70 オオミズアオ
ふいに、会場の一部で悲鳴があがった。
ツクモがわたしをかばうようにさっと前に出た。
ざわざわと、人が動く気配。和やかだった場が、一気に緊迫した雰囲気になる。
「何?」
「わかんない。待って」
ツクモは人垣の向こうを透かし見るように目を凝らしている。わたしもツクモの背中の後ろから覗き込んだ。人が押し合いへし合いしている。女性の小さな悲鳴がいくつか重なる。
不審なにおいも音もしない。煙なども見えないから火事ではない。人々が一斉に部屋から逃げ出そうとしているわけでも、何かに殺到しようとしているわけでもない。ただ、みんな上を見て、女性たちが大きくよけようとしていて――――。
上?
その視線の先を追って気がついた。大きな、チョウのような白っぽいものが、はたはた、ひらひらと人々の頭上を飛び回っている。
「こっちにも!」
少し離れたところでも悲鳴が上がった。もう一羽。いや、あっちにも、全部で三羽?
オレンジ色の光を投げかける、シャンデリアを模したキラキラした照明の下で、ダンスを踊るみたいに、緑がかった白っぽいチョウが互いの周りをぐるぐると回る。アゲハチョウよりさらに一回り大きいだろうか。室内に三羽も飛んでいるとかなりの迫力だった。
「ツクモ、あれ……」
わたしは隣のツクモを振り仰いだ。
「オオミズアオだっ!」
「あれ、ガよ!」
ツクモが叫ぶのと、誰かが叫ぶのが同時だった。
集団パニックのようになった女性たちから、きゃあああっ、と悲鳴が上がる。
「落ち着いて、お離れください! 当店の不手際で申し訳ありません。すぐ対処しますので、お待ちください!」
ギャルソン風の黒服の男性が、ステージのマイクをとってアナウンスした。その声も、驚きと焦りでひっくり返ったようにかすれていた。店の責任者だろうか。
「まずい!」
ツクモはわたしの手をひっつかんで、ガの方に向かって走ろうとした。
「待って、ツクモ!」
履き慣れないヒールが邪魔をして足がうまく動かない。
「対処されちゃう!」
ツクモが焦った声で言う。次の瞬間、わたしはツクモに抱え上げられていた。歩き始めの子どもを抱っこするみたいに、縦にひょいっと持ち上げて腕に座らせるような格好だ。
「えーっ! 待って、ツクモ待って、何これ!」
「待てない! 対処って、殺虫剤だ!」
ツクモの声にははっきりした恐怖とパニックがあった。わたしを抱えたままツクモは走った。慌ててわたしもその肩につかまった。
「オオミズアオちゃんが殺される!」
「毒蛾なの?」
「違う。毒もないし、何もしない。成虫になってからは何も食べないんだ。ただ繁殖行動をして静かに死んでいく。殺す必要なんてないんだ。外に出してあげればそれだけでいいのに。薬品には弱いんだ。スプレーなんか使ったら全部死ぬ!」
「網は?」
「持ってない。車の後部席を空けなきゃいけなかったから、下ろして、それで」
いつの間にか、わたしとツクモは後ずさった人垣の内側に来ていた。
はたはた、ひらひらと、オオミズアオはあいかわらずシャンデリアの下をぐるぐる回っていた。シャンデリアから下がっているガラスのビーズに羽が触れてしまったのだろうか、ときどき、銀色っぽい粉のようなものがぱっと宙に舞う。
ツクモはわたしを地面におろした。靴の踵が床に着く感触にほっとしたのもつかの間、わたしは正面からツクモにぐいっと引き寄せられた。
わたしにだけ聞こえる低い声でツクモは囁いた。
「助けて、ふみちゃん。このままじゃ――――」
その声と、形のきれいなツクモの唇はわずかに震えていた。わたしの目を覗き込む、濃い鳶色の切れ長の瞳は、はっきりとおびえていた。
ツクモは今、心底困って、わたしを頼っている。ツクモの片手は、わたしの背中におかれて、震えをこらえるように指先だけに力を込めてわたしを抱き寄せている。その反対側のツクモの手が、わたしの頬に触れた。
その瞳から、目をそらせなかった。
どうしようもなく、鼓動が早まった。涙に似たかたまりが喉にこみ上げてくる。
わたしはこの人に何ができるだろう。
どこか遠くで悲鳴が聞こえた気がした。ガが、と叫んでいるようだった。
ツクモの指がわたしのひじに掛かっていたショールをからめ取って、そっと抜き去った。
「これ借りる。ごめん」
すべては一瞬の出来事だった。ツクモはわたしの背中から手を離すと、両手でショールを広げてわたしの背後に振り下ろした。
次の瞬間、ツクモの手は、三羽のガが中ではためく、淡い金色のネットをぎゅっと握りしめていた。
ネット編みのショール一枚で、三羽のオオミズアオを一網打尽に捕まえたのだ、と理解するまでに、さらに一呼吸を要した。
周囲がどよめいた。今度は、悲鳴ではなく、賞賛の声だった。
「捕まえた!」
誰かの声。
「お騒がせしました」
ほっとしたようなツクモの声。
またやられた、と気がついたのはその瞬間だった。しかも、こんなたくさんの人の目の前で。顔が真っ赤になるのがわかる。
わたしの感情の動きに訴えかけて、よくわからない化学物質を出させて、高いところにいたオオミズアオを引き寄せたのだ。
マジか。この一瞬で、その判断を普通するか?
