54 クワガタ号(後)
停めてあった車のところまでいつの間にかたどり着いていた。ツクモは、燕脂色の車の助手席側のドアを開けた。
「まさか、車の乗り降りも無理だと思われてる?」
わたしが抗議の声をあげると、ツクモは肩をすくめた。
「だまされたと思って、手を貸して」
わたしの左手をとる。
「難易度Dの路面で難易度Dの車だから。ふみちゃんが悪い訳じゃなくて組み合わせの問題。言うとおりにして」
そんなに特別な作法があるんだろうか。
わたしは首をかしげつつもうなずいた。
「貴婦人が馬に横乗りするつもりで、先にシートに腰を下ろして。頭気をつけてね」
言われて腰をかがめて驚いた。
「ひくっ!」
ほとんどしりもちをついたかと思うぐらい、シートが低い。ツクモが手をとっていてくれなければ、バランスを崩して転んでいたかも。
「それから、身体を前に向けて、足をいれる。そう」
ひざをそろえて身体ごと前に向け、スカートのすそを直しながら脚を前方のスペースにおさめる。こんな乗り方、初めてした。それこそ、貴婦人みたいだ。
「ごめんね、ちょっと電話一本掛けてから出るから、待ってて」
ツクモはドアを閉めると、車の後ろのほうで電話を掛けているようだった。振り返ってもよく見えない。
ほどなく戻ってきて、運転席側に回って乗り込んだツクモは、わたしを見て屈託なく笑った。
「あれは、乗ったことないと分かんないだろうと思って。天井が低いから、普通に乗ろうとすると頭をぶつけたり、身をかがめすぎてよろけたりするんだ」
確かに、わたしが無様に転ばなくて済んだのは、ツクモのおかげである。今後の人生でも、いつか役に立つかもしれない知識も身に着いた。そこを否定する気はない。ないが、わたしにも、一言ツッコんでやりたいところはあった。
「嬉しそうに言うけどさ、それも、ツクモがこの車をお気に召さないポイントなんだよね? 乗り降りが不便なほど車高が低いっていうのが」
「……そうでした」
ツクモは、一本取られちゃったなー、と独りごちながら、エンジンを掛けて、車をスタートさせた。
◇
羽音木の集落を通るとき、ツクモに聞かれて、森崎量吉さんの家を教えた。今日は車もなく、家はひっそりと静まり返っていた。あの時の痕跡は、駐車していた車に踏みしだかれたぼうぼうの雑草くらいだったけれど、それも、旺盛な生命力で、踏まれたところがもうあまり目立たない程度にまた生い茂りかかっていた。
「ふみちゃんが落ちたのは?」
「集落を出て、ふもとの街に降りる途中のところ」
ちょうどそのカーブが見えてきたところで指さすと、ツクモは苦い顔をした。
「あんなとこ? 絶対見えるじゃん。こっちのカーブ出たら、もう。減速する余裕は十分にあったはずだ。しかもあのやぶだらけの斜面。不注意だとしたら相当どうかしてるし、故意だったとしたらかなり悪質」
確かに、こうして上から下って確認してみると、見通しが悪いとはお世辞にも言えない。
「顔、もっとちゃんと見ておけばよかった。ナンバーも。ごめんね」
何か手がかりがあれば、他の件との関連性を調べる取っ掛かりにできたはずなのだ。しゅんとなったわたしに、ツクモはむっとした口調で応じた。
「だから、ふみちゃんが謝らない。小さいけがで済んだだけで、ふみちゃんがすべきことは十分してる。身を守るのが一番大事」
「……ありがとう」
以前、研究所に行くときに通ったのと同じルートで高速道路に向かう。ふもとの町は、金曜日の午後ということもあって、少し交通量が多かった。
クーラーはゆるくかかっていたが、着たまま車に乗ってしわにするのも嫌で、わたしは麻のジャケットを脱いで軽くたたみ、ひざの上に置いていた。窓から差し込む日差しに、むき出しの肩がじんわり温められて心地いい。
交差点を曲がり終えて、幹線道路の車の流れに乗ったところで、ツクモが尋ねた。
「ふみちゃん、痛いのどこ?」
「左腕。でも、もうほとんど痛くないよ」
「うわ」
ツクモはちらっと視線をこちらにやり、バンソウコウからはみ出した部分のあざを見てうめいた。色だけは今が一番派手なのだ。
「その車マジで腹立つ。調べたけど、車の正体を探る線も、森崎家の住人を追う線も行き詰まりだったんだ。森崎量吉さんはほとんどここで一生過ごした人だってことくらいしかわからなかった」
