08 父は親ばか
ダメージコントロールには小一時間を要した。
わたしは断固として、父に、彼とは今日が初対面で、お父さんが心配するような関係ではないと説明し続けた。ツクモも神妙に、熱中症で倒れてわたしに助けられたこと、水浸しになったのでシャワーと着替えを借りたことを説明して、機転が利くの、親切だのとわたしをほめそやし、着替えを借りたことを父に繰り返し感謝して、父の気分を持ち上げた。
父は親ばかで気のいい人間である。
最終的に、ツクモがわたしをひたすらほめつづけたことで怒りと驚きが緩み、気が付けば父はツクモにビールを注がれてすっかり上機嫌になっていた。まあ、そのビールをさりげなく食卓に出したのはわたしなんだけど。
非常識なやつだと思っていたけれど、父と話しているツクモは、如才なく父のツボを押さえてすっかり自分のペースに引き込んでいた。年上を転がす才能には長けているらしい。
「申し遅れましたが、私、こういう仕事をしておりまして」
わたしにくれたのと同じ名刺を両手で差し出す。
「お、こりゃご丁寧に」
父は冷ややっこをつついていた箸をおいて受け取った。
「バイオリサーチ……研究者さんでしたか。私は文系なもので、どうもそういう分野は疎くて」
「昆虫の生態学的、文化的研究をしております。この地域に生息する昆虫の生態調査をしたいと思っているんです」
「はあそうなんですか。普通のものしかいないと思いますがねえ」
「いえ、その普通のものを記録することに、大事な意味があるんです。それに、私の第一印象にすぎませんが、このあたり、すごいんですよ。数が多くて、大きさも他地域より大きい個体が多い。自然も多く残っていますし、かなり手ごたえを感じているんです。人里や田畑の近くで、今も照葉樹林がこれだけあるのはとても貴重です。さきほどからお嬢さんに、研究調査補助のアルバイトをお願いできないか、お話ししていたところなんですが」
「うちのは、夜飛び込んできたカナブンにも大騒ぎする娘ですから、お役に立てるかどうか。山育ちで、野山で遊び回ってましたから、地元の地形にだけは詳しいですがね」
そう言って名刺を眺めていた父は、あれ、という顔をした。
「築井紡績って、あの? ツクボウですか?」
「はい。今は父が取り仕切って、兄が手伝っております」
「えーっ?! ツクボウ!? あのツクボウ?」
私は驚いて叫んだ。化粧品、食品といった一般向けの商品から、製薬、繊維まで手広く扱う、国内で有数の総合化学企業だ。ツクツクボーシが飛んできて社名のロゴに止まり、ツクボウ、とアナウンスする画面で終わる、様々な分野の商品のコマーシャルをTVで見ない日はない。先月も、人気女優の甘木凉音をイメージアイコンに起用した夏の新色のアイシャドウがかわいい、と大学の友達の間で噂になっていた。
名刺に書かれていた『築井紡績』とカタカナの『ツクボウ』では、全くイメージが違いすぎて気が付かなかった。世間知らずだと言われてしまえばそれまでだが。
「いや、今は色々ありすぎるから、人に任せたりもして、親父は基本的には繊維部門を見てるだけだけどね。オレが勤めてるラボは、あちこちから基礎研究、応用研究のテーマが集まってきているから、いろんな部門の人と会ったり仕事したりする」
「じゃあ、凉音ちゃんブルーのアイシャドウとかも?」
「ああ、角度で色が変わるやつ? あれ、いいでしょ。モルフォチョウの羽の構造色をヒントに、化学部門の人の手伝いをしてグリッターを開発したんだ。入社ちょっと前から参加してたから、オレが関わったのは三年くらい前になるかな。今年の夏に照準を合わせて流行する色味と合わせて実際に商品にするって言ってたけど、そういえばもう出てるんだもんね。ふみちゃん知っててくれたんだ」
モルフォチョウって、知ってる? と嬉々として説明しようとするので、止めた。
昆虫の話になると、こいつは長い。キリがなくなる。
「それより、古文書の話はしなくていいの? そのためにお父さんを待っていたんだと思っていたけど」
ツクモは破顔して大きくうなずいた。
「そうなんです。生態調査もなんですけど、文化調査も行っていまして。過去の害虫の発生状況や、人々の暮らしに関わる昆虫の記録を、古文書で調べてデータベース化する研究なんです。こちらの神社も、虫封じをされるとお嬢さんから伺いまして」
「ああ、しますよ虫封じ。お札とお守りがあるんです。祈祷は、ご依頼があれば都度都度」
「お札とお守り?」
父は上機嫌でわたしにあごをしゃくった。
「郁子、お守りはポケットに入れてるだろう。見せて差し上げなさい」
言われて私はポケットから香りのする守り袋を取り出した。虫除守、と書いてあるだけで、古文書好きの心をくすぐる品ではないと思う。そもそも、これは、袋は業者に発注し、中身は父が調合して入れている、現代のものなのだ。気休めの香り袋である。薬局などで売っている虫よけ用のシールやリストバンドだって、似たようなものではないか。
