83 怪異・昆虫大発生(前)
お年寄りたちにお礼を言って病院を出たのが四時過ぎ。思いがけない長居になってしまった。
それから、ふもとの町のスーパーマーケットまで再び下って、母から頼まれていた普段の食材の買い物をした。決まったリストを渡されるおつかいではなく、三人の三日分程度の量を目安に店頭で見てその時安いものを臨機応変に選ぶ。後はその食材を使って食べたいメニューを想定して、足りない材料を追加で買ってくるように、と言われているので、時間がかかる。スーパーを出たころには、もう五時を回っていた。
駐車場に停めた車に戻ったとき、違和感を覚えた。何かが、車を離れたときと違う気がする。だが、車内を見回しても、特になくなったものはなかった。
気のせいかな。
駐車中にこもった熱気を、ドアを何度か開け閉めして追い出し、買った物が転がらないように、後部座席にいつも置いているコンテナに入れた。エンジンを掛けると、いつも通りに軽快な音で回転し始める。熱気がこもりすぎないように数センチ開けていた窓を閉めて、エアコンを掛け、発進させた。
カーステレオに入っていたCDをそのまま再生した。スマホと接続できるタイプだったら自分の好きなものを掛けられるが、あいにく母の愛車はかなりの旧型なのである。もっとも、そのおかげで、今の流行とは違う音楽を聴く機会もできて、悪い面だけでもないのだけれど。母の好きな、かすれたような甘い声が特徴的なラテンの女性ボーカルが流れ始める。これ、誰だったかな。
そんなことをぼんやりと考えながら、おなじみの道を羽音木集落のほうに向かって上り始めたときだった。ふいに、警報ベルのような音がした。
リィーン!
わたしはとっさに、助手席に置いたバッグの中のスマホを見た。口を開けた小さめのトートバッグの中で、一番上に置いてあるが、とくに、ランプや画面が光っている様子ではなかった。何の警報だろう。急いでCDをとめた。
リィーン! リィーン!
自動車の計器パネルも見たが、普段と違うところはない。だが、音は鳴りやまないどころか、ますます増えて重なり合い、その音量を増していく。耳を聾するような大きな音だった。
何が起こっているんだろう?
わたしは心臓を氷の手で鷲掴みされたような気がした。
その時だった。
無数のぞわぞわしたものが、わたしの足元で、うごめくような気配があった。
「きゃああああ!」
わたしは慌てて、思い切りブレーキを踏んだ。がくん、と、車が衝撃を受け、その拍子に、エンジンが止まった。ぞわぞわしたものは、わたしの足をどんどん上がってくる。小さなトゲのようなおぞましい感覚に鳥肌が立った。
窓も、ドアも、完全に閉まっている。その車内にどこからともなく湧き出てくる、黒くて小さいもの。
「いやあ!」
虫だ。大量の虫。わたしはとっさに運転席のドアを開けて、スマホだけをひっつかんで車外に転げ出た。
追いかけてこられないように、ドアを閉める。ガラス越しに、かさかさと走り回る、黒っぽい虫が無数に見える。
「脱輪したし……」
右の前輪が、ガードレールのない斜面の下り側、舗装のわきの狭い草地に落ち込んでいる。
泣きそうだ。
ドアも開けられない。これ、虫の祟りなんだろうか。完全な密室に、どこからともなく湧いてくるなんて、この世のものとは思えない。場所も、ちょうど先日、自転車もろとも転落したところのすぐ近くだった。
脳裏に、待合室三人娘のひそめたような声の断片や秘密めかしたしぐさがいくつもよみがえる。恐ろしい目に遭った人の悲鳴の表現がめっぽう上手い、トラさんの声。畳み掛けるようなツギエさんの切羽つまった口調。一番怖くなるところでわたしの二の腕をぎゅっとつかんだスエヨさんの、しわだらけで筋ばった手に込められた異様な握力。あの人たち、本当はみんなもうこの世の人じゃないのに、院長先生も昭さんも善三さんもみんなぐるで、わたしを騙していたなんてことないだろうか。医院を出たときにはもう異形の世界にこっそり切り替えられていたとか。
そんなわたしを嘲笑うかのように、完全にエンジンを切って静まり返るはずの車内からは、異常事態を告げるかのように、ひっきりなしにベルの音が響いてくる。
わたしは、震える手で、こんな非常識な事態に一番頼りになりそうな相手の電話番号を呼び出した。
コール三回で、もう、耳になじみになった声が聞こえた。
『ふみちゃん? どうしたの?』
よかった。ツクモは普通だ。電話は通じる。祟りで異世界に連れ出されてしまったわけじゃない。ほっとして、涙が出てきた。
「虫。虫が出た」
『どうしたの。ふみちゃん困ってる。どこにいる?』
「羽音木に上がる途中。この前、落ちたとこのちょっと先」
『車?』
