62 ガールズタイム
ツクモがさりげなく手を引いてくれて、ロビーにでたところで、今度は由奈ちゃんに反対の手を引っ張られた。
「郁子、お化粧室一緒に来てよ。築井さん、ガールズタイムってことで、郁子ちょっとお借りしますね」
由奈ちゃんが必殺スマイルを浮かべてツクモに視線を送った。圧力、の二文字がわたしの脳裏に浮かぶ。
「ちゃんと確実にここまで連れて戻りますから」
その一言に、ツクモはほんの少しだけ眉をひそめた。由奈ちゃんの強い視線とツクモの視線がぶつかり合う。傍で見ていたわたしも一瞬緊張した。だが、ツクモはすぐに、にこやかに頷いた。
「お願いします。靴が少し、心配だったので」
あ。また靴のこと言ってる。
「もうちゃんと歩けるってば」
わたしの発言は二人に黙殺された。
ツクモはわたしの手を離すと、小さく振った。
「いってらっしゃい」
由奈ちゃんは、わたしの腕に自分の腕を絡めると、化粧室の方に向かって歩き出した。珍しい。由奈ちゃんは普段、そんなにべたべたボディタッチをする方ではないし、トイレだってさっと一人で行くタイプだ。
「今日、どうしたの?」
わたしがそれを指摘して尋ねると、由奈ちゃんはにこっとした。
「築井さんに郁子をとられちゃうかなーと思ったら、ちょっとアピールしたくなって」
「なっ、何言ってんの由奈ちゃんっ! いや、だからそういうんじゃないって」
顔が熱い。
「だって、見てみ。まだ、郁子のことちゃんと目で追ってるよ」
言われてつい振り返ってしまい、ツクモと目があった。悪びれもせずにまた小さく手を振ってよこす。頬の熱が引くどころか、温度が上がった気がする。
「ほら、次いつトイレ行けるかわかんないからちゃんと行っとこう」
由奈ちゃんはわたしを急かして、ロビーを出た先の化粧室まで引っ張っていった。
映画が終わってからしばらくたっていたせいか、化粧室には誰もいなかった。由奈ちゃんのアドバイス通り、とりあえずトイレをすませて手を洗っていると、由奈ちゃんも個室から出てきてわたしに並んだ。
「由奈ちゃん、なんか気づいてるんでしょう?」
一見、テンション高めの女子大生らしい言動だけれど、普段をよく知っているわたしにはすぐわかるレベルで様子がいつもと違う。テンション高めの女子大生のふりをしている、みたいな違和感だ。
「うーん」
由奈ちゃんはハンカチで手を拭きながら、天井をにらんで首を傾げた。
「いい方と悪い方、どっちから聞きたい?」
「じゃあ、悪い方から」
「郁子、車をよけて自転車で転んだのって、ただの不注意なの?」
「……どうして」
虚を突かれた。転落事故のことは、日常の世間話をメッセージでやり取りしているついでに、笑い話程度に軽く触れただけだったのだ。
「誰かの悪意が噛んでるんじゃないの?」
「そんなことない、と思うけど」
「郁子は、ね。築井さんは?」
「わかんない……」
語尾があいまいになった。産業スパイの話は他言しないとツクモに約束している。由奈ちゃんを不安がらせたくもないし、この場で説明できることはほとんどない。
「私、ここには何回も来てるって言ったでしょ。でも、会場の外でパトカーは見たことなかった。なのに今日は、正面玄関が見えるあたりの業務用駐車スペースに覆面が一台いた。中の警備もいつもよりかなり多いし」
「ちょっと待って。由奈ちゃんなんで覆面パトカーわかるの?」
普通の女子大生に一目で見抜かれるんじゃ、覆面の意味がないんじゃないかと思う。
わたしがそんな疑問を呈すると、由奈ちゃんは呆れたように肩をすくめた。
「わかるよ。一時停止違反を起こしやすい交差点とかで、張り込みしてるじゃん。よく見ると、助手席のルーフのところに、サインランプを出せるように蓋みたいに切ってあるところがあるの。本当の隠密行動には使わないと思うけど、遠目にはパトカーだってわからない程度のやつ。まんまツートンカラーのパトカーで来ると物々しすぎて一般のお客さんを怖がらせちゃうけど、悪い人ほど警察のことは知ってるから、そういう人に対してちゃんと警察がここにいますよって示威行動してるんじゃない?」
その議論で言うと、由奈ちゃんは悪い人なんだろうか。それとも、わたしが世間知らずなだけか。
「モデルさんや俳優さんも招待客でいっぱい来てたよ。ツクモが、母上のイベントのせいで招待枠を増やしてもらって、警備も協力したって言ってたじゃない。舞台挨拶で、野尻監督とか凉音ちゃんや星川針哉も来てる。そのせいじゃないの?」
