78 江月尼の告白(中)
江月尼の語りは続いていた。わたしは引き込まれて、先へ先へと古い毛筆の文字を追っていった。
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あの事件があった前の年の秋、逃げ出さなかった民の中にも、病をえて幾人も死者がでました。人手不足の中での刈り入れが負担となったのでしょう、もとから飢えていたこともあり、ちょっとした病であっという間に亡くなってしまうのです。
ちょうど、八月の新月のあとの頃でした。ご遺体をそのままにしておけば、また、疫病がはやってしまいます。けれど、村の墓地はもう手いっぱいで、村人たちも弔うだけの余力がなかった。そこで、紋成は、芳どのに相談し、羽音木山の奥の谷に、ご遺体を運ばせたのだといいます。
街道筋から大きくそれたところにある谷で、神社の神事が行われるほかは、さほど実入りがよくないため、杣や炭焼き、猟師といった山仕事の者も入らないところでした。ですから、仮の送り場として村人達を弔うのに好都合だったのだと紋成は言っていました。
その年は七曜神社の年ごとに行われてきた神事も、米が奉納されないので、滞りがちだったのだと聞きました。
それでも、亡くなった方々のために、お芳どのは、谷で御祈祷をしたのだそうです。
そのとき、たくさんのチョウが、次から次に、集まってきたというのです。後にも先にも、あんなに美しい光景は見たことがなかった、と紋成は言っていました。すべて同じ、青と白、橙色の模様のあるチョウだったとか。お芳どのは驚いていませんでした。年ごとの神事にこの谷に来ると出会うのだと言っていたといいます。
なきがらに付き添ってきた家族の者たちも、そのチョウを見たのだそうです。これで、亡くなった者たちもあの世へ迷わず行ける、チョウの神様が導いてくださるだろう、と、ほっとして涙を流した者も多かった、それほど美しかったのだと、紋成は繰り返し言っていました。
それでも、村の苦境は簡単には回復しませんでした。その年のイナゴやウンカが大量に残した卵があるはずで、見つけ次第処分してはいたのですが、翌年も、かなりの虫の被害を覚悟する必要があったのです。
お芳どのは、その次の春、つまり、事件の半年ほど前ですが、不思議な夢をご覧になったのだそうです。
昔風の美しい装束を着た姫君が夢に現れて、『羽音木山に生えているいくつかの木や草の葉を集めて乾かし、虫を払う香と虫を集める香を作れば、村を襲うイナゴの害は避けられるだろう』と、香の作り方を夢の中でお告げしたというのです。
案の定、夏になると、虫が発生して田を襲い始めました。お芳どのは、お告げの内容については半信半疑だったとか。けれど、万策が尽き、夢のお告げ以外にはもう他に何も頼るものがなかったのだそうです。そこで、せめて村人の気休めになれば、と、お告げにあった香のうち、虫を払う香を作って、氏子集落やその近在の郷で試してみたのだと言います。
ところが効果はてきめんでした。虫はその周囲からいなくなり、稲はすくすくと生育するようになりました。
ですが、これがいけなかったのです。
払った虫が、その周辺の田畑に逃げ出して、七曜神社から少し離れた地域は大変な害をこうむりました。それが七曜神社の祈祷のせいだ、という噂は、あっという間に広がり、神社とその氏子集落がひどく恨みを買ったそうなのです。
お告げ通りにするのであれば、無害なところで虫を集めて、増えすぎたイナゴを処分してやらなければならなかった。でも、お芳どのはそこまでの成り行きを、前もって想像することはできませんでした。香の効き目がそんなにあったことすら、驚くべきことです。お芳どのはこの頃も、お一人で神事を執り行い、地域の面倒をみて東奔西走していらっしゃったはずです。効き目があるかないか分からない香に、そこまでの手間を掛けるだけの余力はなかったのだと思います。
被害を被った郷からの知らせを受けて、芳どのは失敗に気が付き、大変にご自身を責めたのだと、紋成は言っていました。初めからお告げの通りにしておけば、こんなことにはならなかったのに、と芳どのは繰り返し言っていたのだそうです。お芳どの一人の肩にどれだけ重荷がかかっていたかと思うと、おいたわしいことです。紋成も、それを気にかけていました。
しかし、藩内の郷と郷が争い、藩内で要の役割をはたしてきたはずの七曜神社の宮司が不始末をして恨まれているというのは、由々しきことです。これを藩の外から指摘されれば、お上からなにがしかのお咎めがあるかもしれない、と、広成どのも焦りました。
