67 悪意とノールックパス(後)
こんなところで、負けるな郁子。母譲りの泣き寝入りしない気性で、今までだって、居丈高なじじいや失礼なオヤジどもにも毅然と対応してきたじゃないか。母なら、自分に向けられたこんな愚弄をけして許しはしないだろう。
内心で自分を叱り、気力を奮い立たせようとしても、金山さんの嘲るような声が脳裏から消えない。惨めにうつむかないで、顔を上げているだけで精一杯だった。
下を向いたら彼の言い分を肯定することになる。それだけは絶対に嫌だ。でも、反論しようにも、何をどうしていいのか頭が真っ白になって何も思い付けない。
不意に、背中に触れるものがあった。ツクモだ。彼は金山さんから目をそらさないまま、わたしに一歩近づいて、背中にそっと手のひらを添えてくれた。いつも彼の周りにわずかに漂っている、バニラみたいな甘い匂いが、ふと鼻をくすぐった。
ツクモが口を開いた。今までに聞いたことがないほど冷たい怒りに満ちた口調だった。押し殺している分だけ、さらにその怒りが増幅されて響くようだった。
「オレの大切な友人を侮辱しないでくれ。君の今の発言は許しがたい。取り消してもらいたい。調査に協力していただいているのも、オレの方からお願いしたことだ。君が何を想像しているか知らないが、下品な当て推量で人を傷つけるような物言いは止めろ」
「ずいぶんとかばうじゃないか。彼女にそれだけの価値があるのか? どうせ、物珍しくて構っているだけなんだろう」
「どう言えば君は今自分のしていることが最低の振る舞いだって気がついてくれるんだ? 君は家柄とかそんな話をするのが好きだったね。金山の方が築井より格が上だったとか、石高が高かったとか。オレはそんな苔の生えていそうなほど昔のことを持ち出すのは好きじゃないけど、君の趣味に合わせてわかりやすく言ってやろうか」
ツクモは言葉を選ぶように、一度息をついた。厳しい声で続ける。
「彼女は八百年以上続く家名と家業を守ってこられた由緒正しい家柄のご令嬢で、宮森家は大元をたどれば皇室にも連なる古い家名だ。せいぜい江戸時代、思い切りがんばっても室町末期の足軽くらいまでしかルーツをたどれない旧士族風情のオレや君は、世が世なら気安く話しかけられるような方ではないよ。口は慎むべきじゃないのか」
「八百年以上? 何の話だ」
金山さんが呆気にとられた顔でわたしを見る。
わたしも、話題のあまりの急転換についていくのがやっとだった。脳内のほこりをかぶったような片隅から必死で日本史の知識を引っ張り出す。
源氏と平家は臣籍降下した宮家、つまり天皇の血筋の家だ。つまり、平家の姫君を先祖に持つ宮森の家自体は皇族に連なると言って言えないこともない。途中で養子をとったことくらいは、貴族でも武家でもままあることなので、この際、無視していいということだろう。ツクモは抜け目なく、家柄とは言ったが血筋という言葉は一度も使っていなかった。
反撃だ。
わたしも、精一杯背筋を伸ばして金山さんをにらみ返した。
「築井さんのおっしゃるとおり、宮森の元は平安末期にさかのぼるようです。わたしも最近知ったのですが。もっとも、わたしの在所では森という漢字のつく姓の家が何軒かありまして、このいずれも、同志として同じ時期に興った家だと聞いておりますから、我が家の周りでは少々古い家というのはさして珍しい話ではございません。古いだけでは何ともなりませんが、父もわたしも、代々果たして参りました家のおつとめには誇りを持っております」
どうにか古い家の令嬢らしく、冷ややかに言ってやった。
