09 イエローカード
父はアルコールを飲んでしまったので、わたしは父の車のキーを借りて、ツクモを追い立てて外に出た。そのまま放っておいたらいつまででも父とおしゃべりしていかねないので、ツクモが車を置いてきたところまで送っていくことにしたのだ。さすがに、夜の山道を歩いて下りろというのはどうかと思うし、すっかりツクモを気に入ってしまった父が許さないだろう。
わたしがバイトをしようとしまいと、少なくとも古文書の調査で再訪するし、その時に借りた衣類を新品で返すと父に約束して、ツクモは助手席に乗り込んだ。
慣れた道とは言え、神社から集落までの道のりは、対向車が来れば、すれ違いできるポイントで待つか、どちらかがバックしなければならない山道である。わたしはハンドル操作に集中し、ツクモもあまりしゃべらなかった。
コミュニティスペースの駐車場まで来て常夜灯の下に車を停めたとき、彼は不意に言った。
「ずっと思ってたんだけど、この車ではっきりした。ふみちゃん、いい匂いがする」
何じゃそりゃ。
こんな雑な手管でも、口説かれたらぼーっとなって、バイトを引き受けるとでも思ってるのかな。
「その手にはのらないよーだ」
わたしはべーっと舌を出した。
口説くにしたって唐突すぎるし、このルックスに家庭環境で、何不自由なく異性交遊関係をえらべそうなツクモが、山の〈見た目ナナフシ〉娘に興味を持つ理由がないではないか。本物のナナフシならいざ知らず。どうせ他に魂胆があるにきまってる。
「その手って何の手?」
彼は怪訝そうに眉を寄せた。口説いたつもりではなかったらしい。なら、どういう意味だ。
「ふみちゃん、さっきのお守り、まだ持ってるの?」
「持ってるよ」
夜になるとこの辺は涼しい。車のエアコンをつけるより少し窓を開けた方が気持ちいいので、家を出る前にもう一度ポケットに入れたのだ。
「見せて」
出してやった。
「自分の分買えばいいのに。次来たとき、言ってくれれば社務所でお授けするよ?」
本来は、お守りは『買う』とは言わないのだが、説明が面倒なのでそう言ってみた。
「そうする。成分分析したら、ふみちゃんパパ、怒るかなあ」
「自分の手元のものをどうするかは、持ち主の自由でしょ。気にしないよ。でも、特許の登録だったかな? なんかそういうのは、ひいおじいちゃんが戦後すぐのどさくさでどうにか通しちゃったらしいから、類似品を売るのはだめだよ」
わたしは釘をさした。
ツクボウほどの大企業が相手では、裁判になったら負けるだろうが、零細の家庭内手工業にも一分の誇りはある。
「そんなことはしないよ。単純に興味があるだけ。ビジネスにするんなら、ちゃんと仁義は通すよ、親父も兄貴も」
こちらにも、入社を嫌がった次男坊なりに、なにがしかの自負と誇りがあるようだった。
ツクモは守り袋を軽く揉んだ。わたしにはお馴染みの、植物のすうっとする香りが立ちのぼる。
「いい匂いの正体の、半分はこれ。すごくいい匂いだし、知ってる匂いもはじめての匂いも入ってる。でも、これだけじゃないはずなんだよなあ」
シートベルトを外す。
ツクモが降りるものだと思ったわたしは、彼の巨大なリュックサックを後部シートに置いていたので、ドアロックを外そうと、右手をボタンに伸ばした。その瞬間だった。
中腰になったツクモはドアの方ではなく、運転席のわたしの方に身体を向けた。予想外の動きに戸惑ったわたしの肩に両腕を回して、わたしの髪に顔を寄せるようにしてぐっと抱き寄せる。
驚きすぎて声が出ない。
自分の心臓の音だけが、ばくばくと耳に響く。
抱き寄せたときと同じくらい唐突に、ツクモは腕を解いた。
「やっぱり、ふみちゃんだ。今急に、香りが強くなった」
「えーっと、あの、何の話?」
「不思議な匂いがする。今までかいだことないけど、いい匂い。これ、何かなあ。オレの直感は何かがあると告げているんだけど。心当たりはある?」
