58 異世界?
M駅のロータリーで待っていた由奈ちゃんは、すぐに分かった。スマホでメッセージをやり取りして、到着時間の見込みを伝えていたため、見えやすい位置まで出てきてくれていたのだ。停車してもらって、降りて声を掛けた。
「由奈ちゃん!」
「郁子! えー、あの車なの?! まさかあれは違うと思ってた」
確かに、由奈ちゃんは人待ち顔に明後日の方向を見ていた。そうだよね。
試写会だけで帰る由奈ちゃんは、わたしより幾分カジュアルな服装だった。すんなりした足首がちらっと見える、プレスの効いたセージグリーンのアンクルパンツに、ゆったりした白いブラウスを合わせたシンプルなコーディネートだ。こういうさりげない服装なのに、絶妙なバランスで女らしさと知的な雰囲気を両方醸し出すあたり、由奈ちゃんは、相変わらずセルフプロデューススキルの塊である。パリジェンヌ風のキャメルカラーのベレー帽と、色味を合わせて選んだらしいフラットなオペラシューズにちょっと遊び心があるのがまた愛らしい。
「うん、ワンピース、いい感じ。ばっちり」
美貌の友人に改めて太鼓判を押してもらい、ほっとしたのもつかの間。
「細かい切り傷とばんそうこうがなければ、満点だったんだけど」
「はい。わかってます」
由奈ちゃんはあいかわらず辛口でもあった。まあ、自分の不注意でもある。由奈ちゃんがカラい言い方をするときはいつも、心配してくれているのだ。わたしは殊勝にうなずいた。
「ツクモ、あのね。大学の友達の、皆川由奈さん。同じ文学部の二年生」
わたしが助手席のドアを開けて声をかけると、ツクモはさっと運転席側のドアから出て、車越しではあったけれど、直接由奈ちゃんの顔を見てあいさつした。
「築井文史朗です。今日は一緒に来てくださってありがとう」
「ご紹介にあずかりました皆川です。お招きくださってありがとうございます」
ヤバい。わたしとツクモとの初対面とは全然違う。ツクモはすっかり猫かぶりスイッチだし、聞く限り相当厳しいおうちの出身の由奈ちゃんも、やればできるカンペキ女子なのだ。ただ、少し意外だったのは、ツクモの挨拶がそれだけで、淡々と運転席に戻ったところだった。
由奈ちゃんと初対面の異性はほとんど例外なく、その際立ったルックスに驚いたりちょっと見とれたりして、会話の言葉が遅れたり、挙動が少々不審になったりする。なのに、ツクモは一切その辺には無関心そうで無反応なのだ。やっぱり変わっている。それを、なるほどやっぱり変人だね、と面白がる一方で、自慢の友人である由奈ちゃんの魔法がかからない人間がいるということにちょっと不満なような、複雑な気持ちになる。
「先に皆川さん、乗ってください」
わたしが乗っていた助手席の背もたれを運転席側から操作して前側に倒して、ツクモが促すと、由奈ちゃんはお礼を言って、ごく当然のように、低い床のトラップをかわしてエレガントに後部座席に乗り込んだ。次はわたしの番だ。
わたしが少し緊張したのを見て取ったかのように、シートを戻したツクモは運転席から身を乗り出すように、こちらに手を差し伸べた。
「ふみちゃんも乗って」
つかまれということか。由奈ちゃんは自分で乗れるのに、ちょっと恥ずかしい。
でも、転ぶのはもっと恥ずかしいと思ったので、あきらめてツクモの手を借りて、さっきの要領を応用して乗り込んだ。うう。由奈ちゃんの視線が痛い。
「試写会のホールは割と近いんだけど、一か所寄り道をさせてね。すみません、皆川さん」
「もちろん、気にしません」
由奈ちゃんは控えめに応じたけれど、わたしは知っている。由奈ちゃんは今、あらゆるセンサーを働かせて情報を取り込んでいるのだ。後で話をするのが楽しみなような、怖いような。
ツクモが車を停めたのは、市街地の商店街のはずれにある花屋の前だった。
「すぐすむ用事だから、ちょっと待ってて」
ツクモは一人で車を降りた。パーティの最後の準備かな、とそちらは気にも留めず、ドアが閉まると、わたしは急いでシートベルトを緩めて由奈ちゃんを振り返った。
「どう思う?」
「これは異世界だね」
由奈ちゃんはわたしを見てにやりと笑った。
「異世界?」
「私や郁子が普段いる世界とはそっくりなようで根本法則が違う、って感じ」
まさかそんな方向から来るとは思わなかった。
「えっと、ここは日本で、今は二十一世紀だよね? 何の話?」
