66 悪意とノールックパス(前)
「ああ、築井。今日こそ来られたんだな」
ツクモの背後から、聞き覚えのある声がした。ツクモがさっと警戒した顔になって身体ごと振り返る。
見なくてもわかった。金山さんだ。
わたしは肩の力を抜いて、気づかれないようにゆっくり、呼吸を整えた。ここで動じてたまるか。
ツクモはわずかに体重を移動させて、わたしを自分の背後に入れるように姿勢を変えた。金山さんも誰か連れの人と一緒のようだった。長い髪をさらりと背中に流した、大人しそうな風貌の女の子だ。わたしより少し年下、高校生くらいだろうか。
「来てくれてありがとう。母も喜んでいる」
一ミリもうれしそうではない声でツクモが応じると、金山さんは笑った。
「先ほど、ご挨拶してきたよ。久しぶりに君がこういう場に顔を出したから、喜んでおいでだったね。いつも、君も耕太郎さんも来ないときにはひどく残念がっておられるから」
自分のほうがよっぽど来ている、という口ぶりだった。『コウタロウさん』は、きっとツクモの兄上だろう。
「そりゃどうも。いつも母にお付き合いいただいて、申し訳ないね。断ってくれてもいいんだよ。君も実験や論文で忙しいだろう。D一ともなれば責任あるテーマを任されているんだろう? ここだって、東京からならずいぶん時間を無駄にさせてしまっているんじゃないか」
「桐江さんの頼みは断れないよ。僕も母もずいぶんお世話になっているからね」
金山さんはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「いちいち付き合っていたらもたないよ。母は断られてもともとで、四方八方に声を掛けるんだ。もちろん、来て楽しんでくれているならいいけれど、金山家の行事だってたくさんあるんだろう」
ツクモは淡々と切り返す。
「うちはいいんだ。兄たちがみんなやってくれるからね」
「皆さん、お元気かい。君がこうしてしょっちゅう来てくれるものだから、つい会っている気がしてしまって、オレは金山さんのほうにはご無沙汰しているね。兄上たちにご挨拶する機会がないよ」
「おかげさまで」
金山さんのお兄さんの話題にツクモが応じると、金山さんはわずかに嫌そうな顔をした。自分でうかつに苦手な方面に口を滑らせてしまった、みたいな顔だ。
「カナヤマグループはこの頃、好調だそうじゃないか。事業が広がっていて、兄上たちだって大変なんだろうね。兄上たちは君が早く卒業して手伝いをしてほしいと思っているんじゃないか? オレは会社でも迷惑の掛け通しだけれど、君はオレなんかよりよほど器用なんだから、どの仕事だって君の手伝いがあれば助かるだろう」
ツクモはあくまで冷静だった。
彼は多少の嫌味や冗談はいうけれど、嘘やごまかしは言わない。心にもないことも言わない。
金山さんが、会社やお兄さんたちから望まれているだろう、とツクモは本気で思っているのだろう。性格が合う合わないは別にして、ツクモなりの評価を伝えているようだった。
ツクモが言いたいのは多分、金山さんだって大学院や自身の家業で忙しいんだろうから、こっちのことはほっといてくれ、ということで、それ以上でも以下でもない。本質的に、ケンカはしたくないと思っているのだ。
だが、金山さんは一瞬、刺すような目つきでツクモをにらんだ。憎々しいと言っていいような強い眼差しだった。
「僕のことはいいんだ。それより、そちらにいるお嬢さんは、僕が先日大変な失礼を働いたらしいのに謝罪もさせてもらえなかった、例の方だろう? 今日こそ紹介してくれるんだろうね」
こういった場である。いつまでも紹介しなければツクモが無礼ということになってしまうだろう。
ツクモはものすごく嫌そうに、ほんの少しだけ身体を傾けて、金山さんにわたしが見えるようにした。
「友人の宮森さんだ。宮森さん、こちらはオレの旧友の金山くん」
必要最低限以下の恐ろしく短い紹介だった。いやいや、渋々なのが丸わかりだ。
「宮森さん、先日は失礼しました。気がつかなかったとはいえ、とんだご無礼を」
彼は慇懃無礼な態度で頭を下げた。
ツクモに非難されて、女子だと気がついてからの方がよけい失礼なことを言っていたのは気のせいか。今だって、本心から謝ってはいないことを隠そうともしていない。
わたしは無表情を貫いたまま、口数少なく言った。
「結構です。謝罪していただくほどのことは何もありません」
「先ほど、彼の母上にご挨拶してきたんですよ。宮森さんはずいぶん気に入られたようですね」
「恐れ入ります」
