68 デザインナイフ
往年の乙女たちのエネルギーは凄まじかった。藤原さんと橘さんをはじめ、桐江さんのご友人の集団である。
文史朗さんとはどこでどうやって知り合ったの? アルバイトって何をしているの? というあたりから始まって、乙女たちが大好きなコサージュの話まで。入れ替わり立ち替わり質問を重ねる乙女たちを相手に同じ話を三、四回は繰り返しただろうか。
母の金言はここで一番役だった。何度同じ質問をされても笑顔で、疲れた様子にならないよう姿勢良く、返事ははきはきして、自分の話はできるだけ簡潔に。わたしは慣れない会話に目が回りそうだったが、それでも、何とか持ちこたえられたのは、かわいいコサージュに目をきらきらさせたお姉さまたちが、わたしが言葉に詰まったり、どもってちょっと赤くなったりするたびに、まあっかわいらしい、初々しいわっ、と、ご自身の妄想で実に好意的にわたしの発言の隙間を埋めてくれたからに他ならない。
味方に付ける層を間違えない限り、勝てる、と由奈ちゃんが言っていたのはこのことなのだろうか。ふと気づくと、金山さんとリカさんの姿はどこにもなかった。
金山さんの狙いが、わたしをダシに、ツクモを笑いものにしようという魂胆だったとすれば、往年の乙女軍団が好意的にわたしを構い倒してくれた時点で彼の目論見はつぶれたことになる。乙女たちが、コサージュからのさらに甘い展開を期待しているという、ツクモにとってはどっちがよかったか正直わからないだろう強烈な副作用が残ったのは確かだが。
ツクモとしては、友達に、感謝の気持ちで、大げさでなく、さっと渡したかっただけのお花なんだから、その先を期待しても無駄なんだけど。わたしが何度か、お友達としてくださっただけのものなので、と言っても、乙女たちは全く無視してきゃあきゃあ盛り上がり続けたので、諦めた。人の噂も七十五日。何の展開もなければそのうち、乙女たちももっと盛り上がれる話題を見つけてそちらに夢中になるだろう。
チャリティーオークションが始まるという趣旨のアナウンスがあって、ようやくわたしを取り囲んでいた桐江さんのご友人方は、質問をやめて、三々五々フロアの端にもうけられたステージの方へ歩き出した。
「郁子さんも一緒にいらっしゃいな。今日は女の子が好きそうな、きれいな品物が多いのよ。見ているだけでも楽しいわ」
ジュエリーショップコンビの穏やかな方、橘さんが優しく声を掛けてくれた。快活な方の藤原さんは、率先してステージのほうへと集団を動かしている。二人とも、桐江さんのパーティの進行を陰から支える腹心の親友なのだろう。
「はい」
ツクモはまだ戻ってこなかった。ならば、一人になってしまわないように、集団からあまり離れすぎない方がいいだろう。由奈ちゃんの一つ目の忠告を思い出して、歩き出した橘さんの後ろに続こうとしたときだった。ワンピースの生地がわずかに引っ張られたような感触があって、わたしは振り返った。
センタークロスのかかった壁際のテーブルの足のあたりに、プリーツスカートの裾が引っかかっている。固い抵抗を感じて、わたしは引っかかった裾に手を伸ばした。アンティークな雰囲気の机である。裾を引っかけているのが古い木のささくれか何かなら、無理をすると生地が負けて鉤裂きになってしまうかもしれない。
「いたっ」
プリーツのかかった黒い生地をつまみ上げようとした瞬間、チクリと指を刺す鋭い痛みに、わたしは思わず声を上げて手を引っ込めた。指先に、みるみるうちに小さな赤いビーズのような血液の滴が一つ、盛り上がってくる。慌てて、手にしていたバッグからティッシュを取り出して、小さな傷口を押さえた。
どんな鋭いささくれか。
放っておくとほかのお客さんも同じようにひっかけてけがをしてしまうかも。お店の人に伝えようと、様子をよく見るためにもう一度慎重に手を伸ばしたわたしは、そこにきらりと光るものがあるのに気がついた。
背筋がぞっとした。
「何これ……」
小さな金属のかけらが、わたしのスカートの裾を刺し貫いて、テーブルの足にざっくり突き立っていたのだ。スカートには、さっきわたしが一瞬引っ張ってしまったせいだろうか、二センチほどの裂き傷ができていた。
今度こそ指を怪我しないように慎重につまみ上げて引き抜いてみると、それは、尖った、鋭利な金属の刃のようなものだった。折れたカッターナイフの刃だろうか。それよりは少し長いようにも見えた。
誰かがわざと、スカートの裾を画鋲で留めるみたいに、この金属片を突き立てていったのだとしか思えない。気づかず動いていたら、スカートの裾部分がもっと大きく裂けてしまったかもしれない。もっと運が悪くて、刃がスカートにくっついたままで机から外れ、それに気づかずその上に座ってしまっていたら、深刻なけがをしていたかも。
わたしは周囲を取り囲んでいたご婦人方とそつなく会話することに神経の全部を使ってしまっていたらしい。ここで立っていた間のどの時点でこの嫌がらせが行われたのかは、今思い返してみてもまったくわからなかった。
