92 敵のねらい
なんとなく落ち着かない食事の後で、父は自分でお茶を淹れると言い張った。だが、けがを一番甘く見ていたのは父本人で、あまりに足元が危なっかしかったので、結局母が急須を取り上げて父を座らせるという一幕の後、話し合いが始まった。
「自転車の件は、どういういきさつだったんですか」
島木さんが尋ねる。
「今日は、祭りの打ち合わせがあって、僕は氏子さんの家に行こうとしてたんです。ちょっと耳が遠い人なので、電話より直接顔を見て話をした方が伝わるんですよ。そこを下ってすぐの集落の中なので、自転車のほうが小回りがきく。それで自転車を使ったんです」
「家を出たのは何時ころでしたか?」
「五時くらいだったと思います。スマホだけポケットに入れて出かけたんですが、下り坂でスピードが出掛かったときに、ばちんと音がしてブレーキワイヤーが切れてしまいましてね。足で止めようとした時に、たまたま路面に小石が落ちていてハンドルを取られて転んでしまった次第で。ひどい捻挫程度かなと思ったんですが、どうにも痛むし、自転車も放置するわけにはいかないしで、妻に電話して迎えに来てもらうことにしたんです」
父は母を見た。肩をすくめて、母が続きを引き取る。
「私は職業柄、足首の腫れ具合を見て、捻挫よりもう少し重いなと思いました。とりあえず夫と自転車を夫の車に乗せて、集落の医院に行ってから、私だけいったん自転車を置きにここへ戻ったんです。松葉杖になるか、車いすになるかわかりませんでしたが、自転車があると車に乗せられない可能性がありましたから。その後は、診察してもらって帰ってきたわけですが」
「これ以前に自転車を使ったのはいつですか?」
二人は顔を見合わせた。
「そうだなあ。集落を超えてふもとまで出るときや、日中の暑すぎるときは車を使いますから、僕はずいぶん久しぶりですかね」
「私も、普段は車だもの。秀治さんの前は郁子じゃない?」
「わたしが使ったのは先週、いや、先々週だよ」
母の視線に、わたしも答えた。
「試写会の前の週は、ほとんど毎日、自転車使ってたかも。お祭りのことでそれこそ氏子さんにあれこれご相談に行ったし、そのときにおすそわけの野菜をあげるから後でおいでって言ってもらって、夕方出直したりもしたし。その時は特に気になることはなかった。試写会の後は家に引きこもって古文書を読んでたから、今日が久しぶりの外出だったんだ。でも、ふもとまで買い物に行きたかったから、自転車はやめて、お母さんの車を借りたの。ツクモに、自転車は集落の中までにするって約束してたし」
「となると、仕掛けられたのはおそらく試写会の後から今日までの間でしょうが、それ以上絞り込むのは難しいですね。まさか、神社の入り口に防犯カメラを付けたりもしていませんよね?」
島木さんは一縷の望みを掛けたように尋ねたが、父は首を横に振った。
「お賽銭泥棒だって、こんな無名の田舎の神社には来ませんから。来たところでどうせ、ここまで上がってくるガソリン代の方が高いくらいですよ」
「ご神域のことが世の中に知れると、必要になってしまうかも知れませんよ」
ツクモが口を挟んだ。
父はツクモを見た。
「どういうことですか」
「敵が神社に執着している理由が、ご神域にあるのではないかと思っているんです」
今度はツクモが説明する番だった。
「こちらで参拝客にお授けしている虫除守の中に入っているお香は、ご神域で採れる植物で調合されていると言っていましたよね。その中に、どうも、これまで知られていない植物が含まれているようなんです。おそらくその植物が原因で、あのお香は、まれにアレルギー反応を引き起こすらしいこと、ある種のアルカロイド――その中でも、濃度や使い方によっては有毒になりうる成分が含まれることが、うちの研究所の分析で示唆されています」
「有毒、ですか?」
父は驚いたように目を見張った。
