75 頑固者と分からず屋(後)
わたしは慌ててツクモを追いかけて庭に出た。
「ツクモ」
呼びかけたけれど、その後に何と言っていいかわからずにわたしは立ち尽くした。
ツクモは、停めてあった自動車の横でわたしに向きなおり、静かな口調で言った。
「ふみちゃん、ごめんね」
「何が?」
「ドウガネブイブイちゃんが来てる」
ツクモはわたしの髪に手を伸ばした。ひょいと親指の先くらいの大きさの甲虫をつまみ上げる。いつの間に止まっていたのやら。
「この子たちが来るのはいつも、ふみちゃんが怒ってるときと悲しいときと、びっくりしたときだ。オレはふみちゃんを怒らせたりびっくりさせてばかりだね」
「だって。お父さんもツクモも全然、わたしの意見は聞いてくれなかった」
「本当にそうだね。ごめん。でも、オレは諦めた訳じゃないから」
ツクモはまっすぐわたしの目を見た。
「どこの誰がこんなことをしているのか、島木さんや飯田さんにも協力してもらってちゃんと突き止める。うちの研究所を脅してただ言うことを聞かせられるわけがないって思い知らせてやる。その途中でふみちゃんが危ない目に遭うのは困るんだ。だからしばらく、ここの調査は中断にする。相手の目がふみちゃんからそれるならそれが一番いい。全部すっきり片を付けて、お父さんが心配しなくてよくなってから、もう一度申し込むよ」
わたしはうなずいた。
「父がひどいことを言ったよね。ごめんなさい」
「ふみちゃんが謝らないの。ふみちゃんとお父さんは別の人なんだから。ふみちゃんがずっとオレの心配をしてくれてたこと、分かってたよ。ありがとう」
ツクモは、言いながらブロンズ色の甲虫――ドウガネブイブイを夜の空気に軽く放り上げた。ぶん、と軽やかな羽音を立てて飛び立っていく昆虫を見送ってから、わたしの髪をくしゃっと撫でた。
「それに、お父さんの言うことはもっともだから。ふみちゃんのことを心配してるんだよ」
「それはわかってるけど、だからってツクモに失礼なこと言っていいわけじゃないもの」
「うちのおふくろなんか、いつも勝手なことばかり言ってるから。ふみちゃんパパの言うことの方がオレはよっぽど理解できる。失礼なことを言われたなんて思っていないよ」
ツクモにもようやく軽口をたたく余裕が戻ってきたみたいだった。口元に少し笑みが戻る。当たり前すぎて意識していなかったけど、いつも少しだけツクモはにこっとしている。ごくたまにある、そうじゃないときは、多分わたしはどこかで不安になるのだ。
「そういえば、パーティーが終わる直前。お母さん、すごい剣幕で何か言ってたでしょ。何だったの?」
ふと気になってわたしは尋ねた。
「ああ、あれ」
ツクモは渋い顔をした。
「いつもの超理屈、謎ロジック。めちゃくちゃな話になっててよくわかんない」
「なんて言ってたの?」
ツクモはちょっと眉をひそめて遠くを見るような目つきになった。頭の中でその瞬間を録画再生して、それを実況中継しているような口調で言う。
「せっかく郁子さんがお友達になってくれたのに、あんなガが出たからって嫌がるお嬢さんを抱えてまで前に出てくることないでしょうって。そういうときは虫は放っておきなさい、ってさ」
「……まあ、一般論としてはそういう反応になるよね」
「後は――そう、お付き合いしはじめでいいところを見せたい気持ちはわからなくもないけど、子猫を助けたんならともかく、ガを捕まえても、女の子はそんなに喜ばないと思うわ、とか。安心させようと思っていたのかしら、でも人目のあるところであんな風に見つめ合ってくっつくものじゃありません、だったかなあ」
「ちょっと待ってよ。そんな話になってるの?!」
顔から火が出るとはこういうことを言うんだろう。そして、この展開にこんなに恥ずかしい気持ちになっているのがわたしだけだという事実にも唖然とする。
何せ、その記憶を復唱した本人は、全然わかっていない顔で首を傾げているときた。
「そんな話って、どんな話? っていうかさ、友達付き合いを始めたからって、いい所見せるって発想、全然意味わからないし、猫とガをなんで比べるわけ? どっちも生き物なのに、その差のつけ方とか、超理屈過ぎてもう完全に理解不能」
乙女軍団の公式見解では、ツクモが昆虫嫌いの付き合いたての彼女=わたしを無理やり現場に連れてきて、人目もはばからずいちゃついて、わたしをなだめて安心させながらガを捕ったことになっているらしい。それまでの、何度訂正しても軌道修正できなかった乙女軍団の野次馬的な希望込みの勘違いを踏まえれば、推して知るべしという流れには違いないのだが。
ああ、もう。目の前できょとんとしている誤解の渦中の当人に説明する気にもなれない。
「本当はあの時、パニックを起こしかけて助けてって言ったのはツクモなのに」
わたしがむくれると、ツクモはくすくす笑った。
「それはそれで、なかなか信じてもらえないと思う。ふみちゃんがどうやったらオオミズアオちゃんたちを引きつけてくれるか、あの瞬間、必死で考えてたんだ」
「ツクモとしてはどういう意図だったの?」
あの時わたしは素朴に、ツクモが本当に途方に暮れて、純粋にわたしにすがる目を向けているんだと思っていた。だが、今思えば、そうではなかったはずだ。