わたしはティッシュをもう一枚出すと、慎重にその刃を包んで、なくさないようにバッグの中にしまおうとした。
「ふみちゃんっ!」
ツクモだった。
人の群れを縫うようにかわしながら、小走りに向かってくる。
「ごめんね、すっかりおふくろに足止めされちゃって。お姉さま方に囲まれてたけど大丈夫だった?」
ちょっと身をかがめてわたしの顔をのぞき込んだ。
「わたしはね。後でツクモが質問責めにあったり、きゃあきゃあ騒がれたりして参っちゃうかもしれないけど、そこまではどうにもならなかった。自分で何とかして。嘘もよけいなことも言ってないけど、お姉さま方が火のないところに煙を立てようとするから」
あるいは、煙ではなくてロマンスの炎を。他人の恋バナがごちそうなのは、いくつになっても変わらない、女性の集団の業である。
「母の友達がごめん。嫌な思いしなかった?」
「ううん。みんな優しかったよ」
それは間違いなかったので、わたしは少し微笑んで首を横に振った。ツクモもちょっとほっとしたような笑顔を浮かべた。
「よかった」
「お母さんのほうはもういいの?」
「うん。そもそも、オレはふみちゃんと一緒にいるから、今日はもう自分でやってくれって、朝電話であらためて頼んであったんだけど、全然うまく伝わってないところがあって。今もう、強引に話を切り上げてきた。母の友達、悪気はないんだけど、質問する割に人の話聞かない人たちだから」
たしかに、ツクモがかなり苦手としそうなタイプの集団である。わたしも困っているんじゃないかと思って、急いで戻ってきてくれたのだろう。
「大丈夫だよ。みんな好意的だったもん。その前の誰かさんに比べれば、天使か菩薩。……それより、こっちが気になった」
わたしは畳んだティッシュの間からさっきの金属片を取り出した。ツクモの顔色が変わった。
「デザインナイフの替え刃だ。これ、どうしたの」
「デザインナイフ?」
「ペンの軸みたいな持ち手に、この刃を差し込んで使うんだ。なまってきたら、刃は使い捨てで取り替える。カッターナイフと違って、刃先がぐらぐらしないから、細かい作業に向いているんだ。建築や立体デザインをする人たちがクライアントに見せるための出来上がり模型を作るようなときに使う道具だよ」
「なんでそんなものが出てきたんだろう」
いぶかりながら、わたしが簡単に事情を説明する間に、ツクモの表情はどんどん険しくなっていった。
「会場の警備と話をしなきゃ。どこのどいつがやったんだ、こんなこと」
「ねえツクモ、何が起こってるの? 由奈ちゃんは、試写会の市民ホールが普段よりかなり警備体制が厳しかったって言ってた。警察もいるなんて今まで参加したイベントではなかったって。ツクモも、今、言ったでしょ。朝、お母さんにわたしと一緒にいるからパーティーのことは自分でやってくれって言ったって。本当はもう少しお母さんを手伝うはずだったのに、予定を変更したって聞こえる」
ツクモは何かを言おうとして、思い直したように口を閉じた。
「今ここでは、誰が聞いているかわからないから。必ず後で話す。ごめんね、ふみちゃん。おふくろが何を言おうがその場で癇癪を起こしてぶっ倒れようが、オレはふみちゃんのそばにいるべきだったんだ。ぎりぎり、会場内の警備責任者にはふみちゃんから目を離さないでいてくれるように言っていったんだけど」
「あのお姉さま集団に囲まれちゃったら結局一緒だったと思う。わたし、自分でも気がついてなかったんだもの」
「それでも、近くにいたら何か、例えばオレが気づいて追いかけることはできたかもしれない」
悔しそうに言う。
「まあ、今言ってもしょうがないよ」
わたしは肩をすくめた。こんなたくさんの人がざわざわと無秩序に行き交う場では、見張るべき対象がわたし一人だったとしても、もれなく見張り続けるのは困難だろう。ましてやツクモは、主催者側の人間として、パーティーのほかの部分でトラブルが起こっていないかも気にしなければいけない立場だ。
今は、無事にパーティーを乗り切ることの方が先決だ。考える材料を集めておけば、検討は後でもできる。
わたしはツクモのジャケットの袖のあたりをつかんだ。
「ここにこうしていつまでもいるのも不自然じゃない? オークションの様子、後ろからでも見に行こうよ」
何が最終的なねらいであれ、この刃が出てきた目的は、わたしやツクモを不安にさせたり、うろたえたりさせることだろう。騒げば多分、相手の思うつぼだ。落ち着いてあたりを観察して、情報を集めるほうが先だ。
それに、ツクモには少しでも気を軽くしてもらいたい。お母さんに言われて不承不承ではあったにせよ、この十日くらい、ツクモは今日のイベントのためにずいぶん労力を割いてきたのだ。自分の労働の成果くらい、一瞬でもいいから、晴れやかな気持ちで眺めてほしい。
「お花もお料理も、準備大変だったって言ってたのに、わたしまだツクモから説明してもらってないし」
ね、と首を傾げて見上げると、ようやくツクモも少しだけ目元を和ませた。
「うん。とりあえず、警備の人にこの一件を伝えてから、様子を見に行こうか」














