06 ナナフシ娘
「何これ。宇治拾遺物語じゃん」
彼はわたしの手から課題のプリントを奪い取って一瞥すると、妙にはしゃいだ声を上げた。一瞬でわかるのか。
こんな昆虫オタクに文学部の課題なんかわかるまい、と思っていたわたしの当ては完全に外れた。ちょっと見て、『わかんない』と言われたら『じゃあ黙っててくださいね』と切り返して、半裸の男は無視して課題に集中するつもりだったのに、計画は大幅に狂ってしまった。
「どこまでできてるの」
隣に来て、わたしが目の前のテーブルに広げていた下書きのルーズリーフをのぞき込んで、奪い取ったプリントと見比べていく。瀕死のミミズがのたうちまわったみたいな崩し字で書かれた古文のプリントを、現代人が読める字体に書き直していく課題は、まだ半分も終わっていなかった。
著名な古典文学なので、活字で出版されているものを丸写ししてしまえば簡単なようだが、そこは学生にさぼらせないよう、先生も考えている。いくつかのバージョンが現存しているというこの文学のテクストのうち、今回の課題に選ばれていたのは、いままで活字で出版されたときの底本に採用されたことがないものだった。つまり、話の内容はほぼ同じでも、どこかで一文字二文字違いがあってもおかしくない。それを、出版されているバージョンの文章を丸写しにすれば、間違えるところは決まっている、ということで、カンニングはできませんよ、と先生に釘を刺されていたのである。
「うんうん、だいたい合ってる。ふみちゃん優秀」
だから、距離が近いって。
家族で共有している、慣れたシャンプーの香りの向こうに、わずかにかぎなれない甘い匂いがして、どきっとした。
「続き、やってごらん。違ってたら教えてあげる」
文学部生を相手に、えらく上から目線である。正気か、この男。
返してもらったプリントをルーズリーフの隣に置いて、シャープペンシルを手に取った。
今回、出題されていたのは、百鬼夜行が出てくる段だった。男が旅の夜に様々な怪しいものを目撃する怪異譚である。妖怪ものは学生に人気があるせいか、先生は今年の演習のテーマを文学の中の妖怪に絞って、興味深いいろんな話を織り込みながら授業を進めていた。そのおかげで少し詳しくなったけれど、百鬼夜行自体は、この説話に限ったモチーフではない。他の説話文学では、現代でもお馴染みの唐傘お化けや塗り壁、しゃもじのお化けのように、長く使い込まれた器物が妖怪になる、付喪神という概念と合流して、なかなか賑やかな妖怪パレードになっていくのだ。
ツクモガミ、か。ツクイ・モンシロウは、苗字と名前の先頭を拾ったら、ツクモ、だな、と、しょうもないことを連想した。
わたしの思考が明後日の方向に流れているのを知る由もなく、横に座ってわたしの手元をのぞき込んだ築井さんから容赦のない指摘が飛んでくる。
「そこ、〈し〉じゃなくて〈ひ〉。字形はちょっと微妙だけど、意味がそっちのほうがきれいに流れるだろ」
二、三文字先まで崩し字辞典で調べて、やっと、なるほど、と納得する。
「築井さんって何者なんですか?」
わたしはさっきから脳内をぐるぐるしていた疑問を、そのまま口に乗せてしまった。言ってから、しまった、と思う。ひどく子どもっぽくて不躾な質問になってしまった。
だが彼は気にとめた様子もなく、ひょいと肩をすくめた。
「別に、普通の会社員。後で教えてあげるから、それ終わらせな」
集中できない、と思っていたけれど、案外宿題ははかどって、エアコンの風が直撃する鴨居に引っ掛けたハンガーから築井さんがTシャツを外して着る頃には、下書きは一通り完成した。
公園や山道での興奮して落ち着かない様子と比べれば、築井さんがわりと大人しかったからかもしれない。悔しいけれど、横から時々口を挟んで教えてくれる、上から目線のアドバイスが、結局のところ非常に的確だったことも大きい。
「オッケー、いいと思うよ」
築井さんは、最後にルーズリーフに目を通して、大きくうなずいてくれた。
どんな些細なことであれ、そしてどんな相手であれ、ほめられると人間はうれしい気持ちになるものである。
そんなささやかなわたしのいい気分は、築井さんの次の一言でふっとんだ。
「いやあ、しかし大変だね。最近の高校は、崩し字の翻刻まで習うの? ふみちゃん、読み取り早かったよ。高二にしてはすごい才能あるって」
「誰が高二じゃいっっ!」
きょとんとした、完全に虚を突かれた顔が憎たらしい。
「だって、ほらここ、二年生課題って」
「大学! 〈中世日本文学基礎演習〉は、どう見ても大学の講義名でしょっ」
「えーっ!」
今度は築井さんが大声を上げる番だった。
「ふみちゃん、大学生なの? 二年生ってことは、十九!?」
「二十歳です二十歳! 先月誕生日だったから、もう成人!」
「ハタチ!? ……そのナナフシみたいな見た目で」
最後の一言は独り言だったみたいで、低く小さいつぶやきだったけれど、耳だけはいいのがわたしの自慢である。
「……ナナフシ?」
大方、何か昆虫だろう。
わたしの黒い半笑いに気づかず、昆虫のことを尋ねられてテンションが上がったらしい築井さんは嬉しそうに説明した。
「ふみちゃん知らないの? こう、足が細くって、胴体も全部細くてひょろっとしてて、木の枝に擬態してる昆虫で……」
「誰が、出るとこ出てない棒っ切れ女子かっ!」
「そこまでは言ってない、そこまでは!」
「言ってないって、やっぱり思ってはいたんじゃん!」
「何で怒るんだよう。ナナフシかわいいのに」
彼がだだっ子のように口を尖らせて、そっぽを向いて言った小声も聞き逃さなかった。繰り返すようだが、耳がいいのだけは自慢である。
「やかましいわっ! さいっていっ! もうあんたなんか敬語に値しない。築井さんなんて呼んでやんない。あんたなんか、ツクモで十分! 私がナナフシなら、あんたは塗り壁みたいに無駄にでっかい体型してるじゃん! 引きずるの、重かったんだからね、この付喪神っ」
彼はぽかんと呆気にとられた顔をした。鳩が豆鉄砲を食らった顔という表現はよく目にするけれど、こんなに直球でその表現が似合う表情を浮かべた人間を見たのは初めてである。
「百鬼夜行に絡めて悪態つかれたのは初めてだなあ」
感慨を覚えるポイントはそこかい。
わたしの内心のツッコミをよそに、彼は何かに気がついたように、ゆっくり顔をほころばせた。してやったりとかほくそえむとかいう感じより、本当に自分の思っていたことが実現したときの、子どものように手放しで嬉しそうな笑顔に、訳が分からないながらもわたしはつい見とれてしまった。
「じゃあ、オレはツクモで、敬語はなしね。よろしく、ふみちゃん」
今度はわたしが呆気にとられる番だった。
あれ? これって、こいつの……思うつぼ?
「――――――っっ!!」
わたしは声にならない叫びをあげたが、今さら取り消せない。悔しさに頬を紅潮させながら黙り込んだわたしを見て、ツクモは今日二回目の大笑いをした。