85 飯田の研究室日誌(1)三角紙の分析
これは、ずいぶん時間が経って、いくつかの点が心情的にも時効になった後で、わたしが飯田さんから聞いた……色々気になることがあって、状況証拠を詰め、吐かせた話と、ツクモのビデオカメラ並みの記憶力で再現された話を総合してやっと理解した、研究所での事態の推移である。
研究所でこういうことが起こっていた、とわかっていれば、わたしももうちょっとスズムシ事件にたいして違う反応ができたかもしれないけれど、あいにくその当時、研究所での動きをリアルタイムでわたしが知る手段はなかった。
話は、少し遡る。
◇
チャリティ・ガラがあった翌日の土曜日のことだった。一応土日は休みなのがツクボウの決まりだが、その日、飯田は実験の都合で研究室にいた。娘を朝一番に保育園に送って行ってからすぐ、八時半くらいの出勤だ。機器のチェックをしたり、消耗品の数を確認したり、という、朝のルーティンが終わらないうちのことだった。
「飯田さんいる?」
文史朗が研究室に顔を出したので、昨夜のことをしゃべりに来たのだろうと飯田は思った。
このごろ、人付き合いが好きではない弟分にしては珍しく、偶然知り合ったと言ってアルバイトの調査助手にスカウトしてきた地元の女子大生とずいぶん親しくなった。昨夜は二人でチャリティ・ガラに出席していたはずだ。色々なやっかいごとが絡んでの出席だったので、デートに誘ったとカウントするには残念ながらかなり無理があったが、文史朗にしては大変な進歩だったのだ。
「おう、昨日はどうだった。何かいいことあったか」
ところが、気軽に聞いた質問は、かなり固い表情で一蹴された。
「全然。それより、割り込みで悪いんだけど、最優先でこれの分析頼みたいんだ」
文史朗が取り出したジップ付きのポリ袋に入っていたのは、三角形に畳まれたパラフィン紙のようなものだった。その形に見覚えがあった。
「チョウの標本採集のやつか。なんつったっけ」
「三角紙」
すかさず言われた。見たまんまだった。
「これ、どうすんの」
「付着している揮発性の物質が何か知りたい」
「うち、科学捜査研究所じゃねえんだけど」
「とにかく、飯田さんにやってほしいんだ。他の人には頼めない」
文史朗がこんなに頑固な姿勢でわがままをいうのは、年に一度か二度しかない。そしてその時はたいてい、それだけの必要性がある結構重要な案件だということが、後からちゃんと判明してくるのだ。
理屈がその時は説明できなくても、無根拠に言っているわけではない。
「しょうがねえな。結果出たら、携帯に連絡するから来いよ」
よろしく、と言いおいて文史朗がさっさと部屋を出ていこうとするので、飯田は思わず呼び止めた。
「宮森さん、どうなった」
そもそも、彼の知る限り、文史朗があんなに気に入ってちょっかいを出している女の子はそのアルバイト嬢、宮森郁子が初めてである。
女性が寄ってこなかった、という意味ではない。むしろ、彼の外見や家庭環境、必要に迫られて身につけたらしい、周囲に折り目正しく接する外ヅラにだまされて、近づいてきた異性は少なからずいたようだった。
だが、そういう人間は、文史朗に「理想の交際相手」としてのふるまいを期待するし、自分の女性的な魅力をことさらアピールし、駆け引きしようとする。その一方で文史朗は基本的に男女交際にはほとんど興味がなかったし、駆け引きという概念は彼の行動レパートリーにはない。一度好きなこと――彼の場合は昆虫だが――にスイッチが入ってしまうと、かなり傍若無人なふるまいを平気でする。文史朗の方はそもそも受け身なので、目の前の異性より自分の興味関心が強い課題を優先させてしまうのだ。
そうすると、半分以上の女性がそのギャップに愛想をつかして引いてしまう。そこで引くのはまあ賢い方で、そうでなければ、文史朗が、相手から何を期待されているかを理解できず、しつこく付きまとわれることを面倒がって連絡を断ってしまう。
研究が恋人、という典型的なパターンに陥りかけていたところだったのだ。そもそも『恋人』以前に、こいつには仕事や学問を離れて普通にしゃべったり、一緒に行動したりする友達らしい友達がいたことがないのではないか、というのが飯田の見立てだった。学問畑には時々――それなりに、いるタイプである。文史朗の場合、かなり極端ではあるが。
そんな彼が自分から気に入ったのはどんな子だろうと思っていた。初回のフィールドワークで音を上げてしまい、逃げられるのではないかとも案じていたが、幸いそんなこともなかったらしい。研究所に連れてくると言ったときには、文史朗が彼女について立てていたとんでもない仮説に対する学問的な興味もさることながら、飯田としてはその人柄も気になっていたのである。
