77 江月尼の告白(前)
わたしは見つけた個所の細かい一言一句ではなく、意味を何とか読み下すことに集中して、紙面をじっと見つめた。
良順先生は、江月尼の亡くなった直後に、彼女が病の床で最期に語った言葉を、なるべくそのまま、記録しようとしたようだった。
◇
江月尼はこう語られた。
先生には、ずいぶんご面倒をお掛けしましたね。もう、わたくしには残された時間はあまりございません。もうすぐお迎えが来て、浄土に参れることでしょう。
逆縁となった息子・紋成にも、お芳どのにも、あちらできっと会えるに違いありません。
あの子たちには、本当につらいことでした。
世が世なら、もっと、わたくしにしてやれることもあったでしょうし、この世での幸せな暮らしを送ることだってできたでしょう。けれども、すべては仏様の思し召しです。わたくしたちは、来世のために、今世では耐えて功徳を積まなければならないめぐりあわせだったのでしょうね。
もう、紋成も、お芳どのもこの世にはおりませんし、藩主も、夫・広成から長子・時成へと代替わりしました。こうした老尼の申し上げることなど、たいして気に留める者もなくなったでしょう。ようやく、胸につかえていたものがお話しできると思います。
紋成は、二男でしたから、分家して時成を助け、藩のお役に立たせるつもりでいたのです。
藩主の仕事は、外向きの、幕府や他の藩との関わりのものもありますし、内向きの、藩内の民を支えてまとめ、導くものもあります。
長男の時成は要領もよく、弁もたち、物おじしない子でしたから、こんな小さい藩でも、他の藩に甘く見られることがないよう、堂々と外向きの仕事をできる子でした。ただ、その分、細やかなところに欠けます。内向きの政となると、みながそれぞれ自分の持ち分で上手くやってくれるだろうと当てにする甘えがあって、民への配慮に欠けたり、家臣同士の心の綾に無頓着だったりするところがありました。
一方で、二男の紋成は優しい子でしたから、時成のように堂々と押し出しのいいところを見せることはできませんでした。けれど、あの子には、困った者があると聞けばすぐに様子を見にいき、何くれとなく心配りをしてやる、面倒見の良いところがありました。
何か事があれば、村うちで助け合うように話し合いをまとめたり、寺や神社に間に入ってもらって、余裕のある他の村から援助をさせたりして、あの子は内向きの対応をよくやってくれました。時成だけでも、紋成だけでも、藩の運営は上手くいかないだろう、二人で協力してやってくれればいい、と思っていたものです。
そうして、藩内のあちこちに顔を出して、まとめていくうちに、紋成が知り合ったのが、羽音木山に古くからある七曜神社の一人娘、お芳どのでした。
今でも覚えています。お芳どのは、本当におきれいな方だった。紋成より、一つか二つ、年上でした。
七曜神社は、昔から、女子でも宮司の跡をとらせる習わしがありましたから、一人娘のお芳どのは、ご幼少のみぎりから、宮司になることを心に決めて育ってこられた方でした。お父様を助けて祀りごとをしながら、氏子衆の面倒もよくみておられたお芳どのは、氏子地域では大変な人気がありました。
紋成も、お芳どのも、頼られると何とかしてやりたいと思う心根の持ち主で、無理をしがちなところがありました。何度か、かなり手ごわい困りごとを解決するのに、協力をすることになり、そうした中で、お互いに思うところがあったようなのです。
本当に悔やまれます。もっと早く、あの子たちの気持ちに気が付いてやれていれば、広成どのをわたくしが説得してでも、縁組を調えましたものを。
宮司どのの家系は、宮守とも宮森とも書きます。森の深いあたりのお宮ですから、宮森、と名乗られたり、宮司としてお宮をお守りするから、宮守、と名乗られたり、その時のご当主のお気持ちで漢字を使われたのでしょうね。いずれにせよ、氏子たちは『ミヤモリさま』と呼べばいいわけですから、問題はなかったのです。たいへんに古い家柄で、このあたりの名家です。
何の差しさわりもないはずだったのです。古い家柄のお芳どのは、二男で、国の中を治める手助けをする紋成の妻としては申し分ない方でした。お芳どのが七曜神社の宮司を続け、紋成のほうが羽音木山に婿に入ったとて、決して問題にはならないはずでした。時成が藩主になれば、名字が何であれ、紋成は藩主の弟です。一の臣下として時成を支えればよいわけですし、その時、地元の信頼が厚い宮守の家名が、むしろ藩内の他の地域にも押さえになったことでしょうから。今までにも、何代も遡れば、傍系でのそうした縁組はあったようでした。
あの頃、ひどい虫の害で、何年か米の収穫が半分以下になってしまったことがありましたね。夏の暑さが足りず、イナゴやウンカが大発生したのでした。今思えば、それがすべての引き金だったのです。
藩としても、幕府に納める年貢米を取らねばならない。でも、民の生活も瀬戸際まで追い込まれてしまい、田を捨てて姿をくらましてしまう百姓が相次ぎました。
どこか、他国へでも流れて、日雇いの仕事でもすることになったのでしょうか。百姓の仕事をしても、年貢の取り立てが厳しくて、食べていけないと思う者が多くいたようです。生きるために逃げ出したということでしょう。
それは、そのまま、残された村の者たちの命に係わる事態でもありました。
誰かが逃げ出せば、人手が足りなくなって、耕作が行き届かない田が生じて村の収穫量の合計が少なくなります。一度手が足りなくなって耕されなくなった田は荒れてしまって、再び耕し始めたとしても元通りに米がとれるようになるまで何年もかかる。一方で、村に課された年貢米の負担は、もともとの田の面積で決められています。ですから、誰かが逃げ出せば、結局、残された村の者までみな、行き詰まりになってしまうのです。
それを防ぎたくて、紋成も、お芳どのも、それぞれの立場で百姓たちのために奔走しました。
紋成は、年貢の取り立てについて、広成どのや時成と、ずいぶん激しく意見を交わしていたようでした。
取り立てを緩め、もう少し待つようにと促す紋成に対して、広成どのとしては、民の苦境はわからぬでもないが、一方でお上への年貢が滞れば、これはまた藩の危機でもある、というお気持ちがあったようです。悪くすれば、お家のお取りつぶしにまでつながりかねない。紋成の進言は、到底受け入れられないものでした。
そんな中で、紋成は孤立していったようなのです。
お芳どのも困り果てていました。そのころには、お芳どののお父様はお亡くなりになっていて、お芳どのが宮司として、一人で神社を切り盛りしておいででした。
七曜神社は、古くから虫封じの霊験があらたかと評判の神社でしたから、イナゴやウンカにこまった氏子衆や、近在の郷の百姓、庄屋から乞われて、祈祷に行ったり、お札を授けたりと、毎日奔走することになったようです。そんな中で、夜逃げした家や、娘が身売りした家、一家心中の話など、悲しい話をたくさん聞き、なんとかならないか、と相談をされることも度重なったようでした。
でも、神社に、米や金の出てくる打ち出の小づちがあるわけでもございませんから、結局最後のところはもう、どうにもならなかったのだそうです。