家柄が古いとか、平家だとか、そんなことをいちいち自慢たらしく言って彼と同じレベルに下がる気はない。宮森家がそんなお家柄だと主張してしまえば、当主ということになる父はあののんびり屋で陽気で親ばかなアラフィフのおっさんで、威厳や風格とはほど遠いし。だが、母が嫁いでくるのとほとんどすれ違いであの世に行ってしまって会えなかったおじいちゃんや、その前のご先祖様たちがずっと守ってきた神社と、そこで宮司を務める父の姿は、ずっと、わたしにとって誇らしい存在だった。そこは一歩も譲る気はなかった。
宮森の娘として、わたしは背中を丸めて負けを認めるわけにはいかないのだ。
背中にずっと置かれていたツクモの手の指先に一瞬ぎゅっと力がこもって抜けた。きっと、これは、よくやった、の合図だ。わたしはツクモのノールックパスをちゃんと受け止めてシュートに持ち込んだんだ、とわかって嬉しくなった。これでわたしたちにポイント加算だ。
「森のつく姓……」
金山さんは眉をひそめて、わたしの言ったことをオウム返しにした。気圧された様子だった。
そこに、不意ににぎやかな声が掛かった。
「まあ、文史朗さん探していたのよ!」
桐江さんだ。数人のご友人と共に現れて、あっという間にわたしたちを飲み込んでしまった。
「おふくろ」
毒気を抜かれたような声でツクモが言う。
「このあとのオークションの段取りを最終確認したくって! ああ、郁子さん、こちらわたくしのお友達の藤原さんと橘さん! アンティークと作家もののジュエリーを扱うお店をやっていらっしゃるの。郁子さんの髪のお花がとてもかわいらしいから、見せていただきたいっておっしゃるのよ。こちらのお姉さまたちのお相手をお願いできるかしら。文史朗さんはわたくしと一緒にきてちょうだい」
「待ってくれよ、言ったじゃないか――」
ツクモがしかめっ面で反論しかけると、桐江さんはツクモの二の腕をぺしっと叩いた。
「大丈夫よ、藤原さんと橘さんにお任せすれば。郁子さんのことが心配なんでしょうけど、そんなべったり番犬みたいに張り付かれちゃ、他の人がお話できないじゃないの! かわいらしいお嬢さんを独り占めにしないでちょうだいって今朝も言ったでしょう? わたくしのお友達、みなさん郁子さんとお話ししたくて待ってるのよ! あらリョウキくん」
そこで桐江さんは初めて、金山さんがそこにいるのに気がついたようだった。
「ちゃんとお食事召し上がってる? あちらについさっき、デザートのテーブルがでたわよ。今日はプロフィットロールを作ってもらったの。リカさんがピスタチオクリームのプロフィットロールがお好きなのを思い出して、ギリギリでメニューに入れていただいたのよ! リョウキくんは紳士だから、リカさんみたいなかわいいレディを預けておいて安心だわ」
紳士が聞いてあきれる。金山さんの横でさっきからずっとほったらかし状態で、おろおろと所在なさげにしていた女の子がリカさんだろう。家族ぐるみの付き合いがあるお宅のお嬢さんということか。
「リカさん、ママはお元気? 来てくださればよかったのに、残念だわ。リカさんがその分楽しんでいってちょうだいね。わたくし、リカさんと後でお話したいの。オークションに出してくださったリカさんの作品を見て、リカさんにその気があれば別の作品をギャラリーで展示販売したいっておっしゃっている方がいるのよ。パフォーマンスも実際に見てみたいっておっしゃってるの。ご紹介するわ。でも、今日のお客様はデザートに目がない方がとっても多いから、プロフィットロールがなくならないうちに、先に食べていらっしゃいな」
桐江さんの言葉を救いの神とばかりに、彼女は桐江さんが指さした方向に金山さんの袖を引っ張った。目の前で繰り広げられたわけのわからないだろう険悪な応酬に、困り果てていたのかもしれない。
桐江さんの采配はまるでブルドーザーである。わたしがあっという間に桐江さんのご友人のご婦人方に取り囲まれ、質問責めにされている間に、桐江さんはどこかにツクモを連れて行ってしまった。ツクモは何やら抵抗を試みていたが、徒労に終わったようだった。














