89 飯田の研究室日誌(5)幽霊のデータ
それから一週間以上たった週明けのことである。
製薬部門の知り合いから、植物片の成分分析の結果が戻ってきた。メールでも社内便でもなく、本人がきたので、飯田は面食らった。
年長の女性研究者は、さっと研究室内に視線を走らせてから、肩の力を抜いた。
「今ここ、一人だよね?」
「はい」
「出所については何も聞かずに他言無用で分析しろなんて、絶対ヤバい中身だろうと思ったんだけど、やっぱりじゃん。残業ついでに一人になった時間に作業するようにしてたから、遅くなっちゃったのは悪かったけどさ。とりあえず、社内サーバにはまだ記録付けてないけど、扱い要注意だよ」
手に持った封筒をリズミカルにぽんぽんと反対の手に打ちつけながら、彼女はぼやくように言った。
「どういうことですか?」
「まず手始めにアルカロイドのスクリーニングやってみたんだけどさ。これを大量に集めてどうにかすると、最悪、毒か向精神作用で、薬事法に引っ掛かる危険があると思う。見た感じ、全部植物由来みたいだし、この程度の濃度だとすぐには問題にならないかもしれないからまだマシかなって思うけど」
「というのは?」
「人工的に成分を添加したような、不自然な形跡は見られないってこと。葉っぱ系のヤバいやつは、合成麻薬を添加してるやつもあるから。そこまでのやつじゃない。とはいえ、植物自体がアウトな場合もあるからねー」
「一目見てヤバいなって感じですか」
女史はすっかり、脱法ナチュラルドラッグ――そう謳われているもののうちには、実は脱法どころかごりごりの違法のものもあるわけだが――を持ち込まれたと思い込んでいるらしい。つまり、そういう疑いを持つに足る結果が出ているということだ。
「一昔前だったらこの程度は大したことなかったかもしれないけど、今、色々うるさいからね。ネットでかじった生半可な知識で知ったかぶりして炎上させてくる素人も多いし、中途半端に関わりたくはないレベルの成分が出てるのは事実。飯田君、色んなところに顔がききそうだけど、変な売人から買ったりしてないよね? あ、答えは聞きたくないから言わないで」
「いやいやいや。今も昔もしてませんよ、そんなこと」
飯田は憮然として否定した。
「でも、研究としてはとても興味深い。厳密に種類を同定できないものがいくつかあって、気になるんだよね。この原料が何かってのも、全然わかんないし。細かく検討していったら、私が今まで見たことないのが出てくる気もする。超絶激レアものの予感。コンプライアンスがちゃんとクリアできるなら、ぜひ、もうちょっと調べさせてもらいたいけど、正式に扱うのに出所不明は問題だよ。だから、そのデータは、今のところ幽霊。この世には存在しないことになってるからね。こっちは今のところ見なかったことにするから、扱いはそっちで決めて。社内サーバに記録上げてほしくなったら言って」
科学者としての好奇心と、社会人としての保身が拮抗した複雑な表情で、彼女は飯田の手にサンプルと書類が入った封筒を押し付けた。
「厄介なことをお願いしてしまってすみません。詳しいことはまたいずれご報告します。そのときに、追加の調査研究が可能かどうかも、お伝えできると思います」
「こういうのは結局、ヤバいやつほど面白いから、いいけどさあ。正式に扱えることになったら、絶対呼んでよね」
封筒を返してしまえば、好奇心がまさるらしい。彼女はにやっと笑うと、あいさつ代わりに片手をひょいと上げて、部屋を出て行った。
アルカロイド。植物由来のある種の化学物質の総称であるが、種類によっては強い毒性を示す。彼女がした分析のひとつが、まず、このサンプルにどんな種類のアルカロイドが含まれているか、のあたりをつける作業だ。それこそ、違法薬物の摘発の時などにも使う手法である。何か、普通ではない結果が出てくる可能性は飯田も予想していたが、さて、どんな種類が出たか。
自席に戻って、書類に目を通す。几帳面な先輩は、専門が違う飯田もわかるように重要な箇所にマーカーを入れたり、付箋でコメントをつけたりしてくれていた。
「うーん」
たしかに、これは要注意物件の気配がプンプンする。その性質をはっきりさせるためには、追加でいくつかチェックをしなくてはならないだろうが、すでにいくつかの指標で気になる値がでていた。原料植物が特定できないことも、先輩はかなり気になったようだ。
(生半可な知識で知ったかぶりしたヤツらのせいで、ネットで炎上しかねない、ね)
この辺は、法務にも化学にもそれぞれプロフェッショナルがいて、経済的な基盤も盤石であるツクボウのリスクというより、小さな組織である七曜神社にとって、より深刻にとらえるべき問題だろう。そもそも、ツクボウは偶然手に入れたサンプルを分析しただけで、この植物片をお守り袋に詰めて、対価をとって客に渡していたのは七曜神社なのだ。
(これが、宮森家の親父さんの突破口か)
同時に、もし敵がお守りをどうにか入手して同じ分析をしていたら、即、まずい事態になりうる。
昨日、島木と話をしたときにも、侵入犯に関してはまだ確実な証拠が押さえられていないと言っていた。今日、ガソリンスタンドの百メートルほど先にある物流会社の配送拠点に、道路側に向けた防犯カメラの映像をもらえないか聞きに行くと言っていたが、どうなったか。
(文史朗が行ったら、まあ出してもらえるだろうとは思うけど)
