74 頑固者と分からず屋(前)
事態を決して甘く見ていたわけではないと思うのだが、続く展開はわたしの想像を超えていた。
「私がお連れしながら、こんなことになってしまって、申し訳ありませんでした」
ツクモはソファには座らず床にひざを突き、正座で父に頭を下げた。
父は腕を組んだまま、むすっと押し黙っていた。
「止めてよツクモ、ツクモが悪いんじゃないでしょう? 脅迫する人が悪いんだよ」
わたしはうろたえて、ツクモの隣にひざを突いた。握り拳にしてひざに置かれたの彼の手を取ろうとしたけれど、彼は強張った顔で頑固に唇を引き結んだまま、その手も動かさなければわたしの方を見ようともしなかった。
「お父さんも黙ってないで何か言ってよっ! 実際にはけがの一つもしてないんだよ」
生まれ育った家の見慣れたリビングに、今まで感じたこともないような重い沈黙が落ちた。エアコンを止めて開け放たれた窓の向こうには、網戸越しに漏れる室内の明かりに、外壁に沿わせるように植えられたのうぜんかずらの花がぼんやりと浮かんで見えた。かすかに柔らかく甘い香りが漂う。
ツクモはわたしを連れて家に戻り、父に話があると申し出た。そして、謝らなければいけないことがあると前置きした上で床に正座し、今日あった出来事を順序よく説明した。事前の脅迫状の件、わたしのスカートにデザインナイフの替え刃が刺された件、ガが放された件、侵入者を捕まえた件と、ジャケットを切られた件。
そして、一通り説明がすんだ後、頭を下げたのだった。
時代劇じゃあるまいし、わたし本人は何事もなくぴんぴんしてるのに正座で頭を下げるとかどうかしている。そもそも、わたしはもう二十歳でちゃんとした大人だ。自分の身の安全に責任があるのは自分なのだ。ツクモがいくら無事にエスコートしますと言ったからって、誰かの悪意にさらされてわたしが巻き込まれた騒動に、ツクモが頭を下げるなんて絶対におかしい。
けれど、そんなわたしの主張に、首を横に振ったのは父ではなくツクモ本人だった。
「スカートの一件では、けがをしていてもおかしくない状況だったと理解しています。どのようなお怒りも甘んじて受けます」
「大げさだってば」
わたしは泣きそうになった。ツクモが謝るのは絶対に筋が違う。でも、お父さんは親ばかだから、わたしが絡むと見境がなくなるのだ。
「郁子に危害を加えたかもしれない人物に、心当たりはあるんですかな」
父は重苦しい口調で言った。
「現時点では、まだ何も申し上げられません」
ツクモは一瞬奥歯を噛みしめた。
「ただ、私と社のセキュリティチームは、現時点ではおそらくこれが、神社の古文書と周辺の昆虫の生態調査への協力をお願いしたことと関連があると思っています。そして、その人物は、執拗に奥谷のたたりがあると脅している。こちらのご神域に何かこだわりや目的があるのかもしれません。そこに調査研究が及ぶのを嫌がっているようにも見受けられます」
「何もないところです」
父は唸るように言った。
「脅迫は、立派な犯罪行為です。郁子がそのナイフの刃で怪我していれば、傷害罪にだってなるかもしれない」
「だからお父さん、どんどん大ごとにしてるってば!」
わたしの言葉を父は丸ごと無視した。本気で怒っているときの態度だ。
「それだけの危険を、その人物も犯していることになる。見つかれば社会的な非難は免れられない。なぜそこまでするんですか。理由がさっぱりわからない。僕は宮司として年に何回かご神域には入りますが、別にその手前までと何も変わりません。普通の山ですよ」
「私にもわかりません。そもそも、七曜神社の宮司しか入らない土地に、どうしてこの相手がこだわるきっかけを持ったのかすら。ですから、これもまだ仮説なんです。でも、郁子さんに危険が及んだのは事実です。今後も、相手の目的がわかって必要な対処ができるまでは、安心するわけには行かない。社としても、こうした行為を許すわけにはいきません。どういう相手がこんなことをしているのか、調査するつもりです」
父は険しい表情を崩さないまま、じっと考え込んでいた。
「お父さんっ! せめて、ちゃんとツクモをソファに座らせてよ。ツクモが悪いことをしたわけじゃないんだよ。床に座らせるなんて失礼な真似しないで! ツクモも、立ってってばっ」
わたしは怒りに任せて叫んだ。だが、父はそれを意にも介さず、厳しい口調でツクモに言った。
「必要な対処が何かははっきりしている。帰ってください。もう、手を引いていただきたい。僕はここで二十年以上宮司をしているが、こんなことは初めてです。ツクボウさんの調査が入っておかしくなったんだ。脅迫状は、研究所に届いていたとおっしゃいましたね。ツクボウさんを関わらせたくないということでしょう。家族に危険を及ばせてまで、協力できる調査研究などない。娘のアルバイトも、ここまでにしていただきたい。僕は家族を守る責任があります。娘に関わらないでください」
「待ってよ! なんでわたしのことをお父さんが勝手に決めるの?」
「申し訳ありませんでした」
ツクモは深く頭を下げた。
「だから、なんでツクモが謝るの」
誰もわたしの言葉を、わたしの気持ちを聞いてくれない。みんな、わたしの頭越しに勝手なことばかり言っている。わたしは途方もない無力感におそわれて、へたりこんだ。
ぶん、と音を立てて、何かが網戸にぶつかった。ぶつかったところにへばりついたそれは、よちよちと網戸の外側を歩き始める。
カナブンだ。
とっさにそう思ってから、首をかしげた。
カナブンではないかもしれない。何と言っていたか。カナブン以外にもいくつかいた。アオドウガネちゃん。シロテンハナムグリちゃん。ドウガネブイブイちゃん。『ふみちゃん、このくらいの大きさのこういう虫、全部カナブンだと思ってるだろ。全部違いがあって、名前があるんだよ』。ツクモがそう言っていたのはいつだっただろう。
もう覚えた。知らないうちにいくつも覚えてしまった。
わたしの気持ちにも、全部違いがあって名前があるんだと思ってくれる人はいるんだろうか。わたし自身にも名前の付けられない気持ちがいくつも、自分の中に渦巻いていた。
ツクモは立ち上がった。
「こんなかたちでご迷惑をおかけしてしまうとは思っていませんでした。ここまで、快くご協力いただいてありがとうございました」
もう一度深く頭を下げた。
「僕も残念ですが」
ちっとも残念ではなさそうな口調で父が言う。
ツクモが出て行っても、父は腕を組んだまま微動だにしなかった。