「そうだけど、降りちゃった。とんでもない量の虫が、何もないところから湧いて出てきた」
『運転中に? 事故になってない? ケガしてない?』
「脱輪しただけ。右前。でも、ドア開けられない」
わたしは言いながら半分泣いていたと思う。ツクモは状況がわからず、焦っているようだった。
『何がいるの? どんな虫?』
「黒くて、足がたくさんあって」
『たくさん? ムカデとか?』
「ちがう。たくさんはウソ。六本だと思う。名前も言いたくない、Gみたいなやつ」
言ってしまってからぞっとした。あれがご家庭の嫌われ者、コードネームGだったら、もう、この車には二度と乗れない気がする。どうやって家まで帰ればいいんだろう。
『落ち着いて、ふみちゃん。……待って。さっきから、やけにスズムシの声が聞こえるんだけど』
「スズムシ!?」
『Gで始まるアレに、大きさや形が似てるんだよね? 平べったくて、カサカサ走り回って、黒か茶色みたいな色だよね? 緑とかベージュとかじゃなくて』
「そう」
『スマホ、車の窓ガラスにくっつけてみて』
わたしは言われたとおりにした。しばらくして、『もういいよ』と少し大きめに言うツクモの声が聞こえて、わたしは車から後ずさった。スマホを耳に戻す。
「わかった?」
『わかった。スズムシ。結構たくさんいそう。大丈夫だから。噛まないし、毒もないし、ちょっといい声で鳴くけど、空は飛ばない』
「でも、窓もドアも閉まってて、走ってる車の中に、何もないところからいきなり出てきたんだよ。スズムシのお化けとかだったらやだ」
半泣きのわたしに、ツクモは少しだけ笑った。
『オレは会ってみたいなあ、スズムシのお化け』
「ツクモっ!」
『ごめん、ごめん。でも、心霊現象を持ち出さなくても説明は色々できそうだから、実際のスズムシだと仮定して対処してみようよ。まずふみちゃん、掛け算九九の七の段、逆唱。二回ね』
「何でよ」
いきなり突拍子もないことを言われて呆気にとられた。
『このままパニック状態が続くと、ツクツクボウシとヒグラシも来ちゃうよ? 周りの山でいっぱい鳴いてるだろ。こっちまで聞こえるよ。いいの?』
「よくない」
『間違ってもいいから。ゆっくり。ね』
わたしは深呼吸した。普段だったら、小二の算数を大学生が間違えたりしないよ、と言い返していたと思う。でも、今は普通じゃない。わたしも、わたしの周りの世界も。
「七九、六十三。七八、五十六。……」
丁寧に二回、逆唱した。
『よくできました。えらい、ふみちゃん』
二十歳をすぎて、かけ算九九ができたとほめられて嬉しいと思う瞬間があるなんて、思ってもみなかった。
『次はちょっと大変。でも、ふみちゃんなら絶対できるから。がんばろう』
「なに?」
嫌な予感がした。
『運転席のドアを開けて、ルームランプとハザードをつける。サイドブレーキ、引いてなかったら引いて。開けたまましばらく待って』
「えーっ! 大量のあれ、外に出てきちゃうよ」
ふたたび、半ばパニックになって悲鳴を上げたわたしを諭すように、ツクモは言った。
『出してあげなよ。その子たちは、ちょっと大きい声で鳴くだけ。噛んだり、襲ってきたりはしない。暗いところの方が好きなんだ』
「嘘だ! さっき、すごくたくさんわたしに向かってきた。よじ登られたんだよ」
『そうか。うん。わかる。そうだったんだね。怖かったよね』
ツクモは穏やかに話しかけてくれていたけれど、声の底にわずかに切迫感のようなものが感じられた。ツクモも何かを怖がっている、と直感的に思った。
『それはふみちゃんがびっくりして、怖がっていたからだ。お化けでも、祟りでもない。ただふみちゃんにちょっと特殊な体質があるだけ』
「……思い出させてくれてどうも」
わたしは口を尖らせた。わたしがびっくりして怯えたから、変な化学物質が出てスズムシがたかってきたのか。わたしのせいか。
『お守りは?』
わたしはポケットを探ったけれど、指になじんだ、いつもの綴れ織りのざらっとした感覚は見つからなかった。
「忘れてきちゃった。車のバッグの中だ」
『じゃあ、都合がいい。今はもう大丈夫。ふみちゃんは自力で落ち着いたから。その子たちも、さっきみたいには寄って来ない。ドアを開けて、車内を明るくしてあげて。スズムシは暗い方がいいし、きっと散虫香の匂いからも離れたいだろうから、出て行く』
ツクモは、根気強くわたしに語りかけた。相変わらず声の底にはかすかな緊迫感が、ずっと鳴り続けるベース音のように響いていた。でも、ツクモは焦りや恐怖に自分を明け渡すつもりはないようだった。穏やかに繰り返し、子どもみたいにおびえて駄々をこねているわたしをなだめた。
『大丈夫。その子たちはふみちゃんには何もしない。だから、開けてあげて』














