07 貴族的会社員と人生の理不尽
むすっと黙り込んで、居間の隅にあるパソコンを起動したわたしに、やっと笑いを引っ込めたツクモは何かを差し出した。
「さっき、何者って聞いてただろ」
むすっとしたまま無視して翻刻をワープロソフトで打ち込んでいると、ツクモはそれをパソコンデスクの上、キーボードの隣に置いた。
「名刺?」
気になって、つい手に取ってしまう。
『(株)築井紡績 バイオリサーチセンター
生物・環境文化学部門 主任研究員
築井 文史朗』
さっぱりわからない。
「……これって何の部署なの? ツクモは何する人?」
「ええと、昆虫の研究と、ほかの研究員の人たちのお手伝い。何の部署っていうか、この部門にはオレしかいない。大学を出るとき、院に進んで昆虫の研究をしたい、親父の会社なんて入らないって言い張ってたんだけど、おふくろには家業の勉強と手伝いをしろって泣き落としの一手で迫られるし、親父には先手を打たれて、会社の研究所にこんな部門まで作られちゃったんだよね。で、他の義務をちゃんとこなしたら昆虫の研究だけは細々と続けてもいいっていう条件で、仕方なく入ることになっちゃったんだ。だから、普通の会社員で、昆虫の研究者だよ。怪しくないよ」
親父の会社?
社名と名字をあらためて見比べて納得した。社長令息か。複数の研究員を抱える研究所を置けるくらいだから、それなりの規模の企業なんだろう。今の話だと、就職活動の苦労もなしか。道理で浮き世離れしてるわけだ。怪しくないかどうかはともかく、そういうのは普通の会社員って言わない。翻刻を貴族的な喜びだと評した日に、本当の意味での貴族を見てしまった気分だ。
「ふみちゃん、バイトしない? 昆虫採集の助手がほしいんだ。この近辺、生息数とか種類とか、ちょっと独特な気がするんだよね。インベントリの予備調査をしたいなと思ってて」
彼の話にはちょくちょく、耳慣れない言葉が混ざって引っかかる。だが、この瞬間に限って言えば、『インベントリってなあに?』なんて聞き返したら確実にわたしの負けだろう。
「素人だから捕れない。チョウとかも、小さい子どもの頃なら持てたけど、今はもう無理。触れない」
わたしは言下に切り捨てたが、ツクモは食い下がった。
「捕るのも触るのもオレがやるから。道案内とか、記録つけとか、山の持ち主や畑の持ち主にご挨拶に行くときに紹介してもらったりとかの補助作業。地元の人がいいんだよね。大学生なら、試験とレポート終わったら夏休みでしょ?」
「そうだけど、バイトは他に当てがあるんで」
「えー楽しいのに。昆虫採集できて、さらにバイト代もでるんだよ? 仕事ある日はまる一日だから、バイト代もちゃんと弾んでもらうからさ」
「昆虫を触れないわたしに、昆虫採集そのものがメリットになる訳ないでしょ。ツクモはそりゃ楽しいから昆虫学者なんだろうけど」
そこまで考えて、ん? となった。さっき引っかかったポイントが別にあったはずだ。
「なんで、昆虫の研究者が古典の崩し字を何の辞書や教科書もなくすらすら読めるの? 普通、日本文学科出身でも、いきなり何も見ずには無理だよ。ピンポイントで中世や近世文学の研究者とかならともかく」
中世は鎌倉・室町時代、近世は江戸時代の文学研究上の呼び方である。
幼い日のツクモ少年が大きな家の中で手習いで崩し字を教え込まれている様子や、ご両親との日常生活の連絡やメモとりに毛筆でさらさらとあの複雑な字を書きつけている様子を想像してしまった。浮世離れにもほどがある。大きな会社の社長令息だからといっても、それじゃコントだ。いくらなんでも現代日本、そんなことはないだろう。
「そりゃ、必要があったから覚えたに決まってるだろ。オレは生態研究だけじゃなくて、文化研究もやってるの。旧家に伝わる古文書を見せてもらったりして、江戸時代やそれ以前にイナゴが大発生したときの状況を調べたり、深山の昆虫がそれこそ妖怪みたいに伝承されてるのを調べたり。だから、モンシロも気に入ってたけど、ツクモも気に入っちゃった。ふみちゃんセンスあるね」
にこにこしている。悪態のつき甲斐がない相手とはこういうのをいうんだろう。それにしても、普通の事情だった。よかった、おばかな思いつきを口走らなくて。
「ふみちゃんち、神社だっていってただろ、さっき。お隣の。古そうだよねえ、古文書とかないかなあ」
「そういうのは父に聞いてもらわないと。でも、どうかなあ。うちは虫封じの方だから、だめじゃない?」
虫除けのお守りのほかにも、近在の農家から、農作物の豊穣を願って害虫や疫病を追い払うべく、お札や祈祷を頼まれることがあるのだ。昆虫採集をしたい人には迷惑な神社だろう。だが、わたしの一言を聞いて、ツクモのテンションがまた上がった。
「えっ! 虫封じなの?! それだよそれ。イナゴは水田を荒らす害虫だから、大量発生すると困るんだ。このへんにもそういう史実とか言い伝えとかがあるってことだよね。封じた記録なんかがあるのかなあ、見たい見たい! ふみちゃんパパはいつ帰ってくるの?」
わたしは時計を見上げた。もう六時近い。
