86 飯田の研究室日誌(2)セキュリティ・コード
土曜日のこの時間だと、カフェテリアは開いていない。飯田は部屋の隅にある電気ポットで湯を沸かし、インスタントコーヒーを二人分作って、一つを文史朗の目の前に置いた。
「飯田さん、また甘いの飲んでる。オレは甘くないほうが好き」
出されたカップの中を覗いて、文史朗はぶつぶつ言った。
飯田が常備しているコーヒーは、スティックタイプで、砂糖とクリームパウダーがあらかじめ混ぜこまれているものなのだ。カフェインを補給したいというより、食事に行く余裕がないときに、とりあえず空腹をしのいで脳を動かす糖分を補給する目的で飲むせいだ。
「うっせ。ここにはこれしかないんだよ。だいたい、お前、トイレットペーパーみたいに白い顔してんぞ。朝飯食ってないだろ。糖分とっとけ」
食欲なんかないんだけど、と言いつつ、文史朗はおとなしくカップの中身を一口だけすすった。
「で、お前は何を考えてる」
「セキュリティ・コードについて。研究所に侵入した手口について検討していた島木さんたちが、昨日までに突き止めたんだけど、いつの間にか、虹彩認証のルーティンが切られてた。指紋認証だけになってたんだ。やったのはおそらく、急に来なくなった、セキュリティカードの発行も担当していたITセキュリティ担当の人。指紋だけでも普段なら十分だし、虹彩認証が切られていることを示すエラーメッセージを出すルートが巧妙にバイパスされてて、なかなか気が付かなかった」
「それで?」
「なぜ、虹彩を切ったのか、ということ。虹彩と指紋ではどちらが突破されにくい鍵かと言えば、当然虹彩だ。とはいえ、指紋だって、そんなに簡単に偽造できるものでもない。使われたのはオレのパスに紐づけられている、オレの指紋だ」
「何か、心当たりあるのか」
「オレは入社前から、その手の技術に関しては興味があって、情報を仕入れてた。数年前、スマホの写真で指紋を読み取って認証を突破する手段にできるということがわかった、という記事を見てから、他人に写真を取られるときでも手のひらをレンズに向けないように気を付けていたんだ。もともと写真は嫌いだから、なるべく断るようにはしてたけど」
飯田はうなずいた。たしかに飯田もその記事は読んだことがあったが、飯田自身はSNSに写真を安易にアップしない程度のことしか気を付けていなかった。ま、こんなおっさんにレンズを向けてくる物好きはミユキちゃん――かわいい嫁くらいだ。その上、彼女も趣味と実益をかねて有名人のSNSを追いかけて見るのが好きなため、さまざまな炎上事例を知っていて、個人情報の管理には人並み以上に神経質なのだ。飯田が気を回すまでもない。
「ただ、それ以前のことを思い出したんだ。中高のころだ。しょっちゅう、オレにいやがらせをしては、驚いたり、慌てたりするオレを面白がって写真にとっていたやつがいる。撮られるのが嫌で、レンズの前に手をだして、顔を写されないようにしたことが何度もあった」
「……金山、か」
文史朗は唇を引き結んでうなずいた。
「あいつはいつも、最新機種で一番スペックの高いスマホを使っていた。当然、カメラの性能も、現行の汎用機種程度にはよかったはずだ。手がアップになるようなショットが、しかも複数枚あれば、指紋だろうが掌紋だろうが容易にデータを拾えただろう。それがあれば、おそらく、指紋認証のロックを外すのは簡単なんだ」
「うん。まあ、金山がやったという仮説を否定する根拠はないな。あいつならできただろう。ついでに言えば、ギリギリまで防犯カメラの死角を移動して、お前の部屋のロックが画角に入っているカメラにも顔が写らない角度で手早く犯行を終えているという、研究所の内部に詳しい点についても、あいつは有利だ」
「内部協力者がいた以上、図面は誰でも引き出せたとは思うけど」
「だとしても、お前に付きまとってしょっちゅうここに出入りし、建物内を実際に見ていた金山にはアドバンテージがある。お前の研究室の前までは何度も来てたじゃないか。お前も中には入れてなかったみたいだけど。図面だけではわからない、カメラの高さや備品の位置なんかもあるからな。内部を何度も見たことがある人間の犯行だという見方には矛盾がない」
