63 エール
「コサージュ?」
「つけ直してあげる。ちょっとしゃがんで」
由奈ちゃんは自分のメイクポーチから、ヘアピンの入っているケースを取り出した。
わたしが軽くひざを曲げると、由奈ちゃんは私の左耳の後ろに髪をかき上げて、手際よくピンで留めていった。由奈ちゃんの方が、少し小柄なのだ。
「ショートだから、アレンジできないと思ってた」
ヘアワックスで軽く整えただけである。
「耳出すだけで、印象変わるよ。大人っぽくなる」
由奈ちゃんは、化粧台の上に一旦置いていたコサージュを手に取った。慎重な手つきで、パール風の丸いピンヘッドが付いた五センチくらいの太目の針を抜き取る。それを置いておいて、由奈ちゃんはコサージュをわたしの左耳の後ろに当てがって、花の角度を吟味した。納得のいく場所が見つかったようで、由奈ちゃんはもう数本取り出したヘアピンでコサージュの茎を挟み、さっき留めた髪に挿した。わたしが留めるといつもふわふわと頼りなく浮き上がってきてしまうヘアピンが、由奈ちゃんの手に掛かるととたんに有能になって、髪と花をがっちり捕まえてくれるのが何とも不思議だった。
「できたよ。姿勢良くして、自分で鏡しっかり見て。これでいい?」
「えー、これ、すごくいい! こんな風にできるんだ」
正面から見ると、耳がすっきり現れたその後ろにちょこんとオレンジの花がのぞく。ちょっと角度を変えて見ると、髪を留めたせいで少しうなじが見えて、普段の自分のレパートリーにはないくらい女の子っぽい。
「どこから見てもかわいい。これで男の子とは絶対言わせないでしょ」
「ありがとう、由奈ちゃん」
「築井さんに、ちゃんとお礼言いな。これも、二人で話せるときに。ワンピースにあわせて用意してくれたんだよ」
「何でわかるの?」
車内での会話を思い出した。偶然でオレンジは合わない、と由奈ちゃんは言っていた。
「そりゃ、花屋さんが絶対聞くもの。合わせる洋服はどんな色ですかって。何のヒントもなくコサージュは作れないよ。しかも、色を合わせてるだけじゃなくて、円と正方形の柄に対して、まん丸な形の花材を選んできてるでしょ。花屋さんがちゃんと狙って作ってくれたに決まってる」
「どうやって? 五分もなかったよ」
「郁子と合流してから、築井さん、どこかに電話をかけるか、スマホでメッセージを送るかしていなかった?」
「そういえば、うちまで来てくれて、車乗ったところで電話してた。ツクモだけ車の外で」
「それだね。多分、前もって花屋さんに相談してあったんじゃないかな。築井さんが電話で郁子の服装を伝えたら、そこからすぐにコサージュを組んで、取りに行くのに間に合わせる、みたいな約束をあらかじめしてたんじゃない?」
「あ、会場の花や料理のことで、それぞれのお店と何回も連絡とらなきゃいけないってぼやいてた。打ち合わせが大変だって」
「なるほどね。装花は会場任せじゃなくて、お花屋さんとやりとりしてたんだ。その時に、一緒に頼んだんじゃないかな。すごくセンスがいい花屋さん。築井さんと花屋さん、どちらが思いついたアイデアかはわからないけど、これをやってくれるのはお店のほうも粋だよ。アレンジメントのセンスも最高だし、次から、誰かにお花をあげることがあったら、私もあの店使おうっと」
由奈ちゃんはヘアピンのケースをしまって、自分のメイクを軽く直しながら言った。
「ファーストデートにサプライズでお花か。ジェイン・オースティンの時代みたい。きざにじゃなくて、説明なしに照れながら渡してたのもよかったな。私、車降りましょうか? って感じだった」
また由奈ちゃんは全力で恋バナモードにギアを入れている。わたしは肩をすくめた。
「そう言わないで、いてくれてよかったよ。だいたい、今日一緒に出掛けることになったのだって、デートなんかじゃなくてただの行き掛かりだし。別にそこまで特別な意味はないんじゃない? 由奈ちゃんにも、お花用意してたじゃない。それこそ、ツクモがこれまで育ってきた環境ではそういうのが当たり前で、そういうものだと思ってるのかも」
「私の花、見る?」
由奈ちゃんは、自分の紙袋を開けて、中からアレンジのはいったプラケースを取り出して見せてくれた。青紫と白のリンドウとグリーンの実ものに、差し色のように赤紫の小さな千日紅が取り合わされて、ころんと丸い小さなマグカップのような器に入れられた、そのまま飾れそうな手のひらサイズのかわいらしいアレンジメントだった。
「私のが青紫なのは、多分、オレンジの正反対の色だから。花屋さんの配慮かもしれないけど、全く違うものを、ということでしょう。私もその場にいる以上、無視する格好になるのは失礼だと思って用意してくれたけど、当然、主役で本命なのは郁子だよ。郁子のお花ありきで私の分が決まったんだと思うな。しかも、郁子のは身に着けられるようにしてあった。言葉ではそう言わなかったとしても、それって、結構、意味深だと思うなあ」
「意味深?」
「これが欧米の古い映画なら、ダンスパーティに異性の用意した花を身に着けて出席すれば、それは、先約済みだよ、という意味になるでしょ。アメリカの現代ものでも、高校の卒業パーティーに行くとき、彼氏がいる子は迎えに来てもらうときに彼からコサージュ貰うんだよ。ただ単にアレンジメントを渡すんじゃなくて、それが身に着けられるようにしてあるっていうのが、すごいロマンチック」
由奈ちゃんはまた、鰹節の袋に頭をつっこんだ猫みたいに満足そうな笑みを浮かべた。
そうか。由奈ちゃんの豊かな想像力は花を受け取った時点でここまで到達していたらしい。恋バナ好きもここまでくるとあっぱれである。