「そうかなあ。そうかもしれないけど。でも、それなりの大物芸能人が来るイベントだって、わたしは今まで会場警備にパトカーまでは見たことなかったよ。それに気になったのが、築井さん、郁子から絶対目を離さないようにしてるよね。最初は、うんまあ郁子かわいいし変な虫がつくと困るよね、とか私ものんきに思ってたけど」
わたしのことを笑い交じりでもなく、ある意味、という前置きもつけないで、手放しでかわいいと言い切るのは由奈ちゃんと父くらいである。宇宙論の授業ですべての光がゆがんでしまう特異点というのを習ったけれど、由奈ちゃんの審美眼の特異点がわたしなのである。父のはただの親ばか。変な虫とかはそういう特殊な認識を持っている人間しか心配しようのない問題で、どちらにも当てはまらないツクモがそんなこと警戒しているわけがない。
「気のせいじゃない? それか、うちのお父さんに、郁子さんはちゃんと無事に送って帰りますって大仰な挨拶してきたみたいだから、あいつも気にしてるのかも。転んで捻挫するとかの自損事故が心配って、来るときにもからかわれたし」
「そうにしたって、郁子へというより、周囲への注意の払い方が並大抵じゃない。築井さんは必ず出入口と郁子が両方見えるポジションをとってたし、他の人と挨拶してても、意識のどこかが絶対そちらをむいているみたいだったよ。多少なりとも気を抜いてたのは、たぶん、映画を見ているときだけ。それも、上映中に一、二回後ろのドアが開いたときは必ず確認してた」
「由奈ちゃんもツクモを相当きっちり観察してたわけだ」
わたしが冗談めかしてまぜっかえすと、由奈ちゃんはしかつめらしい顔でうなずいた。
「私の大事な郁子を預ける相手だよ。いくら慎重になってもなりすぎってことないじゃない」
……時々、由奈ちゃんと父がそっくりだと思うことがある。
しかし、電話でもここまでの車の中でも、ツクモは何か特別、危険やトラブルを懸念しているような話はしていなかった。
とすれば、答えは失礼なご学友ということになるだろう。
「ちょっと話したよね? ツクモの学生時代の同級生がすごく面倒くさい絡み方してきて、わたしが巻き込まれてパーティーに出ることになったって。その人が変な嫌がらせしてくるのを気にしてるのはあると思う。ここには来てないみたいだけど」
けれど、由奈ちゃんはわたしの予想を言下に否定した。
「いくら築井さんがツクボウの人だって、同級生の言い争いレベルのトラブルで警察は動かないよ。郁子から話を聞いていても、今日直接少し話した印象でも、めちゃくちゃ浮き世離れはしてるけど、特別扱いを要求したり、当たり前に思ったりはしそうにない人じゃない。警察に無理を言うような人じゃないでしょう?」
「うん、それはまあ、確かに」
四角四面なくらいルールは守るほうだ。自分だけの例外みたいなものを主張するところは想像できない。
「でも、現実に警察は動いている。つまり、なにか心配する根拠になるようなことはあるのよね。だから、築井さんに言ったのよ。ちゃんと郁子は築井さんのところまで連れて帰るって。築井さんが郁子のことちゃんと目で追ってるのは、変な虫以上に、何か身の安全について心配なこともあるからなのかなって思ってたから。あの時、築井さんがちょっと真面目にうなずいた様子は、私の予想が当たってるって気がしたけどね。さっきはちょっと郁子をからかっちゃったけど、わざわざ腕を組んだのも、その念のため」
たしかに、奇妙と言えば奇妙なやり取りだった。由奈ちゃんの言葉にはそんな言外の意味があったのか。とすれば、ツクモが取って付けたように靴のことを言ったのは、周りに対するカモフラージュだったのだろうか。
「もしかしたら、郁子の言う通り、誰か有名人とかの警護に来ただけなのかもしれないし、もしかしたら、私の直感のほうが当たっているかもしれない。いずれにせよ、トラブルを避けるためには、築井さんの言うことはちゃんと聞いたほうがいいし、できるだけ離れないでそばにいるほうがいいと思う。二人だけになる機会があったら、本当にその同級生の件だけなのか、他に心配することがないか、ちゃんと聞いてみたら?」
わたしが話せないことがあるのを、由奈ちゃんは察しているようだった。
「わかった。聞いてみるし、念のため、気を付けるね。いいほうは?」
「これ」
由奈ちゃんは、わたしのジャケットの襟元に手を伸ばして、元気なオレンジ色の小さな花束を外した。
「コサージュ?」
「つけ直してあげる。ちょっとしゃがんで」