文史朗はもう一口、甘いコーヒーを飲んだ。
「飯田さんには反論してほしかったんだけど」
「俺は、お前があいつを出入り禁止にしないほうが意外だったからな。あいつの嫌がらせは正直度を越していて、俺が見ていても気分のいいもんじゃなかった。今さらだけど、なぜそのままにしておいた?」
「ここの地域開放は、研究所設立の許可をもらった時に、地元の自治体と約束した結構重要な項目の一つなんだ。遺伝子やバイオの人たちは、場合によっては病原体になりうるウイルスや細菌の研究に従事することもある。バイオセーフティの認証も取ってるだろ。今のところ、あまり危険なものは扱わないように、レベルは低めだけど。だからこそ、普段から地域の人に出入りしてもらうのが大事なんだ」
「それで夏祭りとかカフェテリアの開放とかやってるってのは聞いてるけど」
地域協力行事は、内部の人間にはあまり評判がよくない。多くの研究員にとって、セキュリティの問題を心配しているというより、単に、年に数度とはいえ、行事のために研究の手を止めて協力しなければいけないわずらわしさがその原因ではあったが。
「マッドサイエンティストが研究所にいて、何か危険な秘密の実験をやって周囲の人を寄せ付けないようにしている、みたいに思われると困るんだよね。ここにいるのはごく普通の会社員で、商品開発にかかわるから秘密を守る必要はあるけど、きちんとセキュリティ管理されているし、地域と協力してやっていこうと思ってるってわかってもらうことが大事なんだ。いくら相手が金山と言えども、オレにたいしてちょっとした嫌がらせをしている程度なら、オレが我慢すればいい話だ。出入り禁止は前例になっちゃうから、よほどのことがなければしたくなかったんだ」
「はあ。そこまで考えてたのかよ。設立の許可って、お前、そのころまだ学生だろ」
「高校生くらいだったかな。父に色々聞いてたから」
「その理念を守った結果、盗難に遭ってちゃ、本末転倒だけどな。セキュリティ管理に問題があることが露呈したわけだろ。もし犯人が金山なら、早いうちに出禁にしとけば防げた可能性がある」
文史朗は渋い顔をした。
「それはオレが甘かったと思ってる。あいつを中途半端に出入り禁止にすると、あいつは今度は母にあることないこと泣きついて、もめごとを起こすと思ったから、面倒だったというオレの個人的な事情もあるから」
「お前の弱点がおふくろさんだもんな」
「天敵と言ってくれ。あれは何考えてるかわからない」
(その天敵をばっさり切り捨てられないから、弱点になるんじゃねえか)
そう思ったけれど、飯田は敢えてそこには言及しなかった。その弱点が文史朗の人間味でもあるのだ。
「ただ、動機がわからないんだ。今回のはちょっとした嫌がらせの域を超えてる。脅迫も何通も来ているし、侵入盗は嫌がらせというより、犯罪行為だ。今までと質が違う。今までは、あいつは自分の存在を誇示しながら、オレの目につくような嫌がらせを目の前でして、オレの反応を観察しているのが常だった。陰でこそこそするタイプじゃないんだ。だからこそ、わざわざ出禁にする必要性を感じなかったとも言えるし。それで、オレが間違ってるんじゃないかと思って。あいつがあまり好きじゃないから、あいつに罪をかぶせようというバイアスがオレの判断にかかっているんじゃないかと」
「動機ねえ」
飯田は腕を組んだ。本来それはそんなに重視すべきではない。重視すべきは物的な証拠と、できたかできなかったかの論理的な整合性だ。みんな、文史朗のように合理的な判断で感情のスイッチをオフにして行動できるわけではないのだ。魔が差した、とか、エスカレートした、とか、頭に血が上って判断を誤った、とか色々あるだろうと、凡人の飯田は思う。いろいろな状況証拠は、今や飯田にとってはほぼ何の疑いもなく、金山を犯人として指し示していた。
とはいえ、文史朗も飯田も同じ方向を向いていてはディスカッションにならない。反論が欲しい、と言っていた目の前の弟分の言葉を思い出した。
(多少はサービスしてやるか)
飯田は、文史朗の展開した仮説のほころびをたどろうと、目を閉じて今の話を反すうした。