本人がどう思っているかは知らないが、ここに所属している人間は、文史朗が今の何でも手伝ってどこにでも顔を出す立場で入社したのは、いずれ、所長としてこの研究所を切り盛りすることになるからだろうと予想していた。経営側の人間なのだから、当然だ。そのことに対して、博士号――Ph.Dどころか修士号も取っていないやつが上司になるかもしれないなんて、と反感を抱いていた人間が少なくなかったことも飯田は知っている。
だが、本人がここに来てから、確実に風向きは変わった。身分がどうであれ、あいつには能力がある。骨惜しみもしない。この研究所で扱われている多岐にわたる研究分野の、どこの手伝いでも、差別したりせず本気で面白がるし、少々の嫌味を言われても、どこ吹く風でにこにこして受け流す。まあ、そのうちの半分以上は嫌味だと認識できていなかっただけだとは思うが。
何より、いったん懐に入ってしまえば、あいつはなんだか手助けしてやらないといけないとこちらに思わせるような、天性の人懐っこさとかわいげがある。お守りの成分分析をしてくれた製薬部門の女史など、アンチからシンパにさっさと鞍替えしたうちの一人だ。そういう人間は確実に増えてきていた。
地元の協力を取り付ける場面でも、あの面倒をみてやりたくなるかわいげという特性はきっと役に立つはずだ。
文史朗に、研究所に戻ったらこちらに立ち寄るよう社内メッセージを送ってから、飯田は、この頃日常の業務のほかにもう一つ課題になっている案件の資料を取り出して睨んだ。
鴻巣先生から頼まれたものだ。この件に関しては、誰にも話していない。まだ途上だが、飯田にはもう結果の予想はある程度ついていた。
(この結果、どう扱うかな)
最終結果が出るまで、もう数日かかる。その間に、飯田は腹をくくる必要があった。
◇
夕方になって立ち寄った文史朗は、飯田の説明を受けて顔を曇らせた。
「これは、ふみちゃんパパ、知らないとまずいことになるかも」
「だろ。アレルギーの件もある。一子相伝もいいけど、どこかで、お守りの成分に関しては科学的に把握して対応を考えておかないと、足元をすくわれるぜ」
「うん。やっぱり、ちゃんとお話しにいかないと。ふみちゃんパパが困るとふみちゃんが困る」
世紀の一大事のように重々しくうなずく。その顔を見ていると、ついつい好奇心がうずいて、飯田は尋ねた。
「一応聞いとくけど、おまえ、親父さんを怒らせたとは言ってたけど、宮森さん本人は怒らせてないよな?」
「うー。多分。いや、ちょっと怒られた」
「なんでだよ」
「ええと、オオミズアオを捕まえたくてね」
続く文史朗の説明に、飯田は吹き出すのをこらえるのに必死だった。
「で、宮森さんはどうしたの?」
「その時は調子を合わせてくれたけど、後で、他の人が聞いてないときに怒られた。それはちゃんとお互いに好きですって言った人がやることだって」
「うん。精神年齢中学生にレベルを合わせてくれたド正論の説明。さすが宮森さん、よけいな小細工がないね」
「何だよ、中学生って。……だから、迷惑かけたなあって反省はしてて。それを指摘されたときにちゃんと謝って、もういいよ、とは言ってくれたんだけど」
「それな、どうにかなりたいんだったら、お父さんが怒るのやめてくれてから、二人っきりの時に、もう一回ちゃんと言ってみ。オオミズアオを捕まえるためじゃなくて、好きだからこうしたいって」
文史朗はものの見事に首筋まで真っ赤になった。
「ど、どどどうにかなりたいって、そんなそこまではまだ思ってないっていうか」
「でも、ついつい手をつなぎたくなるし、背中に触りたくなるし、オオミズアオがどうとか言い訳してるけど、ハグがダメなら見つめあいたくなるんだろ」
島木と昨日話したとき、ついでの雑談で、パーティでの文史朗の様子を聞き出したのだ。島木もにやにやしていた。島木のほうが築井家と付き合いが長いので、中学生や高校生の頃の文史朗も知っている。そういう人間から見ると、また感慨深いのだろう。
「飯田さんのそういうところ、オレ嫌い! すぐ人をからかう」
「別にからかっちゃいないだろ。お前は口実見つけて宮森さんの周りをちょろちょろするんじゃなくて、ちゃんとした方がいいと思う。そういう、兄貴分からの忠告なだけだよ」
「だってふみちゃんは、オレがハグするの嫌だから、感情反応が出てるんだよ。そんなの絶対無理だって。散々迷惑かけてるのに、まだ友達だって言ってくれてるだけでも奇跡的なんだから」
頑固に口を引き結ぶ。
「あー、それね」
飯田は笑いを噛み殺した。しかつめらしい顔をなんとか作って言う。
「まあいいや。どのみち、この案件がちゃんと片付いてからでないと、動けないしな。さっさと解決するぞ」
「そのためにってわけじゃないけど」
ふてくされた顔で、それでも文史朗はうなずいた。
「島木さんに、さっきの会社でもらった防犯カメラの映像、今見てもらってるんだ。そこでわかったことをちゃんと聞いてから、ふみちゃんに連絡してみようと思う」
◇
飯田さんの記憶によると、その会話が、スズムシ事件の日の四時半ごろだったのだという。
この話を聞いたのは本当にずいぶん後になってからだ。研究所での諸々は、改めて問いただすまで、わたし、宮森郁子の耳には届かなかったのである。
事件解決のために、飯田さんと島木さんがずいぶん尽力してくれていたことは承知している。そのことについての感謝を割り引くつもりはもちろんないけれど、この話を本人から聞いた時、いい年をした大人が人をダシにずいぶん勝手なことを言って、と、わたしが飯田さん(と島木さん)に少々腹を立てたのは言うまでもない。