だが、受け取ったツクモは目の色を変えた。鼻に近づけて匂いをかぐ。
「これ、すごいよ。実際に効果あるでしょ、ふみちゃん」
「蚊やムカデには刺されにくくなるよ。それくらい」
「神社のお守りに、目に見えてすぐわかるほどの効果があれば、それは十分特殊だよ」
言われてみればそうか。縁結びのお守りを身に着けたからってすぐに良縁に恵まれるわけではない。
「宮森さん。これ、中身は何が入ってるんですか?」
父はのんきにカレーをほおばりながら答えた。
「散虫香です。一子相伝の配合がありましてね。昔は、虫よけスプレーとか便利なものはなかったですから」
「一子相伝か。では、文書を見せていただくことはできないんでしょうね」
「珍しいもんは入ってないですがね。この山でとれるもんばっかりで。でも、先祖代々、門外不出でやってきたものですから、まあ気分の問題なんですが、出せませんなあ。江戸時代の蝗害の記録や、ウンカの記録はあったはずですよ。そっちは見ていただいて問題ないです」
「うれしいです。ぜひ、準備を整えて拝見しに来させてください。文書そのものも、もしご許可がいただけるなら、デジタルで撮りたいんです。今、分野を超えていろいろな古文書を電子データにして、調べたい研究者がすぐにアクセスできるようにするプロジェクトが進んでいるんですよ」
「ああ、そういうことなら、構いませんよ。お見せできるものは何でも。何かの間違いで文書がだめになってしまっては困りますからねえ。研究のために残しておくのはいいことですな」
郁子、と父に急に名指しされた。
「文書の記録と、昆虫採集と、アルバイトとまでおっしゃってくださっているんだから、七曜神社の後継ぎとしてきちんとご協力しなさい」
「後継ぎって、継ぐって決めたわけじゃないよ」
「継がないって決めたわけでもないだろう。こうして、きちんと申し込んでくださった調査には協力していかないと、現代の神社は生き残っていけないぞ」
「一杯機嫌で、人の夏休みの予定を勝手に決めないでよ。バイトは、由奈ちゃんに誘われて大学の近くのお店に面接に行くって言ったじゃん」
「だめだ! 大学生が居酒屋バイトなんて、許さん!」
「みんなやってるよ……」
わたしはもう何度目かになる議論にため息をついた。堂々巡りなのだ。
「酔っ払いに絡まれたらどうするんだ。帰りだって、駅に着くころはもう夜更けだ。そこから山道を自転車で上がってくるつもりか?」
わたしの通っている大学は、駐車スペースが少ないので、学生が自動車で通学することが認められていない。大学まで定期代をかけて電車で通う以上、学生の身分ではやはり自分の車を持つというのは贅沢で、駅と家の間は自転車で往復するしかない。そんな事情もあって、わたしは運転免許こそとったが、父や母の車を借りるだけの日曜ドライバーである。
「お父さんは過保護だって。夜のシフトはほとんどうちの大学の人か、同世代のフリーターばっかりだって由奈ちゃん言ってたよ」
「それでもだめだ。こんないいアルバイトの話を、こんな好青年がしてくださっているのに。これを断って居酒屋なんぞ、父さんが許さん。お母さんにも言うぞ」
母が父の側に着くのはわかりきっている。
わたしはため息をついた。父は何としても、由奈ちゃんが誘ってくれたアルバイトを阻止したいのだ。現代の神社として、とか、こんな好青年が、とかは都合のいい言い訳に決まっている。
ツクモが見かねて間に入ってくれた。
「まあまあ、ついさっきお嬢さんにもお話ししたばかりですし、学業のご都合もあるでしょう。アルバイトの件のお返事は、二、三日考えていただいてからで結構です。ちゃんと条件もお伝えしてから決めていただきたいですし、連絡先を教えていただいても構いませんか?」
「おお、構いませんとも。ほら、郁子、スマホ持ってきなさい。古文書の件も、私や妻は仕事なんかで留守にしますから、郁子を通して下されば結構ですから」
父はすっかり、ツクモに丸めこまれてしまった。訳知り顔でこっちをみて、父に見えない角度で目くばせしてにこっと笑う、悪い輩に。
わたしの連絡先を親ばかの父に聞くなんて、どれだけ要領がよかったらそんな発想が出てくるのか。それとも天然でやっているんだろうか。父はすっかりツクモを気に入ってしまった。このルートで父が了解したら、わたしには断る選択肢がないではないか。もしも直接聞かれたとして、教えたか、教えなかったかは自分でも今となってはわからないけれど。
ツクモは、その涼し気な顔だちとそつのない人当たりで年長者をだまくらかす。課題を手伝ってくれて、バイトも紹介してくれてるけど、そのバイトは山の中を歩き回って昆虫を探す作業の手伝いという、かなりきつくてちょっと危険な仕事内容だ。きつい、危険、昆虫で三K。
いい大人のくせに、昆虫の話になると止まらないし、昆虫に夢中になりすぎて熱中症でぶっ倒れる。わたしに対しては非常識で失礼だし、そのくせ、やっぱり笑顔が破壊的な威力だから、とにかく総合すると、悪いやつだとわたしは思う。