実際に会ってみると、彼女は、今まで文史朗の周りをうろうろしていた女子たちより確実に外見は地味なのだろうと思うが、すっきりした立ち居振舞いが印象的だった。文史朗に特段遠慮したり、何かの期待をしたりしているようではない。思った以上に芯が強そうで感じのいい子だった。
(ありゃ、気に入るわけだよな)
なんとなくわかった。今まで彼の周りにいなかったタイプなのだ。普通に対等の友達付き合いをしてくれる女の子、と言えば、珍しくもないように感じるが、文史朗の周りにはそういう人間がいなかった。
実際に一緒に話してみると、宮森はなんだかんだ言っても、文史朗の話をその内容に興味を持って熱心に聞いている。返す質問も的確だ。この時点でまずレアキャラだ。
文史朗が傍若無人な態度で自分の興味関心を優先させたり、あるいは不器用な感じでせっせと中学生レベルのちょっかいを出したりすると、宮森はもちろん驚くし、ぴしゃりと注意したり呆れたりはする。だが、その実、心底怒ったり嫌がったりしているようではなく、どこか文史朗の行動を受け流しつつ、面白がって観察している風でもあった。
文史朗の「天才とナントカは紙一重」の「ナントカ」の方ばかり見せられて、それを面白がれる時点で、彼女も実に変わっていると思う。
その上、彼女はかなり義理堅い。いったん縁ができた相手には最後まで付き合うタイプのようだった。
(相性は悪くなさそうだし、彼氏いないって言ってるし、脈はあると思うんだけどな)
というか、文史朗の場合、このチャンスをふいにすると、またしばらく学問の殻に引きこもって、対人面がおろそかになりかねない。
なので、飯田としては、二人が仕事を離れて一緒に外出したことで、何か少しは進展していたらいい、という期待もあったのだが、彼にはそんな浮いた様子は一切見受けられなかった。
(うーん、これは玉砕ってやつか)
だが、不機嫌そうな弟分の返答は飯田の予想とは大きくずれていた。
「ふみちゃんのお父さんが怒って、バイトやめさせるって言われちゃった」
「はぁ? 何だそりゃ」
だが、彼はそれには返事もせず、固い表情でへの字の口のまま、急ぎ足で立ち去ってしまった。
(……いったい何をやらかしたんだ、文史朗)
とはいえ、話す気のない弟分に口を割らせることは不可能である。飯田は、何はともあれ、渡された三角紙の分析を急ぐことにした。
数十分後、出力されたガスクロマトグラフィの結果を見て、飯田は愕然とした。すぐに、文史朗を携帯で呼び出した。
顔を見た瞬間に、まくし立てた。
「おい、どういうことだよモンシロ。なんで、アレが出てくるんだ。この紙、どっから持ってきた?」
アレ――すなわち、飯田自身が開発した、最新の昆虫麻酔薬、三時間バージョンである。文史朗に試作品を渡してすぐ、実際に使われる前に、研究所に忍び込んだ産業スパイによって盗み出されたものだった。
「やっぱり。説明するけど、飯田さん、これ、当分秘密だからね」
文史朗は、チャリティ・ガラのパーティ会場でオオミズアオが出現した事件と、三角紙を拾った経緯を手短に説明した。
「その騒動に乗じて、さらに、名前忘れちゃったけど、主演の女優さんのストーカーみたいなファンが侵入してきて、島木さんのチームの人手がとられたんだ。今度はその隙に、会場の隅に臨時で設置していたクロークに預けてあったふみちゃんのジャケットが切られた」
「お前としては、オオミズアオを使ったやつが、ストーカーも煽って利用したと思ってるんだな」
「そう。オオミズアオの騒ぎに注意が集中するのを見越して、すぐ次に侵入事件を起こさせる。それが発覚したことで今度は逆に会場が手薄になった時に、ふみちゃんのジャケットを狙って、嫌がらせをしたんだろう。二段階に警備を揺さぶることで、気づかれずにクロークで預かっていた荷物に近づくことに成功したわけだ。この三角紙に付着していた粉の方はオレが顕微鏡で見てるけど、色と形状から、十中八九、オオミズアオの鱗粉だ。眠らされて紙に包んで連れてこられたんだ」
「つまり、産業スパイが、この事件の黒幕ってことか」
昆虫麻酔薬で証拠もつながった。
「どこのどいつがやったのか、見当ついてるのか」
「嫌な予感レベルのものはあるけど、軽々に言いたくない。動機もいまいち、筋が通らない」
飯田はぴんときた。こいつがこんな歯切れの悪い言い方で話を持ってくるのは、だいたい、乱暴なディスカッションがしたいときだ。
「軽々には言いたくないし、他の奴だとドン引きしそうなくらい根拠が薄いけど、俺が他言無用を守れるなら、言語化して検討したい仮説がある、って言ってんだな」
文史朗はため息をついた。
「飯田さんに、オレが間違ってるって論破してほしいんだ。この仮説は気にいらない」
「わかった。とりあえず、座れ」














