61 衝撃の二時間
エンドロールが流れ始めると、気の早い観客が三々五々、席を立ち始めた。場内の足元を照らす間接照明だけがつき、今まではスクリーンからの光以外は暗闇に沈んでいたホールが、わずかに明るくなる。
エンディングテーマは、切ない歌詞とキャッチーなメロディが話題になって昨年ブレイクしたバンドの新作ミディアムバラードだった。気持ちよく盛り上がって、気持ちよく泣ける、映画にぴったりの曲。サビのフレーズが歌詞もメロディも印象的で、これはきっとヒットするだろう。星川針哉も、この映画は確実に出世作になるに違いない。王道の王子様的な役を、背負いこまずに自然体に演じていて、しかも演出もよかったから、文句のつけようがなくかっこよかった。
そんな、どこか客観的な感想は浮かぶものの、わたしはどっと疲れて、立ち上がるどころか、シートにぐったりと沈みこんでしまった。
立てない。
衝撃の二時間だった。
作品がではない。
わたしの左隣で、にこにこ嬉しそうにメモを取っている、こいつだ。
こんなに映画が見られないやつだとは思わなかった。
舞台挨拶が終わり、ステージの照明が落ちて、冒頭のシーンからオープニングテーマに移ったあたりから、もうすでにツクモは軽いパニックに陥っているようだった。そもそも、暗闇と急な大きい音の組み合わせが苦手らしい。よくそれで、映画の試写会に来る気になったものだと思う。
それでも、序盤はまだ、一言二言、補足するだけでよかったのだ。
中盤以降が怒涛の展開だった。
人気のない裏庭で見つめあうカップルを物陰から目撃して、ちょっとうつむいて眉をひそめる登場人物がいたら、失恋したんだな、とわたしは思う。こいつは思わない。当惑した調子で、ささやき声で尋ねてくる。
『ねえ、今の何? あれで音楽盛り上がっておわり? 裏庭の人たちどうなったの? この人、なんで声とか掛けないでコーラ飲んでるの?』
『裏庭の人たちはきっと、この後また出てくる。たぶん、恋人同士になって。この人は、あの女の人のことが好きだったんだけど、うまくいかないと分かったから、悲しくなって気晴らしにコーラ飲んでる』
『あ、そういう意味だったのか。めちゃくちゃ省略してるよね』
全然してないと思う。
壁ドン、顎クイのべたな告白シーン。『あんなヤツやめて、オレと付き合えよ』。これはフラれ役の俳優、乗島武が甘木凉音に迫って言うセリフだった。凉音ちゃんは乗島君をにらみつけて、胸を押し返し、『あんなヤツなんて言わないで。昔はあんたそんなこと言う人じゃなかった。優しかったのに』と言い放つ。すれ違いが切ないシーンだ。こいつは受け取り方がもうすでにすれ違っていて、切ないどころかちんぷんかんぷん。
『なんで、ここでいきなりケンカ売ってるの。しかも、あの女の子、さっきの彼とはケンカなんかしてなかったのに、なんであんな奴やめてオレとケンカしろってなるの?』
『ちょっと待ってツクモ。ケンカ? 何の話?』
『付き合えって、ケンカじゃないの? 顔の横の壁を殴るのは、傷害罪をとられずに敵をビビらせて引き下がらせる手段だって、飯田さんに前聞いたけど』
『……違う。まず、今の男の子はケンカ売ってない。飯田さんの話は忘れて。愛の告白をして、しかるがのちに、手ひどくフラれた。OK?』
『えー? 壁殴られて、顔面固定されたら、殴られると思って怖くない? だからフラれたの? 目的に対して手段が乖離してない?』
『してない。それは、ごめん。覚えて。一つの言葉に、二つ意味があったりするじゃん。壁を殴るのも、ケンカ売るときと、愛の告白のときがあるの。文脈で判断するの』
『あーオレの苦手なやつだ』
口をとがらせながらも、暗い中で、走り書きでメモを取っていたようだった。その辺からメモを取り始めたせいで、やっと左手を解放してもらえたのは、わたしにとってはありがたかった。
それまでは、照明が落ちてからというもの、音楽が大きくなったり、大きな効果音が入ったり、誰かが叫んだりするたびに、びくっとしたツクモがわたしの左手の手首辺りをつかんだ手に力をこめるものだから、わたしまで肩に力が入ってしまっていたのだ。
今はなにかまた反すうするように口の中で独り言を言いながら、手帳に何かを書いたり、書いたところに線を引いたりしている。多分、暗かったり情報量が多かったりしてメモを取り切れていなかった分を、整理しながら理解しようとしているのだろう。