もちろん今だって、ツクモが悪意を持ってわたしをだましたり、トリックに引っかけたりするつもりではなかった、ということはわかっている。ツクモなりの倫理観や生命愛に基づいて、オオミズアオを死なせたくない、と切羽詰まっていたこと自体は間違いない。
でも、冷静になってみれば、わたしの感情を動かすように訴えればいいとツクモにはわかっていたわけだから、あの行動にはツクモなりの意図や戦略があったはずだ。
わたしに問われて、ツクモは少し嬉しそうに説明した。工夫した作品について語る小学生みたいに、純粋に誇らしげな口調だった。
「もう、ハグは慣れちゃってて使えないかなって。でも、オレ、レパートリーがないから。で、ふみちゃんの場合、おそらく身体的な近接が緊張を招くのは確かだろうというのは、ここまでの観察結果から推測できた。それに、動物って本能的に視線が合うと緊張や切迫感が生まれるんだ。その両方の条件を満たしてくれそうだったから、試しに、さっきの映画を応用させてもらっちゃった」
「映画……。あ! そういうことか!」
クライマックスのシーンだ。やっと思い出した。凉音ちゃんと星川くんが向かい合う。お互いに一歩ずつ距離を詰めて、つま先が触れ合わんばかりになる。星川くんの片手が凉音ちゃんの背中に回されて、反対の手は凉音ちゃんの頬に添えられ、二人の視線が絡み合う――。
あれだったのか。
気づかなかった自分のうかつさにも腹が立つ。言われてみれば確かにそうだ。そりゃ、乙女軍団も桐江さんも勘違いを加速させるわけだ。
「バカツクモ。あんなの、友達はやらないんだよ。あれは、お互いに好きですって言った恋人同士が二人っきりのときにするやつ!」
家の中に聞こえないようにトーンを抑えつつ、わたしが文句を言うと、え、とツクモは驚いた声を上げた。夜の闇に紛れてわからないけど、きっと顔色も青ざめてる。
「おふくろとなんか話がかみ合わないと思ったんだ。……じゃあ、あの後で女の子がつま先立ちになった靴の様子が映ったのって、あれは――」
その先を言いあぐねて絶句している。今度はきっと、真っ赤になっているんだろう。
「ご想像の通り。キスシーンの暗示」
わたしは腕を組んで苦々しくうなずいてやった。っていうか、そこまでわかってなかったんかい。よくこの世の中、生き抜いてきたな。
「……ごめん。ふみちゃんは困るよね」
ここで真っ先にわたしの立場を案じて謝ってくれる素直さは、得がたい長所だと思う。それに免じて許してあげることにした。
「うん、まあ今謝ってくれたからいいよ。それに、本当に困るのはわたしじゃなくてツクモだから」
「どういうこと?」
「多分、しばらく桐江さんとお友達にしつこく聞かれるよ。お花のことと、あの一件で、いくら否定しても、わたしのこと、ツクモの彼女だと思ってるんじゃないかな」
うー、とうなって、ツクモは頭を抱えた。
自分のまいた種である。わたしにはどうにもできない。
「頑張ってね」
わたしが背中をとんとんとたたいてやると、ツクモはふっと腕をおろしてわたしを見た。
真顔になって言う。
「ふみちゃん、本当に気をつけて。お父さんもああ言ってるから、オレは今は手出しできない。でも、相手の目的がわからないから、うちがいったん手を引いたところでどう出るかの予測がつかないんだ。この前のひき逃げ未遂の件も気になるし」
わたしも背筋を伸ばした。
「わかった。一人で自転車で出歩くのは、羽音木の集落までにする。駅のほうまで降りるときは、車を使うか、送り迎えしてもらうよ」
「何か少しでも、変わったことがあったら教えて。情報はいくらあってもいい。お父さんは関わるなといったけれど、ふみちゃんに危険がせまっていると判断できる材料があれば、必ず助けに来る。お父さんも説得するから」
「うん、わかった」
必ず守る、必ず助ける。
そんなことは、いろんな人の感情や願いが交錯し、ままならない現実の中で、いくら頭がよかろうが、お金持ちだろうが、ただの人間であるツクモに約束できることではない。今日のことだって結局そういうことだ。論理的な彼には本当は最初からわかっていたはずだ。
でも、それを再び口にした彼には、どこか祈りのような非合理性が感じられた。理屈だけでは動かせない何かを、今まで、感情はどこかにおいてきたような理屈の世界で生きてきたはずのツクモが口にしている、その事実だけでわたしには十分だった。これがツクモに差し出せるわたしへの友情なのだ。
わたしが彼への友情として何をできるか。それははっきりしていた。とにかくどうにか知恵を使ってこの馬鹿げた事態を無事に切り抜けるのだ。そうしたら、ツクモは最終的にわたしの身の安全を提供するという約束を守ったことになる。わたしが使う知恵には、きっと、この短い期間でツクモから教わったことも沢山あるはずなのだから。
ただ、具体的に何をしたらいいのかは、さっぱり見当がつかなかった。
ツクモをのせたクワガタ号は、低いエンジン音を立てて去っていった。
「さて、どうしよう」
とりあえず、しばらく父とはまともに口をきかないことにしよう、と決めた。ストライキなんて子どもっぽいかもしれないけれど、最初に筋の通らない分からず屋なことを言い出したのは父の方なのだ。
わたしは言いなりになんかなりはしない。