「ロマンチックっていうけど、でも、あいつ、失恋も壁ドンも理解してなかったよ。全部わたしが解説したもん。先約なんて発想、ありえないし、プロムなんて絶対意識してない。由奈ちゃんは考えすぎだって」
呆れ気味にわたしが返すと、由奈ちゃんはこらえきれないようにくすくす笑った。
「郁子もよく怒らないで、ずっとつきあってたよね、質問責めに。手をつかまれてもふりほどかないで。楽しみにしてた初見の映画なのに」
「だって――――」
だって、なぜだろう。自分でも言葉に詰まってしまった。
「あの人、立ち居振舞いも、話し方も、どこか浮世離れしてる。さっき私、車の中では、築井さんの普段いる世界は郁子にとっては異世界だから気を付けてって言ったじゃない。多分、それはそれで間違ってないと思う。でも、しばらく一緒に行動して思ったのは、築井さんは、異世界人でなければ、生まれてくるのが百年遅かったみたいな人だなあ、ってことかな」
「百年?」
「最初の話から、ちょっとずれてる。郁子と初めて会って、会話する。流れでバイトに誘う、その辺はともかくとして。その後だよね。郁子をほめまくってまずお父さんと仲良くなる。郁子のバイトの話を最終的にお父さんに持っていく。連絡先はお父さんに聞く。今日だって、郁子を迎えに行って、先にお父さんに挨拶に行ったって言ってなかった? それで、パーティの前に用意したプレゼントはお花。何時代のお誘いの仕方? って感じだよ」
「あー、それは何かわかる。うちのお父さんが怖いからそうしているってだけでもなくて、そういうものだろうと思ってやってる感じはした」
野山で昆虫を追いかけているときや、ふざけてわたしをからかったり、飯田さんと学問のことを話しているときは伸び伸びしている。でも、それ以外の人の世に混ざって猫を被っているときの、その猫が妙に古臭いのだ。キザじゃないんだけどどこか時代がかっている。
根本的に、人づきあいが苦手なのだろう。猫かぶりモードのツクモをよくよく見ていると、パターン化された対処プログラムを実行してなんとかかいくぐっているAIみたいだと思うことがあった。情報処理能力が高いから、たくさんのパターンを処理して、相手にはさほど不自然に思われないように対応できるほど洗練はされているけれど、どこかぎこちなさがある。
しかも、そのパターン処理の仕方が独特なのだ。わたしが映画や小説で見るような十九世紀後半のジェントルマンか、どうかすると武士のようだ、と言えばいいのだろうか。礼儀正しくて文句のつけようがないけれど、同世代に自然に打ち解けるのは絶対に無理、という古めかしさがある。由奈ちゃんへの挨拶の仕方だって、少し年下の子に対する気安い感じは一切なくて、きちんとした堅いものだった。この辺は、彼自身が育ってきた環境と関係あるのかもしれない。
とりあえず、きちんとして見えるけれど、現代日本の世間にイマイチなじまない、どこか不自由そうな感じ、というところは由奈ちゃんの中でも揺るがないらしかった。わたしも同感だ。
映画がまったくわからない、と言われて、手をつかまれた。これが他の人だったらわたしも、からかってるとか、下心があると思って怒ったかもしれない。けれど、ツクモは本当にわからなかったようだし、手をつかんでいたのは自分が不安だったからだろう。それが理屈ではなく腑に落ちて納得できたのは、考えてみれば、このツクモの不思議な行動パターンを目にしていたからなのだ。日常生活でも、もしかしたら、本当はわからないことがたくさんあるのかもしれない。でもその都度、理由や相手の感情の動きまで尋ねていたら生活できないから、相手を怒らせないように反応を必死で観察して、それこそAIみたいに、パターン処理を身につけていったのかもしれない。
だとするとよけい、頭から捕虫網はかけるし、平気ですぐ脱ぐし、いきなりハグするしと、初対面の日からわたしの扱いだけはやけに雑で自由奔放なのが逆に腹が立つけれど。
もやもやと考え込んでいるわたしに、由奈ちゃんは少し真面目な顔になって言った。
「……きっとね、もし郁子がらみで警戒しなきゃいけない事情があるなら、一番簡単なのは、郁子に今日は来るなって言うことなんだよ。でも、そうは言わなかった。言いたくなかったんじゃないかな。後は自分で考えたら」
「そんなあ」
そうだ、由奈ちゃんはこれで帰ってしまうんだ。一気に心細くなった。
「ほら、築井さん待ってるよ、早く行こう」
由奈ちゃんはわたしの腕をとって、化粧室を出た。
今度こそ、腕を組んでくれていて助かった。由奈ちゃんがこの短い時間にわたしに放り込んだ爆弾は威力も数も半端ない。考えることが山ほどあって、わたしの思考リソースはオーバーフロー寸前だった。とても足元まで神経を行き届かせ続ける余力はない。
ロビーに向かって歩きながら、由奈ちゃんはこそっと耳打ちしてくれた。
「例の変な同級生の鼻を明かしてやりたいなら、そのお花のことを聞かれたら、誰に対しても、築井さん本人が隣にいても、にこにこして『築井さんがサプライズで用意してくれたんです』って言うんだよ。味方につける層を間違えなければ、そのケンカ、築井さんと郁子が勝つ。ここまで来たんだから絶対勝ってきな」
まさかのエールだ。由奈ちゃんが、恋バナをさておいてこんな風に言うなんて意外だった。彼女も実は飯田さん並みにケンカの勝ち負けにこだわるタイプだったらしい。友達になって一年とちょっとになるけれど、初めて知った。