「例えよ、例え。築井さんが変わってるって郁子はしきりに言ってたけど、ただ単に変わっているっていうわけじゃなくて、築井さんには築井さんのバックグラウンドがあって、そちらの法則に従って行動している面もあるわけだ」
「バックグラウンド? どういうこと?」
「だって、私、友達のバイト先の二十代の上司に誘ってもらって一緒に映画の試写会に行くっていうだけの状況なのに、いきなりこんなスポーツカーに乗せられると思わなかったもん。これって絶対、普通じゃない環境で暮らしてる人だって。気まぐれや背伸びで二十代に乗れる車じゃない。それを鼻にかけてる感じでも気負ってる感じでもなく、当たり前って風に扱ってるあたり、もうこれは育ちや常識からして違うんだろうなあ、って」
確かに、山での調査の時も、今日も、わたしが転びそうなところではさっと手を貸したりしてくれた。小さいころからそうするのが当たり前のように厳しくしつけられてきていないと、あんなに自然にはできない気もする。本人もそんな趣旨のことをちらっと言っていたし。それが世間の常識かといえばやっぱり違うだろう。
「慎重派の郁子のお父さんが直接会ってOK出してる人じゃなかったら、正直、事件に巻き込まれたかと思うところだよ。話が出来すぎてる。事件じゃないなら、魔法にかけられたか、ふわふわしたロマンス小説の世界に転移させられたみたいに現実感がない感じ。この車のメーカー、イタリアだよ。左ハンドルが普通なのに、右の四人乗り出してたんだ。特注なのかなあ」
由奈ちゃんは、うっとりと革張りのシートを撫でた。
「い、イタリア? そんなすごいの、これ」
わたしは内心でクワガタだの、もう少し嫌われ者の昆虫のアレに例えていたというのに。ツクモの兄上はどうやら、お祖父さんの言質をとっていたのをいいことに、相当ぶっとんだ車の選び方をしたらしい。ツクモ本人が選ぼうとしていたのは、これまで調査に来るとき使っていた社用車と似たようなごく普通の国産車らしいので、すっぽんが月にスケールアップされてしまったということなのだろう。
尋常じゃない車好きのお兄さんといい、そのお兄さんに車選びをあっさり任せてしまうツクモといい、お兄さんの桁違いのリクエストを真に受けるお祖父さんといい、家族そろってスケールがわけわからない。
「郁子は車興味ないから、知らないか。好事家が憧れるような車だよ。でも、その割に、築井さん運転に癖がない。そこは素敵だな。こういう車に乗る人って、運転に一癖二癖あって、リアシートに乗ったら車酔い当たり前みたいな人多いもん」
ドヤ顔で乗り回すタイプのことを言っているんだろう。
「高速でも安全運転だったよ。全然怖くなかった。前乗せてもらった、よくある国産車の時と一緒の運転。お兄さんが好きで選んだ車で、本人は別に興味ないんだって」
「マジかー。このタイプの車じゃ、いくら調整してもクセは出るよ。エンジン音からして馬力は相当ありそうだし、荷重が前に寄りそうだから、ステアリングもかなりピーキーじゃないのかな。市街地でも高速でも国産車と同じ乗り心地の運転ができるんなら、相当上手いんだよ、それ。安全運転してくれたんだよ」
「……そうなんだ」
どちらかというと、おしゃべりに夢中だったような気もしたけれど。でも、由奈ちゃんは、それこそ好事家らしい、実家のパパの影響で、車には相当詳しくて運転も上手い。こんな地方の大学を選んだのは、学生の一人暮らしの物件でも住まいのごく近くに格安で駐車場を確保できて、車生活が送りやすそうだったからだという冗談みたいなことを半分本気の顔で言っていたくらいなのだ。その由奈ちゃんが言うんだから、この車が乗りにくいというのは本当なんだろう。
由奈ちゃんの発言の前半にまた魔法の呪文みたいに意味が分からない言葉が入っていたけれど、そこはフィーリングで飲み下すことにした。由奈ちゃんも半分異世界の住人みたいだ。
「ま、車のことはさておき。いわば、私も郁子も知らない世界が、現代の日本に実在するのよ。郁子がこれから行くのは、ひょっとすると、異次元世界並みに郁子の常識が通用しないところかもしれない、ってこと。転移したんだと思って、現地の人である築井さんのアドバイスには真摯に、素直に耳を傾けて。いつもみたいに意地を張らないほうがいい。少なくとも、今までの話を聞く限り、築井さんは郁子をかばって、ちゃんと味方をしてくれるでしょ」
なかなかどうして、由奈ちゃんも脅しがきつい。