それで、虫を集める香を焚いて虫をおびき寄せ、あの世に返す儀式を行い、近隣の郷に迷惑をかけたのを償う、と七曜神社が申し出たときに、これ以上の不始末がおこらないよう、護衛と見張りをかねて、紋成をその場に同席させたのです。
もしかすると、なにがしかの危険を感じていた紋成が、広成どのにみずからを見張り役とするよう志願したのかもしれません。その詳しい辺りは、あの子には聞けませんでしたが。
八月の新月の日から数日後、お芳どのは、本来、羽音木山の谷で神事を行わなければならない日でした。けれども、谷での神事のために必要な米が用意できず、その年は神事が行えなかったのだと言います。
そこで、その代わりの祈祷という意味も込めて、蛇の目が淵で、芳どのは虫を集める香を焚いて、神事を行いました。多くのイナゴが集まってきて、川におぼれていったと、その場にいた村人が後で言っていたのを聞きました。
そのご祈祷の三日目に、お芳どのが襲われたのです。まさに、広成どのが恐れていた事態でした。祈祷の現場に、鬼気迫る形相でやってきた三つ隣の村の男は、イナゴの害で飢え、家族を亡くした者だったとか。その人物が、お芳どのに逆恨みを抱いて、持っていてはならないはずの刀で斬りかかったのです。
お芳どのが斬られたとき、また、一年前と同じあのチョウが現れました。お芳どのをわっと取り囲んで、その姿が見えなくなるほど、たくさんのチョウが集まってきたと聞いています。そして、お芳どのは、そのまま、消えたのです。
お芳どのを斬った者は、紋成と村人たちが取り押さえました。双方がかなり深いけがを負って、あの時は良順先生にもずいぶんお世話をおかけしましたね。
刀は、その村人が先祖伝来、盗賊や獣に襲われたときのために、家に隠し持っていたものでした。でも、百姓が刀を持つのはご禁制です。これが露見すれば、築井は藩の内政をおこたり、百姓が刀を持つのを見過ごし、藩内の争いごとを治めるのにも失敗した結果として刃傷沙汰を招いたということになります。これは大変な不祥事で、お家が取りつぶされてしまう危険がありました。
近隣の藩の中に、築井の領地を狙って、あることないことをお上に申し上げている家があったのです。こうした事件は、格好のえさになってしまう。
騒動をなかったことにはできない。刃傷沙汰そのものをもみ消そうとしても、いつかは漏れてしまうでしょう。そして、刀が百姓から出てきたことがわかれば、藩にとっては大問題になる。
そこで、広成どのは、仏の道に背くような、決してしてはならない決断をしてしまったのです。
あの場で、刀を持っていて不自然でなかったのは、紋成だけでした。
ですから、広成どのは『紋成が乱心して、芳どのを斬り、村人たちに取り押さえられた』という筋書きを幕府の御役人様に報告してしまったのです。
もともと、藩の内政について、紋成と、広成どのは、激しい意見の違いがあったのですから、広成どのとしては紋成が煙たくて、もう遠ざけてしまいたい気持ちがあったのやもしれません。
わたくしが悔やんでも悔やみきれないのはこのことなのです。紋成と芳どのが思いあっているのを、先に知っていたら。こんなことになる前に、もっと早くに祝言を挙げさせてやっていたら、広成どのも、ここまで無体な仕打ちはできなかったでしょう。家同士の取り決めとして、婚儀が行われた後だったなら、紋成が芳どのを斬ったなどという無理のある筋書きが作れなくなっていたはずなのです。
お芳どのを妻にめとったら、紋成は分家として所帯を構えることになったでしょう。あるいはもしあの子の方が宮森に婿入りすることになったなら、さきの宮司どのがもう亡くなられているのですから、宮森の家をそのまま継ぐことになる。いずれにせよ、その時点で紋成は一人前の武家として、きちんと認められていたはずです。現場を目撃していた村の庄屋たちも、事情を知ることができた他の家臣たちも、神社の氏子衆も、こんな強引な仕打ちを飲むことはできない、と声を挙げたでしょう。
紋成の身分が宙ぶらりんの二男坊のままで、広成どのが父親として、右にでも左にでも好きなようにできる立場だったから、あんな無理がまかり通ってしまったのです。わたくしがもっと早く気が付いてやっていれば、防げたのではないかと、悔やみました。
いつも、思うのはそのことでした。
それが仏様がわたくしたちに、優しかったあの子たちに今生で課した道だとするなら、あの子たちは来世でこそ、幸せに過ごしていてもらいたい、と思うのですが――。














