84 怪異・昆虫大発生(後)
「……わかった。ツクモの言うこと、信じる。頑張る」
最後にわたしの背中を押したのは、ツクモの声の中のわずかな切迫感だった。これ以上、駄々をこねて困らせたくない。
あれはただのスズムシだ。お化けでも何でもないはずだ。スズムシが怖くて、羽音木で暮らせるか!
わたしは必死でドアを開けた。なぜか息を止めてしまいつつ、ルームランプとハザードのスイッチを操作した。見ると、サイドブレーキだけは車を降りるときに無意識に引いたようで、レバーが上がっていた。慌てて車から後ずさった。
「開けた。ランプもつけてきた」
『よくやった。えらい。少し離れて待ってみよう。電話切らないで』
ツクモは少しだけほっとしたようだった。
『通過車両に気をつけて。来てない?」
「うん、来てない。もともと、羽音木の住人くらいしか通らない道だし」
『脱輪してるくらいなら、車は路肩に十分寄ってるよね?』
「元の道幅が狭いから、通り抜けはかなり難しいけど」
『スズムシは声が大きいから、極端に近くとか密室の中で聞くと、結構びっくりすると思うんだ。いると思ってないときだと、特に』
離れて聞くと、確かに聞こえてくるのは馴染みのスズムシの声だ。小学校の時、唱歌でも習った、あのリーン、リーンという澄んだ音。
「びっくりしすぎちゃったのかも」
さっきの自分の慌てぶりが、ちょっと恥ずかしくなってくる。
『わかるよ。オレさ、高校生の頃だと思うんだけど、コンビニでサイダー買おうと思って棚に手を伸ばしたとき、急にそのペットボトルの裏から大音量でリーンってやられて面食らったことあるんだ』
「ツクモでもびっくりするの」
『するよ。まさか、サイダーの後ろから鳴かれるとは思わないじゃん』
「それでどうしたの」
『サイダーの在庫が三本だけだったから、急いでかごに入れて棚の奥をのぞき込んだけど、見えなかった』
「捕まえる気だったんかい!」
わたしが思わずツッコむと、ツクモは電話の向こうで、あははと笑った。
『バックヤードから回っても捕まるかどうかわからなかったから諦めたけど、しばらく気になって、そのコンビニ通っちゃったなあ』
「お店の人は不思議だよね。何で急にあの高校生毎日来るようになったんだろうって。店員さんのファンならレジを見るだろうけど、なぜか、あの子ジュースの棚の奥ばっかりのぞいてるよって」
『そうかも。一週間くらい毎日サイダー買ってたけど、お店の人からどう見えるかなんて考えたことなかったな』
ツクモはまた笑った。それから、真面目な声になって言った。
『さあ、スズムシももうずいぶん出たと思うよ。ふみちゃんも落ち着いてきたし。車、動かそう』
「全部はまだ出てないかも。もうちょっと待ちたい」
わたしが情けない声をあげると、ツクモはちょっと厳しい声になった。
『もう五時半すぎだよ。だんだん暗くなってくるし、その辺は人通りも少ない。安全な場所とは言えないよ。残りのスズムシは、家まで戻ってから対処すればいいから』
「また、うわーって集まられたら怖いよ」
『大丈夫。もう、かなりの数が出たと思うし、ふみちゃんの感情状態もさっきとは全然違う。なんといっても、その子たちは噛まない。飛ばない。毒はない』
「足は六本もあるけど」
『それは昆虫の定義みたいなもんだから、あきらめて。さあ、乗ろう。バックで脱輪直せる?』
「それはできると思う」
『ハンドル切る方向、わかるよね』
さすがに心配しすぎだ。そこまで、右も左もわからない状態にはなっていない。世間話をしているうちに、ツクモの言う通り、少しずつ落ち着いてきたせいもあるかもしれない。
「わたし、高速は苦手だけど、縦列駐車と山道は結構得意だから。バックも大丈夫」
『お、空間把握能力が高いんだ。じゃあ、やろう。車に乗って、お守りだして。膝にのせておいたら、きっとさっきとは全然違う。効果でるはず。他の車が来て立ち往生する前に、動かそう』
たしかに、ツクモの言う通りだった。すれ違うのも難しい、細い山道だ。この状況で、どちらかから車が来たら、結局乗って動かさざるを得なくなる。のんびりしている時間はない。心配しすぎだ、なんてツクモに呆れている場合ではなかった。呆れるべきは自分に対してだ。ちゃんとしろ、自分。
「やる」
『えらい。電話、スピーカーにできる? 通話切らないでそのままね』
「どうして?」
『もしまた、スズムシが出てくるようなことがあっても、つながってればすぐ状況がわかって、アドバイスできるだろ。そんなことないと思うけど、念のため』
そこまで考えてくれていたのか。過保護だよ、と言おうとしたけれど、確かに、今電話を切って、またヤツらが出てきたらと思うと、不安になった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
わたしはスピーカー通話状態にすると、スマホをドリンクホルダーに立てた。
乗り込んで、すぐにバッグから虫除守を取り出し、軽くもんで香りを立ててからひざの上に置いた。
シートベルト。ルームライトを消して、エンジンをかけ、前後の確認。いつも以上に慎重に確認しながら車を動かした。坂道の脱輪で少し心配だったけれど、路面と草地の段差がかなり小さかったこと、脱輪した瞬間に停車したせいで、問題の地点からほとんど進んでいなかったことも幸いし、バック一回で、きちんと車は道路上に全部のタイヤを戻した。
「脱輪は直せた」
『そこから家まで、どのくらい?』
「そんなにかからないよ。五分くらい」
『じゃあ、落ち着いて行こう。なんかあったら、すぐ教えて』
そこからは、運転の邪魔にならないように配慮してか、ツクモは口数が少なかった。
集落を通過するとき、昼間の話を思い出して、量吉さんの家を横目でチェックしたけれど、見慣れない車などはいなかった。集落からさらに上がっていく最後の山道に集中して、神社に向かう。
神社の敷地に曲がる私道が見えてきた。曲がりきって、家の横手の駐車スペースに車を止めると、ようやく肩の力が抜けた。
「家についた。ツクモありがとう」
『よかった。車はそのままで、家にいて。すぐ行く。後四十分くらいで着くから』
え?
その言葉に、わたしは眉をひそめた。今までそれどころではなくて、気にも留めていなかったけれど、ツクモの声の背後にかすかにエンジン音のようなものが聞こえる。
「ツクモ運転中? 四十分って。研究所からならもっと掛かるでしょ」
『島木さんが運転中。電話くれたとき、ちょうど打ち合わせ中だったから、そのまますぐ研究所出たんだ。それは祟りでも心霊現象でもない、悪意の絡んだ事件だ。だから、ふみちゃんは家に入って、安全を確認したら、ちゃんと戸締まりして。車は調べたいからドア閉めてロックしてそのままにしておいて。それは多分、ツクボウの調査に絡んでる事件だ。今度こそ、ちゃんとお父さんにお話しして、協力をお願いして、対応させてもらうから』
ツクモの声にずっとあった緊迫感は、ここにきて心配から怒りに確実にトーンを変えていた。そして、ツクモは今はもう、それを隠すつもりもないようだった。