彼は獲物を前にした蛇のような目つきで嫌味たらしく言った。
「どうやって取り入ったんだか。文史朗は今まで研究一筋で、大して女性に興味もなかったから、その手のことについては白紙のノートみたいなものです。ひとたび気を引ければ、後は大した苦もなかったでしょうがね。桐江さんはいつまでもごまかせませんよ。あの人には人を見る目がある」
「黙れ、金山」
ツクモが低い声で威嚇するように言ったが、彼は意にも介さず続けた。
「どうせすぐ、メッキもはがれるでしょう。甘やかされた無作法な田舎の小娘が、付け焼き刃で上品ぶって、財産ねらいで近づいたところでどうにもなるものではない。馬脚を晒す前に帰った方が身のためだと思いますがね」
わたしは頭にかっと血が上るのを感じた。全身が震え出しそうで、両手でそれぞれ反対のひじを掴んで自分を抱きかかえるみたいにして必死でこらえた。ひじにかけていたネット編みのショールの感触が皮膚に食い込む。
そんな風に見えているんだろうか。悪意まみれの金山さんだけじゃなく、もしかして他の人にも、地味で釣り合わない以上に、わたしの内心にあざとい目的があると思われているんだろうか。
どこか隙ができてしまっていた、心のふわふわした部分を、したたかに蹴られたような気がした。
わたしがツクモに対して興味を持っていたのは、彼が何を見てどう考えるのか、わたしが見逃していたようなところで、どんな新しいものを見つけるのかということだ。彼はわたしが知らなかった新しい知識を惜しみなく広げて見せてくれた。わたしの知らないたくさんのことをもとに、今まで知っていると思っていたものをわたしの気がつかないような側面から照らし直したり、当たり前だと思っていたことに疑問を投げかけたりした。
彼と一緒にいたら、見える世界が変わった。次にどんな新しいことが知れるだろう、と思うと、わくわくした。わたしが彼に対して持っていた期待はそれだけだ。彼がわたしのことを好きになってくれるか、とか、彼がお金持ちだとか、そんなことを気にしたことはない。彼にとっては、わたしは面白い年下のいとこくらいの存在だ、というのははっきりしているし、経済感覚のずれに関しては、正直ちょっと友達付き合いしにくいから、むしろ困っているくらい。
でも、これが親戚のお兄さんモードだとしても、わたしが斜面から落ちてめそめそしていた日以来ずっと、ツクモはあまりにも完璧に優しかった。映画を観るスキルはさっぱりだし、由奈ちゃんにちょっと揺さぶりをかけられたくらいでうろたえたりはしてたけど、でもそれがツクモなのだ。
わたしのことは、昨日までの電話でも、今日、迎えに来てくれた最初の瞬間からも、大事に扱ってくれていた。お母さん爆弾にやられた後も、わたしが地味な自分なりに努力して、由奈ちゃんも手助けしてくれた今日の見た目について、ちゃんと誉めてくれた。それも、すごく苦手そうだったけれど、嘘や適当な一言ではなく、自分の言葉で。それが相手が誰であれ女の子をエスコートするときのマナーだとしても、やっぱり、言葉にしてもらえば嬉しかった。
だから今日のわたしは、自分でも気づかないまま、いつかどこかでめぐり合うかもしれないわたしの王子様が、こんな風だったらいいな、と心の片隅で思っていたのだ。由奈ちゃんの暴走した恋バナモードにどこか揺さぶられていたせいかもしれない。耳の後ろで揺れてわたしには今見えない、オレンジ色の花のせいかもしれない。
こんな悪意まみれの一言で、それに気がつかされるなんて。
わずかな心の隙を的確につかれ、そこを捻じ曲げてこじ開けるように解釈されて、あさましい魂胆のある浮ついた女のように言われた。そんな隙ができてしまっていたこと自体に、わたしはひどく動揺した。
ツクモの役に立つなら、なんて大見得切っておきながら、ここまでノコノコと、結局何しに来たんだろう、わたし。隙をみせて、こんなことを人前で金山さんに言わせるなんて。ツクモに余計な恥をかかせるなんて。
わたしの動揺を見透かすように、金山さんは片頬をゆがめるように笑った。
「今時、シンデレラストーリーなんて起こりませんよ。一夜にして世界が変わって、幸せがつかめるなんて、絵空事の夢物語だ。そんな手も足も擦り傷だらけの山出しの小娘が、幸運の金のくじを引けるわけがないんです。分相応という言葉がある」
こんな風に、あからさまな悪意のもと、面と向かって嘲弄されるなんて、初めての経験だった。心臓の音がうるさいくらい耳元で鳴り響いた。














