81 待合室百物語(前)
調査は中断になってしまったが、医院文書は神社にとっても、過去のことを伝えてくれる貴重な資料だということがわかった。ツクモは電話で謝意を伝えたようだったけれど、それはそれとして、わたしからも院長先生にお礼を言いたい。そこで、母が非番の日に自動車を借りて、一旦ふもとの鉄道駅の近くまで降り、自分のお小遣いのなかから一口饅頭のたくさんつまった菓子折りを買って挨拶に行くことにした。
病院の診療時間は、午前と午後に分かれている。間の休憩の、昼食が終わったであろう頃合いを狙って訪ねると、院長先生は喜んで院長室に招き入れてくれた。わたしも小さいころから診察してもらっている、なじみのおじいちゃん先生である。
文学部で学んだことを活かして、自分でも文書を読んでみている、と話すと、院長は目を細めて喜んでくれた。
「郁子ちゃんは勉強熱心だねえ。先生は医学書で手いっぱいだな。どんどん新しいことが出てくるから、古いものを読む時間がないよ」
「先代の先生は、趣味で調べていらしたんですか?」
「そうそう。親父殿はこういうのが好きでねえ。郷土史調査っていうの?」
ふと思いついて、聞いてみた。
「地域の伝承とかって、調べたりされてたんですか。字に残らないようなもの。語り継がれている民話とか伝説とか」
郷土史調査となれば、柳田邦男や宮本常一に代表されるような、民俗学的なアプローチもある。古文書などの公の記録からではなく、民間の伝承や年中行事、生活習慣から市井の人々の暮らしに迫る学問だ。院長の父上が、古文書だけではなく、そういう方向性にも興味を持っていたとしてもおかしくない。
「そっちは、どうだろうねえ。親不孝者で、親父殿の趣味についてちゃんと聞いたことなかったんだ。郁子ちゃん、そういうのも調べるの?」
「ええ、今回のことで少し興味が湧いて」
わたしは曖昧に笑ってみせた。学問としての民俗学には興味がないわけではないけれど、行きたい専攻のど真ん中とは言いがたい。
だが今はもっと即物的な打算があった。奥谷のご神域にまつわる祟りの言い伝えなどが聞ければ、何かの手がかりになるかもしれない。
「都市伝説みたいなのは、ここの待合室でよく盛り上がるけどねえ。って、羽音木は全然、都市じゃないか。田舎伝説」
院長はかっかっと笑った。
「どんなのですか」
わたしが問い返すと、先生は待合室に続くドアのほうを指さした。
「みんな、もう来てるよ。午後の始まりの三時までまだ一時間半もあるのに、診察券を早く出しがてら、待合室で涼んでるんだよ」
先生は一口饅頭の折り箱をもって、よっこらしょ、と立ち上がった。
「聞いてみるかい。あの人たちの田舎伝説、面白いよー。何の根拠もないんだけどさ」
先生はすたすたと、待合室のほうに歩いていく。
「おーい、神社の郁子ちゃんが差し入れくれたぞー」
軽い口調で呼びかけると、ビニルクロス張りのソファでおしゃべりに興じていたお年寄りたちが振り返った。わっとにぎやかな笑い声をあげて、院長と私が座る席を作ってくれる。
「看護師さんの分、ちゃんと取っとかないといけないんだから、一人一個な。善三さん、よくばりなさんな。薬ちゃんと効いてきたとこなんだから」
食事制限のことでよくぼやいている善三おじいちゃんに素早く釘を刺しつつ、院長は五人いたお年寄りたちに甘いものを手際よく配っていく。わたしもよく知っているおじいちゃんが二人とおばあちゃんが三人。常連仲良しメンバーということらしい。
「郁子ちゃん、大学生さんだろ。何の勉強してるんだい」
梅干し名人のツギエおばあちゃんに聞かれた。漬物のことは何でもツギエさんに聞け、と言われるほどの腕前で、半世紀以上農家の主婦をやりながら趣味の保存食づくりを極めている。
「えっとね、日本文学。昔の字を読んだりとか、小説とか」
「えらいねえ。おばあちゃんは中学までしか出てないもんでね。郁子ちゃんは何になるんだい、学校の先生かい」
「まだ決めてないよ。それよりさ、ツギエさん、生まれたときからここだっけ」
わたしが水を向けると、ツギエさんは顔の前でばたばたと手を振った。