くそう。世界が違うどころの騒ぎじゃない。ツクモひとりが、宇宙人並みにぶっ飛んでる。生まれとか育ちとか一切関係ない。いくら世間に合わせたプログラムで何とか外面を取り繕おうが、根本的な発想や判断において、結局ツクモはツクモなのだ。とんでもないやつである。
「外に放してこよう。ふみちゃん、一緒に来て」
ツクモは嬉しそうな全開の笑顔で、わたしに片手を差し伸べた。
この、公開拷問みたいな場面を抜け出せるんならもう何でもいい。わたしはツクモの手を取って、一緒にフロアを抜け出した。
◇
芝生の庭は、夏の夜の湿った空気に、花壇の土のにおいや青々と茂る植栽のにおいが混ざって、むわりとした生命力にあふれているようだった。芝生を明るく照らす室内の光に引き寄せられてしまわないように、十分に建物から離れてツクモがショールを広げると、三羽のオオミズアオはふわふわひらひらと夜空に舞い上がっていった。
「びっくりしたね。どこから迷い込んだんだろう」
わたしが言うと、ツクモはちょっと眉をひそめた。
「偶然かな。あんな大型のガが三頭も紛れ込むなんて、ちょっと考えにくい」
「どういうこと?」
「誰かが故意に放した可能性があるってこと」
「何のために?」
「そこなんだよ。オオミズアオは大きいし、色も目立つ。いかにもガっぽい、毛羽だった触角もあって、人を驚かせるには十分なお客さんだ。でも、毒はない。まったくの無害。殺虫剤なんか持ち出したらすぐ死んじゃう」
「騒ぎを起こすのが目的ってことかな」
わたしが首を傾げると、ツクモは少し声を低くした。
「さっき、会場内では言わなかったんだけど、関係先のいくつかに脅迫状が来てるんだ。前も言ったとおり、実際に何かが起こることは稀なんだけど、念のために、L県警にも相談してたんだよ」
「なんて? 何が目的なの?」
「映画の配給会社と、ツクボウ化粧品には、ただ、『騒動を起こす、試写会の参加者や出演者に何が起こるかわからない』というような内容。こちらがあったから、試写会の警備が厳しかったんだ」
「由奈ちゃんが言ってた。覆面パトカーが来ていたんだよね」
「そう。事情を知らない一般のお客さんには、不安を感じてほしくなかったから、あまり目立ちすぎない車で来てもらっていたんだ。ここにも映画の関係者も多く来ているから、念のため県警の車両が敷地の外まで来て、うちのセキュリティ担当の人と連絡を取り合ってる」
「狙いは映画の関係者なの?」
ツクモは顔をしかめた。
「普段だったら、そう判断したと思う。ただ、うちの研究所にも、時期を同じくして、前回の侵入盗事件と同じ主旨の脅迫文が来ていた。『七曜神社から手を引け。奥谷の祟りがある』、と。研究所への脅迫はこのイベントに特に触れてたわけではないから、全然別件のような気もしてたんだけど、時期が近いのが気になっていたんだ」
「それと、このオオミズアオの件が、何か関係あるのかな」
昆虫を持ち出したところは、映画というより、虫封じの七曜神社の方になにか関係があるのかと想像させるところもある。
「そうかもしれない。だとしたら、そのねらいは何だろうって。オオミズアオ自体は無害だとしても、騒ぎを起こしてどうしたかったのか。……戻ろう、ふみちゃん。嫌な予感がする」














