76 わたしにできること
翌日になって、ツクボウの研究所から依頼を受けたといって、古文書の読み取りのためにツクモが置いていた電子機器を、専門の運送業者が取りに来た。延長コードなど、神社の備品を貸したものとツクボウの物品の区別をつけるべく、わたしもそこに立ち会った。
専門業者だけあって、彼らは手際がよかった。パソコンなどの小型の機器は、振動を吸収するクッションがついた専用の頑丈な箱に納めるだけだったり、複雑な形の大きな機械も、すっぽり保護できる緩衝材を持ち込んでいたりして、撤収作業は設営作業の数分の一の時間で終わってしまった。
ものが片付いた社務所の広間は、妙にがらんとして見えた。
昨日、仕事が終わったあと、夜更けに帰宅した母は、父から調査の中断とわたしのアルバイトの終了の話を聞かされたらしく、着替えもしないままでわたしの部屋まで様子を見に来た。
一声、二声掛けられても、完全に腹を立ててベッドにもぐりこみ、返事もしないわたしに、母は肩をすくめただけで何も言わず、机の上に置いていたコサージュを手に取って見ていた。
『さかさまにしてつるしておいてみたら。きれいに乾燥すれば、ドライフラワーになるかも』
それだけ言いおいて、母は部屋を出て行った。
何かを察しているような態度だったが、実際には何もしない。父とわたしがケンカした時はいつも、父の批判はしないが、わたしを責めたりもしない。母はそういう人間である。
わたしが自分から母に相談するか、自分で何かを決断するのを待っているのだろう。決断があまりに遅かったり、状況判断に無理があったりすれば、淡々と指摘してくる。でも今回は何も言わなかった。
わたしは今朝の食卓でも父と一切口をきかなかった。
もう二十歳を超えた娘に、自分の考えを一方的に押し付けられると思ったら間違いである。
父もわたしと目を合わせようとはしなかった。
何か思うところがあったのかもしれないが、父の気持ちを忖度するつもりはない。
関わるなと言われたところで、このまま黙って引き下がるつもりはなかった。
誰が何を気にしているにしろ、脅迫者が、奥谷の祟りという、この辺でもさほど重要視されてこなかった事柄を持ち出してくるのであれば、神社のことについてわたしができるだけ知っておくことには意味があるはずだ。そして、家や集落から自由に出られなかったとしても、わたしにはやれることがある。
この前軽く仕分けした神社文書のうち、優先的にデータ化しようとしていた文書を、自分の部屋に運びこんだ。医院文書も、ツクモに渡す前に自分のUSBメモリにもコピーしておいたので、リビングのパソコンでプリントアウトした。
翻刻は決して得意分野ではなかったけれど、アルバイトができなくなった夏休みの大学生には時間だけは腐るほどある。幸い、医院文書は先代の院長先生が翻刻してくれている分もあるので、活字になっているものから読めばいい。
受験勉強の時以来ではないかというくらい、机の上に辞書や参考書を積み上げ、古文書にノリ付きメモ用紙は使えないため、メモを取りながらしおりとして挟む細い紙を束で用意し、ルーズリーフを広げて、わたしは自分の手には少々余るのではないかと恐れていた古文に正面きって挑戦し始めた。
昼食の時、恐る恐るといった様子で、父が尋ねてきた。
「郁子は夏休みこの後どうするつもりだ」
「勉強。神社の。文句ないでしょ、あれだけ、後継ぎの自覚を持てって言ってきたんだから」
目も合わせずに言下に答え、昨夜の作り置きのなす味噌炒めをご飯にのせてかき込むと、わたしはさっさと食卓を後にした。
しょんぼりしているアラフィフなんか相手にしている暇はない。
ツクモほど早くは読めないとしても、こちらにだって、日本文学科の学生として多少のプライドというものがある。あのミミズののたくったような字が並んだ古い和紙から、できるだけ多くの情報を引き出してやる。そのためには、時間はいくらあっても足りないのだ。