ちょっと心配になってきた。
「ねえ、ツクモ、感想聞かれたらなんて答えるの?」
「感動しました、ハッピーエンドでよかったです。で大体いけそう」
わたしの二時間の苦労は、実に無難なほぼ二十文字に集約されたことになる。
「いいと思うよ」
花丸だ。『顔の横を殴るのが愛の告白だって初めて知りました、すごいですね!』なんて言われた日には、隣にいてわたしがどういう顔をすればいいのかわからない。
「ありがとう。多分ハッピーエンドなんだろうなって思ったら、こう言うことにしてるんだけど、今日ほど実感を持って言えるのは初めてかも。その後さらに突っ込まれても何とか対応できそうだし。ふみちゃんのおかげ」
「そりゃどうも」
ほっとしたようなにこにこの笑顔で言うツクモに、わたしは少々ひきつった笑顔を浮かべつつ、あいまいにうなずいた。『多分ハッピーエンドなんだろうな』って、何だ。それすら、確信をもって判断できない時が多いってことか。
「すごいなあ、文学部生ってこんなに映画わかるんだね」
「……この客席にいる人間で文学部に在籍したことがある人なんて、二割もいないと思うよ。文学部関係ない。アニメやテレビドラマ見て育ったら大体わかる。これまでに小説読んだり、マンガ読んだりしてても、まあだいたい想像つく」
「うーん、そういうのあまり見ないからな」
「あまり?!」
「……ほとんど、ぜんぜん」
でしょうね。ですよね。でなきゃ、こんな大惨事、起こりようがない。
そこまで思ったところで、ふと引っ掛かりを覚えた。
「ん? でもそういえば、車の中で南米の作家の話してたよね。あれ、誰のなんていう作品? 若い娘がシーツにくるまって天に召される話」
これだけ映画の文法にうといツクモが読んだらしい小説。逆に気になってきた。
ツクモは何か言いかけて、慌てたようにぎゅっと口を結んだ。
「言わない」
「なんじゃそれ。読んだんでしょ?」
「何回か通読してる。でも言いたくない。気になるなら自分で探して」
「待ってよ。ひどくない? わたし、あんなに親切に解説したじゃん。ツクモはそっけなく断るわけ?」
「文学部なんだからわかるだろ」
「日本文学科に無茶言わないで。うちの大学、あとは英文と仏文と史学しかないんだよ。南米ならスペイン語かポルトガル語でしょ。聞ける相手もいないよ。じゃあ、なんで言わないかだけでも教えて」
「今、思い出したから」
「何を?」
「きわどいシーンが多かった。そういうの目当てで読んでたわけじゃないから」
絶句してしまった。
中学生じゃあるまいし、そういうことをちょっと赤くなりながらそっぽを向いて言うの、やめてもらえないかな。いい大人同士が話題にするのに、一般書籍で発売される本に掲載される程度のきわどいエピソードくらい、大した問題じゃない。ましてやわたしが尋ねたのは、そのエピソードの中身ではなくて、本のタイトルと作者名だけなのだ。
大学の授業でだって、きわどさで言えばそこそこの題材を扱っている。そんな時でも、教室には男子も女子もいるし、先生にも男性はいっぱいいる。それこそ、文学部生をなめるな、と言いたい。
でもそういうことじゃないんだろう。この反応は、わたしが恥ずかしがるかもと思っているわけじゃなくて、ツクモの方が恥ずかしいんだろうな。
飯田さんの言っていたことが改めて身に染みてわかってきた。
こいつのコミュニケーションスキルは中学生並み。
そういうことね。
わたしは肩をすくめて引き下がった。
「じゃあ、聞かない。自分で調べる」
意地でも見つけ出してやる。今の口ぶりからしても、きちんと探せば見つかるくらい、メジャーな作品なのだろう。
由奈ちゃんがわたしをつついた。
「そろそろ出ないと、最後になっちゃうよ」
いつの間にかエンドロールは終わり、ホール全体が元の柔らかい光で照らされていた。
映画館のお見送りモード、とわたしがこっそり名付けている時間だ。いい映画を見たときに、一番幸せを実感できる大好きな時間。こんなに疲労困憊で迎えたのは初めてだ。
ツクモが先に立ち上がって、すっと手をさしのべてくれた。
「階段多いから、気をつけて」
こういうところはこんなに自然に気がつけるのになあ。














