60 試写会のホールにて
わたしたちの待機場所として用意されたカンファレンスルームでは、試写会の始まりを待つ人たちがあちらこちらでグループになって談笑していた。何人かは、どこかで見たことがあるような、と思っていたら、由奈ちゃんがこそっと耳打ちしてくれた。
某ファッション誌の専属モデルの女性数人が含まれたグループ。子役時代から映画やドラマに出演しつつ、最近本格的に俳優業の評価を上げ始めた若手の俳優の男女何人か。
ひときわにぎやかな声を上げているグループの中心にいるのは、由奈ちゃん曰く、某テレビ局のドラマプロデューサーらしかった。よくそんな人の顔まで知ってるなあ、と感心したら、この前最終回だったサスペンスドラマについてのインタビュー記事をネットで見かけたばかりだったのだという。
ツクモの母上が試写会の後にもイベントを用意したおかげで、東京からもたくさんのゲストが来ているらしい。距離的には気軽に日帰りできる程度にしか離れていないとはいえ、こんな地方都市ではなかなかお目にかかれないであろう華やかな集団だった。
そういった華やかなグループとは少し距離を置いて、そこここで挨拶を交わしているもっと年齢層が上の集団は、話している言葉や身ぶり手ぶりの大きさから、地元企業の経営者や銀行の関係者だろうと想像がつく。報道関係の人たちは、腕章をつけてプロ用の大きなカメラを持っていた。
あまり周りの迷惑にならないように、わたしと由奈ちゃんが肩をくっつけるようにして小声でおしゃべりしている間、ツクモは少しだけ離れて、でもわたしたちから目を離さない距離で、声をかけてきた知り合いらしき人たちと挨拶を交わしたりしていた。
駐車場からここまで来る間は、由奈ちゃんが、おしゃべりしながらぺたっとひっついて、当たり前みたいな顔でわたしと腕を組んでくれたおかげで、ツクモの手を借りずに、ハイヒールでちゃんと歩き通すというミッションをこなすことができた。ちらっとツクモを見たら、なんとなく浮かない顔をしていたのが少し気にかかった。
三人連れなのに二人と一人に分かれてしまったせいだろうか。それとも、由奈ちゃんが何かを面白がってなのか、反応を引き出そうとしてなのかわからないけれど、車の中でツクモに軽く揺さぶりをかけたせいだろうか。
でも、両方の知り合いであるわたしが声をかけようにも、ツクモは微妙に離れたところを歩いていて話しかけづらくて、そのまま来てしまった。カンファレンスルームまで来てしまえば、ツクモのほうが知り合いが多いせいで、自然に緊張感もうすらいだのだが。
ここに足を踏み入れたときには、先に金山さんが来ているのではないかと心配したのだが、あたりを見回してもそれらしき人物は見当たらなかった。それとなく入り口を気にかけていたが、その後も見覚えのある姿は現れていない。
『開始まで十分となりました。皆様ホールの指定の席までご移動をお願いいたします』
主催者側のアナウンスにしたがって、人々が部屋の出口に向かい始めた。気づくと、ツクモがすっと隣まで来ていた。小声で尋ねてみる。
「金山さん、ここには来るの」
「チケットは渡されてるらしい。ただ、あいつの動きはいつも気まぐれだから、本当に来るつもりかどうかはわからない。見てないのは確か」
ツクモも見てないのか。
わたしたち三人は、集団の最後尾について上映会場となっているメインホールに向かった。ホールに入って、ツクモが指差したのは、一階の後方、横に走る通路のすぐ前の席だった。ゆとりをもって定員を設定したのだろう、二階席のせりだしの下に当たる、通路の後ろ側の席は使われる予定がないようだ。つまり、今日使われる一階席の最後尾にあたる。
わたしは女子にしてはちょっと背が高い方だ。百六十五センチ。前の席の人の頭で見えない経験よりは、後ろの人に迷惑をかけていないか気にする経験のほうが多い。ついでに、後ろの人の足が椅子に当たったりすると集中できないせいで、ブロックの一番後ろの席は好きだ。
ツクモに指定された席は、並びの一番奥が由奈ちゃん、真ん中にわたし、わたしの隣で縦に走る通路にすぐ出られる位置にツクモだった。目の前の席は、まだ座るべきお客さんが来ていないのか、それとも空席なのか、まだ誰も座っていない。
何も起こらないうちから心配ばかりしているのもばかばかしい。映画の上映中に騒ぎを起こしてひんしゅくを買うようなことは、さすがに金山さんでもしないだろう。後ろに誰も座らない位置だったのも好都合だ。背後から密やかな嫌がらせをされる心配は基本的にないはずだ。