わたしは直感的に、医院文書にでてきた江戸中期の事件、宮守芳にまつわる出来事に狙いを定めていた。昆虫が出てくる大きな事件で、事件には今はご神域である奥谷も関係している。奥谷について情報をできるだけ集めるのは理にかなっているはずだ。偶然かもしれないけれど、産業スパイが奪ったデータにも、この事件について触れられた箇所があったし。
今までにツクモとざっと把握した内容では、当時は奥谷はまだご神域ではなく、宮司以外の人が出入りもしていたようだ。ここからスタートしていけば、なにか、手がかりが得られるかもしれない。何の当てもなかったけれど、その日からわたしはひたすら文書の解読に没頭した。
母によると、父と話をした翌日には、ツクモから、医院の院長先生宛に、協力への感謝と、調査の中断を伝える丁寧な挨拶の電話があったという。
羽音木は小さな集落で、情報が回るのも早い。調査の中断は、大企業ならではの複雑な事情が絡んだ出来事なのだろう、くらいに、ふわっと受け止められているようだった。
ツクモは、異変があったら必ず連絡するようにとわたしに約束はさせたものの、自分からはぱったりと連絡をしてこなくなった。父に遠慮しているのだろう。
何に腹を立てているのかもう自分でもよくわからないけれど、とにかく、怒りのエネルギーがわたしの原動力だった。姿を隠したまま卑怯な手段に訴えている脅迫者にも、わたしの考えも聞かずにわたしに一方的に指示できると思っている父にも、父に言われたからって律儀に連絡もとらなくなったツクモにも、全部腹が立つ。でも、一番腹が立つのは、この状況の全貌も見通せず、これを打破する何かが全くわからない自分自身に対してだったかもしれない。
その怒りを集中力にかえて、わたしはやみくもに、江戸時代の古文にしがみついたのだった。
◇
その部分を見つけたのは、作業を初めて一週間以上経ってからだった。
旧盆もすぎ、窓の外では、それまでのミンミンゼミとアブラゼミの合唱が次第に小さくなり、ヒグラシとツクツクボウシの声が優勢になってきていた。
ガラス越しに高く響くヒグラシの声をかすかに聞いて、折からの夕立が止んだのに気が付き、エアコンを止めて窓を開けた。網戸がきちんと締まっていることを確認して作業に戻り、読みかけだった部分を探そうとして、医院文書の、古文書そのものを撮影した画像のプリントアウトを綴じたバインダーをめくった時のことである。
読んでいたはずの場所よりかなり先で、『江月尼どのがみまかられ』と読めるフレーズが目に飛び込んできたのだ。
江月尼。事件の関係者だ。
ここまでの読み込みで、当時の藩主・築井広成の奥方が、宮守芳がチョウに包まれて行方不明になった事件の後、気鬱の病をえて、その後出家し、江月尼と名を変えていたことがわかっていた。出家で心が落ち着いたのか、診療の記録も間遠になっていたところまでしか読めていなかったのだが。
あわてて、前院長先生の翻刻したほうのファイルを確認したが、その個所はなかった。院長先生の翻刻作業が及ばなかった箇所だろう。
見つけた個所の前後を拾い読みしてみる。
亡くなる直前、江月尼は、それまで彼女を健康面から支えてきた医師、良順を病の床に呼んだ。日記の書き手で、集落の医院の院長先生の祖先にあたる人物だ。
江月尼は、そこで、これまで話せなかったことを聞いてほしい、と頼んだのだという。
良順先生は、その告白を日記に書き留めているらしい。
これは重大な手がかりになるかもしれない。
わたしはその部分にしおりを挟むと、本腰をすえて読むために、机の上を整理した。
他の文献を万が一汚したりしないように片付けて、医院文書のプリントアウトと辞書類、メモを取るためのルーズリーフだけを広げた机で、わたしは、じっくりとその文書を読み始めた。