「ここじゃない、ここじゃない。生まれはあっちの、倉田のほう」
大げさに否定した割に、なんのことはない、隣の集落である。
「この辺の昔話とかってさ、ある? そういうのも大学で勉強するんだよね」
ツギエさんはにたりと嬉しそうに笑った。
「蛇の目が淵はでるっていったねえ。じさまが」
「何がでるの」
「ゆうれい。身投げした若い娘のお化けが出るんだってさあ」
ご丁寧に胸の前で手をだらんと垂らしてみせる。
「えー、ツギちゃん、それ違うよ。私が聞いたのはさあ、着物を乾かしとく妖怪だよ」
長らく書店のパート店員をつとめていたが、ひざを痛めて引退したスエヨおばあちゃんが反論した。本と新聞を読むのが好きで、着付けもうまく、この辺りではちょっとした文化人・知識人で通っている御意見番だ。
「なんだよ着物を乾かしとく妖怪って。桃太郎のおばあさんじゃねえか」
善三さんがすかさず突っ込みを入れる。こちらはとにかくおちゃらけるのが好きな、いわば羽音木シニアクラブのパリピ。
「そりゃあ、川へ洗濯に、だろ。桃太郎のおばあさんなら、干すのは家で干したさあ」
スエヨおばあちゃんの切り返しにみんなどっと笑う。恐るべし。お年寄りの受けるツボ、さっぱりわからない。
「美人の幽霊だか妖怪だかがさあ、蛇の目が淵の横で、着物を乾かしとく話。服を乾かしながら自分は川で水浴びしてたら、村の男がそれをみて、隠しちゃうんだよ。着物をね。それで、嫁っこになれっていってさあ……」
きょとんとしているわたしに気がついたスエヨさんは、笑いを引っ込めて、話の続きをしてくれる。
「あ、なんかオチが見えてきた。嫁になって一緒に暮らしているうちに、隠していた衣を見つけた嫁が、天女になって空に帰っちゃうやつでしょ」
スエヨおばあちゃんの話は少々のんびりなので、わたしは当たりをつけて先回りし、聞いてみた。
「そうそう。そういうのだけどさ、蛇の目が淵のは違うんだよ。着物が見つかるとさ、チョウの羽になって、嫁が飛んでっちゃうの」
またチョウだ。羽音木の昔話はしょっちゅうチョウが絡むのだ。神社の来歴とも、どこか根っこのほうでかかわりがあるのかもしれない。
スエヨおばあちゃんの、天女伝説の一変異みたいな昔話は、わたしに、読んだばかりの古文書のことを思い出させた。蛇の目が淵で、チョウに包まれて姿を消した娘。周囲が祝福する幸せな花嫁になれたかもしれなかった、宮守芳。
「そういえば、神社の裏山はさ、入ると祟りがあるって、おじいちゃんおばあちゃん、みんな言ってたじゃん。あれは?」
わたしが本来聞きたかった質問をすると、みんな口ぐちに自分の知っている因縁話を始めた。
「顔がただれるんだよ。真っ赤に腫れて、目がふさがっちゃうのさ。ほら、鷺宮菊衛門のお岩さんみたいに」
これはトラおばあちゃんだ。お得意の、ただれるパターン。トラおばあちゃんは男勝りでとにかく気が強く、留守がちな旦那さんを支えて家と田畑を切り盛りしていた女丈夫である。その一方でイケメンに弱く、地方回りの劇団が打つお芝居を見に行くのを無上の楽しみにしている。お気に入りの役者さんの当たり役、お岩さん風のエピソードがお気に入りらしい。
「なんでも、よくないことが起こるって昔から言うんだよ。ホントかどうかは、入らないからじいちゃん知らないけど、昔の人が言うんだから、守っといた方が間違いないよ。死んじゃったら酒も呑めねえもんなあ」
ごもっともなことを言うのは、現実主義のパリピ、善三さん。
「転んで危ないんじゃないかい、骨折ったりとか」
と言うツギエさんも現実派である。
「転んで骨を折ったのは、おたくの旦那の栄太さんじゃねえか。ありゃあ単なる飲みすぎだ。そもそも山で転んだら、けがするなんざあ、普通の話だよ。そりゃ祟りのうちには入んねえだろう」
善三さんがまぜっかえす。
「誰か、言ってたろう」
首をかしげたのは、スエヨさんだった。
「交通事故。あれが祟りだって」
「そりゃあ、量吉さんだなあ」
スエヨさんの一言に、にぎやかなやり取りをここまでにこにこと物静かに聞いていた昭おじいちゃんがぽつりと応じた。
「交通事故?」
わたしは首をかしげた。