「この一袋では大した問題にはなりません。でも、大量に集めてアルコールで処理したり、火であぶった煙を継続的に吸い込んだりすると、何らかの害を及ぼす可能性があります。そうなると、ちょっと難しい問題を抱えることになりかねないのではと」
「アレルギーのことは、郁子に先日少し聞きました。研究所の方のご家族に症状が出たんですね? 成分表示のようなことをした方がいいのかどうか、考えていたところだったんです。でも、有毒物質が入っていたなんて」
「そんなに大した量ではないですし、研究所でも今日やっとわかってきた情報なんです。ですが、これも、相手側に知られれば脅迫の材料にされるかもしれない。有毒成分が入っているからと、興味本位の輩を煽り立てるようにインターネットで炎上させられれば、大変な騒動になるかも知れない。たとえば、コカの葉に含まれているコカインも、アルカロイドの一種です」
「でも、散虫香は毎年決まった量しか作れませんし、そのほとんどを毎年決まった方にお授けしているんです。大量に集めてどうこうしようと言ったって、そもそもそんなにお渡しできませんよ」
「そうです。つまり、下手に話題になってしまうと、その植物を求めてご神域に直接忍び込もうとする輩が出るかもしれない、ということです。ネットの情報を真に受けて、未知のナチュラルドラッグに面白半分で手を出そうとする趣味の悪い人間にとって、ご神域は尊重すべきという認識はないでしょうから」
「そうか。確かにそれは厄介ですね」
父は腕を組んだ。
「アレルギーについては、健康被害が出たら申し訳ないし、いくら伝統で作ってきたものと言っても責任を免れられないのではないか、という認識はあったんです。ですが、そういう騒動になると、さらに困ったことになる。でも、そんな騒動を起こすのが敵の目的なんですか。それこそ興味本位の輩が面白半分に騒ぐ程度で、実際には誰も得しないじゃないですか」
「いや、私だったら、新種として植物や昆虫を発見し、発表する名誉であるとか、その植物の成分が薬品や何かに応用できるかもしれないとしたら、その研究に先鞭をつけるメリットであるとか、そういう価値を真っ先に考えます。ですが、肝心の植物や昆虫はご神域に守られている。これにどうしても手をつけたいとなったら、宮森家を脅してでもその許可を取りたい、と血眼になっている人物がいるかもしれない、ということなんです。お守りの成分の問題は、訴訟リスクやネットでの炎上リスクを勘案すれば、宮森家を脅す材料としては十分すぎるくらい十分です。その上、怪我をさせるくらい、手荒な小細工までしてきたということではないかと」
「脅迫までして許可なんてとらなくても、羽音木山の回り全体を電気柵で囲ったりしているわけじゃないんだから、忍び込んで植物でも昆虫でも盗んじゃえばいいんじゃないの? うちだって、見張っていられるわけじゃないんだし、防ぎようがないよ」
わたしが口をはさむと、ツクモは首を横に振った。
「標本の採取地を正確に記載することは、新種を発見した時の論文にとってすごく大事な問題だ。その生息地が七曜神社の私有地の中に限られるなら、その植物なり昆虫なりを持ち出した時点で盗みということになる。これを訴えたら、裁判は相手が負ける公算が高い。そんなケチのついた研究では、すぐにその後の商業利用に踏み出せる企業は多くないだろう。つまり、土地の所有者である七曜神社が協力した、という形ができないと、羽音木山の新種を公に発表することは難しいんだ」
「そういうことか。その見込みが正しければ、表向きは研究協力依頼、内実は協力しないと大変なことになるよという脅しが僕のところに来るということなんですね。それが犯人のねらいだと」
ようやく合点がいった、というように、父が言う。島木さんがうなずいた。
「おそらく、ここまでなりふり構わない嫌がらせを始めた以上、ほどなく、その段階に進むはずです」