後のことは後で考えよう。
せっかくの映画はちゃんと楽しもう。
そう思って、わたしは心おきなく背筋を伸ばし、シートに深く掛けて背もたれに体重を預けた。
だが、わたしの隣では、ツクモが何となく居心地悪そうに座り直している。それが何度か繰り返されると、気になった。
照明はもう落ちかかっていたが、ささやき声で尋ねた。
「どうしたの」
「忘れてたんだ」
「何を」
「今日、映画を見ること」
「はい?」
意味が分からない。
「準備とかの方でバタバタしてたから。頭では映画を見るってわかってたんだけど、今までイマイチ実感してなかったというかちゃんと心の準備をしてなかったというか。今日ここにきて、やっと、そういえば映画を見なきゃいけないんだって気がついて」
「どういうこと?」
試写会なんだから、映画は見るに決まってるじゃないか。
「すごい苦手なんだよ」
「暗いのだめとか? 気分悪い? 出た方がいい?」
閉所恐怖症とか、そういうやつだろうか。
わたしが怪訝に思って聞き返すと、ツクモは口を横一文字に結んで、ふるふると首を横に振った。
「大丈夫。見る。見なきゃいけない」
口ではそう言うけれど、顔をのぞきこむと、通り雨に降られてびしょぬれになった秋田犬みたいに、目が下側を直線にした三角になっている。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないけど大丈夫」
だいぶ心配になってきた。
「何かわたしに手伝えることある?」
「な……」
たぶん、ない、と言いかけて、ツクモは何かを思いついたようにぱっと顔を輝かせた。
「ある。お願いできればすごく助かる」
「何?」
「映画って、途中でわからなくなるんだ。誰がどこで何をしてて、それがなぜなのか。で、わかんないまま進むから不安になる。でもどんどん話が進んで、急に始まった会話で急に怒ったり泣いたりする人がいるだろ、そういうのがすごい苦手なんだ。音も無駄に大きいし。普段は見なきゃいいんだけど、今回は見てませんでしたではすまない。絶対、後で聞かれるし」
溺れるものは藁をもつかむ。ツクモは、肘掛けにおいていたわたしの左手の手首辺りを、右手でぎゅっとつかんだ。ちょっと痛いくらい。
「えーと、ツクモ?」
「助けて、ふみちゃん。わかんないとこ教えて」
これが、あとツクモの手のひら一個分ひじのほうに寄っていたら、確実にあざのところだ。ぎゃっと悲鳴をあげてしまったかも。
「わかった。わかったから。教えるよ、安心して。力抜いてリラックスして座って」
わたしは、ツクモの右手を、自由な右手でぽんぽん叩いた。
できれば、わたしの左手を解放していただきたい。でも、そこまで要求するのはどうやら無理そうだった。
「もう始まるよ。まずは見なくちゃ。最初は舞台挨拶」
今日上映されるのは、別に何の難しいところもなさそうな、高校生の闘病と恋愛を描いた王道の青春映画というふれこみの作品である。途中で話がわからなくなる、なんて心配はしようがない。これが前衛的で抽象的なアートフィルムならいざ知らず。
キャスティングからいっても、ヒロインの甘木凉音はアイドル的人気を誇り、CMを幾本も抱えていて、広告の写真や映像でさわやかな笑顔を振りまいているのを見ない日はないくらいだし、相手役はモデル出身で抜群のスタイルと甘いマスクを武器に、今まさに売り出し中の俳優、星川針哉なのだ。主な観客のターゲットはおそらく、中高生から二十代、それから主演の二人の熱烈なファンたち。すんなり感情移入できる、直球ど真ん中の映画を求めているはずだ。そんな複雑で難解な作品を撮ったら、よほどの出来でない限り、大ブーイングが起こるだろう。
だが、わたしの隣のツクモは、明らかにそわそわと不安そうな様子を隠せないでいる。本気で、わからなくなると思っているらしい。
まさか、こんなところに、ツクモよりもわたしが得意な分野が転がっているとは思わなかった。
世の中、わからないものである。
わたしが一番楽しみにしていた部分が、上映直前の、監督の野尻匠吾と主演の二人の舞台挨拶だった。こればかりは、もう一度映画館に足を運んでも見られないのだ。どうかここだけは、集中して見させてもらえるといいのだけれど。
わたしの隣で聞き耳を立てていたらしい由奈ちゃんが、声もなく肩をふるわせて爆笑しているのがわかったけれど、どうやらツクモにはそれに気づく余裕もなさそうだった。














