? 二人の、金山家に来る前の身元、知らないの?」
「申し訳ありません。盲点でした。すぐ調べます」
島木さんはスマホを持ってあたふたと部屋を出ていく。
わたしは金山さんの顔を脳裏に描こうとしていた。栗色の髪にはパーマがかかって、あちこち向いていた。華やかな印象。目元はくっきりした二重。自信満々に歪めるみたいに笑った、赤みの強い唇。思い出せない。れおくん、あんな人だった?
『れお、<臭い>よこせ。こっちこっち!』
子どものころ、臭い葉っぱを投げ合って遊んでいた鬼ごっこのことを思い出した。れおくんはいつも走るのがちょっと遅かった。鬼ごっこの時はたいてい、じれったくなった他の子が、仕切り直すためにれおくんの鬼を受け取りに行くのだ。
おぼろげに、外見も思い出してきた。ぽっちゃりした体格で、目がほっぺに埋もれるみたいに細くって。色白で、女の子みたいに赤い唇だった。他の子達にからかわれて、おどおどした自信のなさそうなときと、堪忍袋の緒が切れたように急に強気に出るときのムラがすごかった。一年生のわたしには、六年生なんて大人と同じくらい大きく見えたけど。
「あったわよ、郁子。ほら、この一番後ろの端っこの」
母がアルバムを開いたまま抱えて戻ってきた。みんなの真ん中にあるテーブルに置く。
「ツクモ、見て。ツクモは中一の春の金山さん、知ってるでしょ。最初に会ったころの。これが五年生の秋のれおくん。どう?」
ツクモは食い入るようにスナップ写真の小さな顔に見入った。
「……これよりは少しやせていたと思う。でも、あの頃のリョウキに、とても似ている」
絞り出すように言うと、ツクモはぎゅっと目をつぶって、天井を仰いだ。
「でも。あいつはあの時もう、リョウキだった。学校の名簿に載っていたんだから、本名だろう。れおじゃない」
「違うよ。きっと違う。本当がリョウキなんだよ。その名前はもしかしたら、令正さんが付けたんじゃないの? 恋人のジュンコさんから妊娠を聞かされて、自分の名前から、令の字を使って。ジュンコさんは、そうできるなら他の名前を考えて、と言ったでしょう。でも、お父さんが急に亡くなった。それで変えてもらえなかった。父親が考えた名前は形見になってしまって、変えるのは忍びない。だから、漢字を残して読み方だけ変えた」
「ふみちゃん、どうしてそう思うの? 名前を変えてほしかったのに、変えられなかったって、何?」
「れおくんのお母さんのジュンコさんが、金山令正さんの恋人だったなら、ジュンコさんには父親の量吉さんがいたから。祖父と孫で、リョウキチとリョウキじゃ、間に立つジュンコさんにはさすがに不便でしょう」
「偶然のことだけど、似すぎていたってことか。リョウセイさんが名前を考えたとしたら、会ってもいない恋人の父親の名前まで、意識していなかった……」
ツクモは眉をひそめた。考え込んでいる。わたしは畳みかけた。
「こういう推測はどう? 令正さんはそのときには結婚していたし、そのまま亡くなってしまって、ジュンコさんはシングルマザーになるしかなかった。知り合いも少ない都会で、一人で子育ては大変すぎる。実家に戻ることにしたジュンコさんは、令正さんが赤ちゃんに考えてくれた名前の漢字は残したままで、読み方を変えて『れお』と読ませることにした。でも、六年生の秋、母子でお父さんの実家に引き取られたとき、もともとお父さんがつけた名前で名乗ることになったんじゃないの。金山さんは、中学に入る半年くらい前に、亡くなった令正さんの忘れ形見だということが分かって引き取られることになって、東京に来たって、桐江さんに聞かされたんでしょ、ツクモ」
「そうだ。確かに、そう言っていた……」
「金山のお祖父さんは、血筋とかにこだわる人なんでしょ。例えば、そのお祖父さんが、令正さんの遺志にこだわろうとした、ジュンコさんの実家の事情で名前の呼び方を変えるなんて気に入らなかった、ってことはない? 量吉さんとは、その後ほとんど絶縁状態だったみたいだし。戸籍には漢字しか載らないんだよ。読み方は変わったとしても法的な手続きはいらないって聞いたことある」
「ああ。父さんも聞いたことあるよ。大学時代の知り合いに、神職を継ぐ関係で、途中で漢字はそのままで名乗りを変えたやつがいた」
父がうなずいた。
「あいつのお祖父さんの性格とか考えると、確かに、ふみちゃんの言っていることは筋が通る。ものすごく、ありそうな話だ。……ふみちゃん。本当に、同一人物だと思う?」
ツクモの問いにわたしはうなずきかけて、思い直して首を横に振った。
「わからない。記憶に確信が持てない。でも、そう考えるとつじつまが合う」
わたしは当時ほんの七歳だったし、れおくんは十一歳から二十四歳になったはずだ。自分の記憶はあやふやな一方で、彼の外見は大きく変化する時期だ。
「れおくん、小さい頃、ウサギにかまれたことがあるわ」
唐突に母が言った。
「ウサギ?」
「小学校で飼ってた白と黒のウサギ。餌をあげようとして、金網の隙間から指を入れちゃったの。三針縫って、でも、指の腹にひきつれた跡が残った。ドクターはかなり気を付けて縫ったんだけど、本人が、抜糸の前に気になって傷口をひっかいちゃった、って言ってたかしら。大人になっても残りそうな、かなりはっきりした傷跡だった」
「そんなにひどいけがだったんですか」
尋ねたツクモに、母はゆるく首を横に振った。
「指先の傷だし、見た目の古傷以外の後遺症はまったくなかったから、大したことはないと私は思っていたの。けど、ジュンコさんが後々までずいぶん気に病んでいたから覚えてる」
「右手の人差し指ですよね」
うなるようにツクモが言った。
「金山は大型犬に襲われた時のだって周りに言っていた」
「大型犬とウサギじゃずいぶん違うような」
わたしが言うと、ツクモもうなずいた。
「そうだよ。その話を聞いた人間は何人もいたけど、周りは大型犬でそんな風に都合よく傷が残るものかと言っていたんだ。指ごと持っていかれかけるとか、犬歯がささって穴が開いたのがふさがったような傷じゃなくて、薄い歯で削るようにつけられた傷を伸ばして縫ったあとみたいに見えたから。でも、嘘つき呼ばわりするほどのことでもない。本人がそう言っているんだから言わせておけ、くらいで、まともに取り合っている奴はいなかった」
島木さんが戻ってきた。
「部下に、より子さんとリョウキさんが金山に来る前の身元について秘密裏に洗うように指示しました。写真、ありましたか」
島木さんは、ポケットからルーペを出して写真を見つめた。
「今と印象は違いますが、顔面の骨格の特徴がよく一致しているように見えます。私も、彼が中学生のころから何度かお見かけしていますし、一卵性の双子のご兄弟でもいるのでない限りはご本人と言っていいと思いますよ」
プロの視点はやはり違う。
「森崎令生が、金山令生だということはおそらく間違いないだろう。一連の事件の犯人かどうかということについて言えば、限りなく黒に近いグレー。最後は本人に聞くしかないけど、もう、本人に当たってもいいだけの情報は揃えたといっていい」
ツクモは険しい表情で、口を引き結んだ。