そのくらいわたしだって知っている。ご近所さんに聞いたら一発で終了だ。でもそう言えば、ジュンコさんとれおくんのことは誰も知らない。お祭りの準備のとき、マツムシの話題になったので、それとなく二人のことを聞いてみたのだが、ジュンコさんと同世代だった人も、れおくんと同学年だった子も連絡はとっていないようだった。
わたしがそう言うと、ツクモは肩をすくめた。
「羽音木方面からも行き詰まりか。あとは、お寺に聞くしかないのかな。個人情報だから、教えてもらうのは難しいか。中学や高校の卒業記録から、ジュンコさんの足跡をたどろうと思ったんだけど、こちらもやっぱり壁が高かった。いっそストレートに、ふみちゃんが落ちた件を、ひき逃げ未遂で警察に被害届出して防犯カメラをあたってもらうとか」
「もう何日も経ってるもの、今さらだよ。結局、接触はしていないわけだし、こっちの言い分を百パーセント聞いてくれるわけでもないだろうし。そもそも、防犯カメラってあんな何にもない場所にあるわけないじゃん。羽音木集落への出入りがわかるかどうかすら、怪しいと思う」
「それはそうかもしれないけど。でも、オレとしては、現場見て、ちょっと考えが変わった。今まではふみちゃんの話を聞いてただけだったから、念のため、くらいの気持ちだったけど、ちゃんと追及した方がいい線のような気がする。せめて、ジュンコさんの卒業年度や名前の漢字がわかるともう少し手がかりが見つけやすくなるんだけど、ふみちゃんパパとか、知らないかな」
「うーん。お父さんは年齢が近いから、同じ集落で育ったよしみで聞けばわかると思う。でも、下手に車のことが知れると、親ばかだからすぐ逆上するんだよ。変な騒ぎにされるかもしれないから、言いたくないんだよね。勘が鋭いから、今ジュンコさんのことを持ち出せば、唐突に何でそんなことを聞くんだって絶対聞かれる。産業スパイの件でツクモが心配してるなんて小耳にはさみでもしたら、警察に通報どころか、下手すれば、安全が確認されるまではって家に閉じ込められかねない」
父には、単に、上り坂で自転車のハンドルを取られて、斜面から滑り落ちて怪我をした、としか言っていない。ほかのことでは冷静で温厚なタイプなのだが、わたしが絡むと何かと話がややこしくなるのだ。
「オレとしては半分くらい、お父さんに同意見、と言いたいところだけど。でも、やっぱりそうもいかないよね」
ツクモは小さくため息をついた。
「冗談でしょ。二十歳超えた娘を、行きたいところに行かせない権利はいくら父親にだってないよ。それこそ、単なる偶然の産物かもしれないのに、いるかどうかもはっきりしない犯人を捜して、見つかるまで外に出してもらえなかったら、座敷牢だよ」
「うん。閉じ込めるまでするのは極端かもしれないけど、ふみちゃんの安全はやっぱり大事。森崎さんが関係あるかないかも含めて、会社のセキュリティ担当の人にももう少し調査を継続してもらうことにする。ふみちゃんも、話のついででもいいから、何かわかったことがあったら何でも教えて」
前方の信号は赤だった。先行車に続いて、穏やかな減速で停止する。
ツクモは気分を切り替えるように、明るい口調になって言った。
「でもね、古文書の方は少しは進んだ。最初の日に取り込んだ分と、ふみちゃんがあれからいくつか取り込んで送ってくれた文書画像があっただろ。それと、医院文書の翻刻。母に忙殺されてて、こっちに来る時間は取れなかったけど、すきま時間にそういうのを多少読むことはできた。ある程度情報を仕入れてきたから、ディスカッションできるよ」
「すごい。ツクモやるじゃん」
わたしは手をたたいた。わたしがサボっていた間に、ツクモはしっかり調査に取り組んでいたわけだ。まあ、これは神社が絡んでいるとはいえ、今のところはツクモの研究なわけだけれど。
「ふみちゃんのおかげだよ」
「なんで? わたし今週はお祭りの準備ばかりしていて、何にもしてないよ」
「電話で、御谷守を見つけたって言ってただろ。あの前後が重要だと踏んで範囲を絞ることができたから」
そう言えば電話を切る前に、見つけた箇所のだいたいの位置を聞かれたっけ。
ツクモは話すべき内容を思い出すように少し言葉を切ってから、おもむろに切り出した。