「ない。体臭だって、指摘されたことないよ」
憮然としてわたしが答えると、ツクモは首を傾げた。
「いわゆる普通の体臭じゃないよ。それならわかる。鼻はいい方なんだ。ぜんぜん種類が違うし、そもそもこのくらいだと、たぶん他の人は気がつかない」
似ている何かはあるはずなんだけど、と独り言のようにぶつぶつ言っている。
口説いているわけでは全くない。女の子が言われて喜ぶはずがないフレーズが容赦なく挟まっている気がするし、何より、今こいつはわたしの反応には一切興味がない。それだけはわかるけれども、ではなぜ、こんな非常識な行動に出ているのかは全くわからない。なんなんだ。
こつん、とフロントガラスに何かが当たった。飛んできた何かがガラスの上をちょこちょこと歩き始める。緑色のよく見るカナブンだ。また音がする。今度は茶色っぽいの。見上げると、常夜灯には蛾も何羽か集まってきていた。
わたしは、まだばくばくしている心臓をなだめつつ、あえて冗談っぽく切り返した。
「なんだかよくわからないけど、ツクモはわたしを口説くつもりじゃないんだよね? もしそうだったら、ツクボウのパワハラ相談窓口は臨時アルバイトも行っていいのか聞いておかないといけないところだよ、公私混同もいいところだもん」
「それは、バイトの話、引き受けてくれるってこと?」
ツクモは嬉しそうな顔をした。いや、今の流れでどうしてそうなる?
「条件次第。相談窓口の件も含めてね。今みたいなのは、無しにしてほしいなあ。通報したら即アウトじゃないの?」
「何のこと?」
ツクモはきょとんとしてわたしを見返した。あれ。こいつ、本当にわかってない。
「ふつう、今日会ったばかりの人間を、夜の車内で同意なくいきなりハグしたりしないと思うよ。ハラスメント、イエローカード。あ、顔なじみだったらいいってわけじゃもちろんないけど」
多分、自分のしたことを意図とは全く違う側面から指摘されて驚いたんだろう。きょとんとしたまま一拍あったけれど、彼はうなずいた。
「わかった。それは、そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん」
素直に頭を下げた。では本当に何のつもりだったのか。そこは結局よくわからずじまいになってしまった。
匂いがどうとか言ってたけど、さっぱりわからない。わたしには、ツクモが近くに来るたびに感じていた、よく知っているシャンプーと石鹸の匂いの向こう側にかすかにある、ちょっと甘いバニラみたいな匂いしかかぎとれなかった。それは確実に、わたし由来ではないはずだ。
「バイトの件、なるべく早く連絡する。……今日は、何から何まで、ありがとう。あの場所にふみちゃんがいてくれて、本当によかった」
「わたしも救急車まで呼ばなくて済んでよかったよ。目の前でどうにかなられたら、後生が悪いもんね」
ツクモは車を降りて、リアシートからリュックサックをおろし、一台だけ止まっていたハッチバックのコンパクトカーに積み替えてから、自分も運転席に乗り込んだ。あれが借りてきたという社用車か。
ツクモの車が、わたしに先に出るようにと小さくクラクションを鳴らして促した。わたしが帰りの山道へ進路を取ると、バックミラーに下りの方向に曲がったツクモの車のリアが見えた。ホタルのように二回、ハザードを光らせて、コンパクトカーはゆるゆると坂道を下っていった。
わたしは、自分に軽く気合いを入れて、前方の山道に注意を集中させた。
ドラマの始まる時間には、急いで帰ってももう間に合わない。でも、先週からあんなに楽しみにしていたはずのドラマが、今この瞬間にはそんなに気にならなくなってしまっていることに気がついて、われながら驚いた。
いろいろありすぎた一日のせいだ。きっと。