90 父のけが
スズムシがどこに潜んでいるかわからない車にとりあえずロックを掛けて、家の中に入ると、明かりもついていない。母は外出しないで家にいると言っていたはずなのに、と怪訝に思って、スマホをもう一度チェックすると、母からメッセージが来ていた。
『今どこ? すぐ帰れる?』
その数分後に、またメッセージ。
『運転中かな。お父さんが自転車で転んでけがした。お父さんの車で病院に連れて行くから、帰ったら留守番してね。ご飯の支度、お願い』
残された時刻表示からして、おそらく、ツクモと通話していた間だ。今から三十分くらい前、わたしがスズムシに襲われて、立ち往生していたころ。そこから帰宅するまで、母の運転する車とすれ違っていないということは、おそらく、集落の医院にいるのだろう。
集落からふもとの町へ降りるルートは反対側にもあるが、そちらは舗装があまりよくないのと、降りたところから中心街へのアクセスが悪いので、住人にはほとんど使われていなかった。今となっては事情を知らずにカーナビの情報のみに頼って抜け道を探して乗り込んでくる車が通るだけの道である。
『今家に着いた。お父さん大丈夫?』
母にメッセージを送ると、すぐ返信が来た。
『足首、骨折だって。手術することになりそう』
『マジで? 大変』
『足だけで、本人はピンピンしてるけどね。ここではできないから、M市民病院の整形外科に入院。明日だって。今日はいったん帰るよ』
『どのくらいかかる?』
『うーん。検査ももう少し追加でやっておくみたいだし、混んでるし。一時間以上かかるかな』
ということは、ツクモたちのほうが先に着くだろう。父が帰ってきたとき、ツクモがいて、父がまたへそをまげると困る。先に母に言っておいて、父の対応を任せた方がよさそうだ。
『わたしも変なことがあった。お母さんの車の中にスズムシが出た』
母は大きなクエスチョンマークを抱えたスナドリネコのスタンプを送ってよこした。最近お気に入りのキャラクターだ。
『帰り道、羽音木に上がる途中で突然、大量に。虫のことだからとっさにツクモに電話で相談したら、誰かのいたずらというか、嫌がらせかもしれないから、調べさせてほしいって。今から来てくれることになった。お母さんたちより先に着くと思う』
『あら、ご丁寧に。ありがたいわね。お父さんの方は心配しなくていいよ、ちゃんと言っとく』
察してくれた母にほっと胸を撫でおろしつつ、わたしは『お大事に』という吹き出し付きのろくろっ首のスタンプを送って、やり取りを終わらせた。
夕ご飯、どうしよう。生真面目なツクモの性格上、ここまで来て、父と話をしないで先に帰るなんて考えられない。
ということは、父の機嫌を少しでも改善するために、夕食はいつでも食べられるように準備しておく必要があるだろう。島木さんとツクモを入れて、大人、五人分。今からとなると、できることは限られる。
ツクモは二回目のような気もするけれど、この際仕方がない。
わたしは急いで買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、五人分よりも多めに見積もって米をとぎ、一番大きい鍋を出して、この時期の困った時の定番にして父の好物である、夏野菜カレーを仕込み始めた。
◇
カレー作りの主な作業が終わって、あとは煮込むだけになったころ、表で自動車のエンジンの音がした。いったん火を止めて、庭先が見える窓に近寄る。
ツクモが以前も会社から借りてきていたコンパクトカーだ。運転席から島木さん、助手席からツクモが降りてきたのを見て、ほっとしたわたしは、庭に走り出た。
「ツクモ! 島木さん!」
わたしの声に、すぐにツクモがこちらを見た。
「ふみちゃん!」
両手を差し伸べて、小走りに近寄ってくる。欧米式にハグが来るのか? と身構えたわたしの予想とは裏腹に、その手はふわりとわたしの頭に着地して、髪をわしわしとなでた。
「無事でよかったー! 頑張ったねえ」
すっかり小さい子扱いである。今回は本当に助けてくれたから、まあいいんだけど。
「大変でしたね。車、どちらですか?」
島木さんも声を掛けてくれた。
「そっちの、家の横手です。今、キーを持ってきます」
手袋をつけ、懐中電灯を片手に車内を覗き込んだ島木さんは、ほどなく、助手席のシートの下の空間から菓子折りの箱のようなものを引っ張り出した。
「これですね」
寝ぼけたようにのんびり動くスズムシが二、三匹と、封筒のようなものが入っていた。
「ご丁寧に、お手紙までつけてよこした。なめたやつだ」
封がされていない封筒から、島木さんはコピー用紙を引っ張り出す。
『祭りの神事を中止せよ。さもないと奥谷の祟りを招くだろう』
「今度は、神事?」
わたしは島木さんの手元を覗き込んで、眉根を寄せた。
「神事。どっちだろう。ふみちゃんパパがやるほうと、御鈴祓い」
ツクモも首をかしげた。
「わざわざ、奥谷の、って言うくらいだから、お父さんがやる秘儀のほうかな。でも、祟りがあるから神事をやめろって、めちゃくちゃ。普通、祟りを鎮めるために神事をするんじゃないのかなあ」
「その辺の理屈にはこだわらない相手のようですね。つまり、相手は祟りなんか信じていないってことでしょう」
「うちをおどす方便ってことね。祟りかあ。便利な脅し文句。お父さんのけがまで、祟りって思い始めたらキリがないもんね。……あ、でも、お父さんがけがしたとなると、神事どうするんだろう」
半分独り言で呟いたわたしの言葉に、ツクモと島木さんが揃って振り返った。
「ふみちゃんパパ、けがしたの!?」
「いつですか? 状況は?」
二人そろって、口々に違う質問をする。
わたしは両手を上げて、二人を押しとどめた。
「祟り関係ないと思うよ。さっき、自転車で転んだって。今、お母さんが病院に連れて行ってる。足首の骨折で、手術することになりそうだって」
島木さんが深刻な顔になった。
「自転車はどこにありますか?」
わたしは自転車を普段置いている、物置の片隅を見た。乗りなれた紺色の車体。父はそれどころではなかっただろうから、母が戻して止めたのだろう。壁に平行にきちんと停車されている。
「あれだと思います。わたしが普段、通学に使ってるやつ」
うちでまともに動く自転車は一台だけだ。
「拝見してもいいですか」
「どうぞ」
島木さんは、近寄って調べ始めた。ペダルを手で回したり、チェーンの張り具合を確かめたり、ブレーキレバーを握ったり。
ほどなくして戻ってきた島木さんは、さらに深刻な顔になっていた。もともと彫りが深く厳しい顔立ちである。凶悪な面相と言ってもいいレベルに怖い顔だった。
「ブレーキワイヤに、半分くらい切り跡があります。途中まで切って、あとは荷重がかかった時に自然に切れるようにしてあったようだ」
「わざとってこと?」
ぞっとした。顔から血の気が引くのが分かる。
「そう。この車だって、ふみちゃんがスズムシに驚いて対処を誤れば、道路わきに転落する危険があった。お父さんのほうは実際に重傷だ。やりすぎだ」
ツクモも険悪な調子で言った。