「たぶん、そろそろ。って、あー!」
わたしは焦って立ち上がった。
「忘れてた、わたし今日ご飯当番! お父さん帰って来ちゃうよ……」
米もといでないし、何の下ごしらえもしていない。
全てはツクモの出現でペースが狂ったせいだ。
「ツクモ、手伝え! お父さんに会いたいんでしょ! おなかが空いているお父さんはすっごい不機嫌なの。ご飯食べた後じゃなきゃ古文書の話なんて絶対に無理」
「じゃあ、オレも食べていい? お腹空いたー」
まあ、そうせざるを得ないだろう。虫封じの話をした瞬間、散歩セットを見せられた犬みたいにキラキラしたまなざしになったコイツが、帰れって言われても帰る訳ないというのはわかりきった話だし。
「粗食でよければどうぞっ! そのかわりちゃんと働いてよ」
わたしは言うと、台所に駆け込んだ。
◇
炊飯器の早炊きコースでご飯を炊いている間に、挽き肉と小さめに切った夏野菜でカレーを作った。メニューの取り合わせが変なのは無視して、ぎりぎりの時間で冷や奴を仕上げ、父の車が私道を曲がってきた瞬間に炊き上がりのメロディーコールがなったのを聞いて、わたしは安堵のあまりキッチンのいすに崩れ落ちるように座り込んだ。
「間に合ったー!」
前回のご飯当番は、うっかり忘れていたせいで、コンビニで買ってきた家族三人分の食事の代金を、神社の手伝いの『バイト代』から天引きされてしまったのだ。つつましやかな大学生の懐事情にはかなりの痛手だった。
おぼつかない手つきながら、玉ねぎの皮をむいたり、わたしが切ったものを炒めたりと、なんだかんだでそれなりに役には立ったツクモも、うれしそうに腰を下ろした。
「おいしそう」
ふと、こいつ、普段はどんなもの食べてるんだろう、と思ったけれど、今聞くのはやめた。浮世離れしたものを言われても困る。どのみち、今ここにはこれしかないんだし。
「あ、ツクモはこっちに座って。そこはお父さんの席。隣はお母さんのだけど、今日は準夜勤だからいないんだ。こっち、今片づけるから」
四人掛けのテーブルは、普段三人で使っているせいで、ついつい、予備の一席にものを積み上げてしまいがちなのだ。わたしは雑誌や郵便物が雑然と置かれていた、自分の席の隣の椅子の上をとりあえず空けて、ツクモを手招きした。
母の帰宅は日付が変わるころになるはずだ。母は近くの小さな病院で看護師として働いている。わたしが小さかった頃は日勤が中心だったけれど、小規模ながら入院設備もある病院なので、この頃は夜勤や準夜勤のシフトに入ることも多い。
「ふみちゃんは三人家族なの?」
「そうだよ、一人っ子」
ただいま、と玄関から、父の声が聞こえた。わたしは椅子から立ち上がった。
「おかえり!」
玄関に急いで、父のカバンを受け取る。宮司の仕事をしてきたので、今日は和服姿だ。
父は草履を脱ぎながら、あれ? と声をあげた。ツクモの靴に目を止めたのだ。わたしが水を掛けたせいでぐちゃぐちゃになった靴。忘れてた。なんとかしてやらないと、帰るときに困るだろう。
「郁子、お客さん? 車なかったけど」
「あー。話せば長い。色々あって、夕ご飯、一人多いです。とりあえず、着替えて」
「あっ! まさか、彼氏さん? そんな、紹介だなんて、そういうことは先に言ってくれないとお父さんも心の準備が」
「違う。絶対に違う。お父さんに仕事の話があるんだって。とにかく、着替えてきてっ」
台所に入れてはいけない。つまみ食いでもして、白の着物にカレーのシミがついたら、お母さんにわたしが殺される。
そわそわしている父を、仕事道具をおいている和室にカバンとともに送り込んで、わたしは肩で息をついた。
夕方とはいえ暑い戸外で仕事をしてきた父だ。シャワーを浴びなければ、夕食の席には着かない。ちょっとだけ、わたしが呼吸を整える時間はあるはずだ。
彼氏?
お父さんは何の心配をしているんだろう。ありえない。
そんなもの、人生二十年いまだかつていたことはないし、残念ながらこの先もしばらく見込みはない。
わたしは廊下の隅にあるストッカーから古新聞をとってくると、丸めてツクモの靴に押し込んだ。一枚目はあっという間に水気を吸い込んでぐちゃぐちゃになる。それを出して、二枚目に取り替えていると、ツクモが台所から顔をのぞかせた。
「ねえ、ふみちゃん、オレさっき忘れ物してきたかも」
「忘れ物?」
「うん。Tシャツに気を取られて、お風呂場に、パンツを」
「はい?」
聞き間違いだろうか。
今何か、とんでもなく不穏当な単語の組み合わせがあったような気がする。
いや、聞き間違いに違いない。
一瞬、現実逃避しかかったわたしの想念をわしづかみにして現実に引き戻すような悲鳴が、風呂場から聞こえた。
「うわああ、ふみこっ! ちょっと! お父さん聞いてない!」
わたしはこのあとの修羅場を瞬時に想像して、真っ赤になってツクモをにらみつけた。
「これ、全部ツクモのせいだよ。どうしてくれるのっ!?」
人生は理不尽である。どうして一度も彼氏ができたことがないうちに、男を家に連れ込んだかどで父親から尋問を受けなければならないのか。遺憾なことこの上ない。