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昆虫オタクと神社の娘【完結済】  作者: 藤倉楠之
第六章 試写会

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53 クワガタ号(前)

 九月半ばの祭りは、七曜神社の一年で一番重要な行事である。


 祭りまで後一ヶ月あまりと近づいてきた八月初めは、お囃子の練習や細々した雑務が増えてきて、忙しくなる時期でもあった。


 だが、今年はここまで、お祭りの準備は少々手薄になってしまっていたと言わざるを得ない。両親は例年通り淡々と進めていたようだが、わたしはあまり身が入っていなかった。


 バイトに関係したもろもろのことに、気を取られていたからだ。


 神社の歴史が次第にわかってきそうな古文書の内容はとても気になっていたし、ほかにも気になることは大小取り混ぜていろいろあった。ツクモの昆虫の調査。飯田さんのガスクロ分析で謎が明るみに出てきたわたしの奇妙な体質。散虫香のこと。成り行きで巻き込まれてしまった金山さんとツクモのいさかい。どこまでわたしに関係あるかわからない研究所の産業スパイや脅迫のこと。ここ最近、余りにいろいろありすぎた、というのが正直なところだった。


 ツクモと電話で転落事故のことを話した翌日、自転車で転んだくらいでずいぶん泣いてしまったな、と、わたしはあらためて自分を振り返っていた。


 電話口であんな風に癇癪を爆発させて、きっとツクモだって困っていただろう。悪いことをしたな、と思った。ツクモに出会ってからの色々に、自分自身訳が分からないうちに飲まれてしまって、不安や疲れがたまっていたのかもしれない。わたしが柄にもなくめそめそしていたから、あの時はツクモも親戚のお兄さんモード全開でたくさん甘やかしてくれた。でも、それでは仕事にならない、と思う。


 ツクボウのバイトは、文書のデータ化とか下読みとか、やればできる作業はもちろんいろいろあるにせよ、基本的にはツクモが来ないと進まない。データ化は九月の下旬までに終わればいいし、下読みは、やって文書の要約を報告すればバイト扱いにしてくれるとツクモは言ったけれど、どこからどこまでを、と具体的に頼まれた仕事ではなかった。いろいろ考えすぎても行き詰まるし、わたしの生活はバイトだけで構成されているわけではない。


 一度頭を切り替えた方がいいだろうと判断して、わたしは、祭り関連の棚上げになっていた雑務に取りかかっていた。子供たちに配る菓子や、休憩所のお茶の手配。川ぞいの魂送りの仮社の祭具や設営用品の確認。氏子会の祭り壮年部や青年部との打ち合わせ。お囃子関連の連絡や練習レジュメづくり。細々とした手配事項や確認事項は山ほどある。


 父は社殿で行う神事と、神域の中、宮司のみで執り行う一子相伝の神事の準備に忙しいので、集落の御鈴祓(おんすずはら)いと、氏子会が担当する川沿いの仮社での魂送りに関する準備は、例年母とわたしが中心になって進めていた。お互いに確認漏れがないように、母と連絡ノートをつけながらやってきていた祭りの準備に本腰をいれると、ようやく、現実的な感覚が戻ってくるような気がした。


 そうこうしているうちに、金曜日になった。こまかい擦り傷や切り傷はすでにかさぶたになっていた。脚はストッキングでごまかせるけれど、後はどうにもできない。左腕のあざは、予想通り、青あざが変色していって、黒と黄色っぽい色がまだらに入り混じって、ひどい見た目になっていた。痛みはむしろ引いて、見た目とのギャップが広がっていたけれど、ジャケットを脱いだら目立つ。苦肉の策で、肌色に近い大きめのばんそうこうを貼ることにした。遠目ではわかりにくくなるだろう。


 試写会は三時からの予定だった。ツクモは昼過ぎに迎えに来てくれることになっていた。


 試写会はともかく、チャリティ・ガラについては、そんなちゃんとした場所にひとりでやって大丈夫か、と父は当初ずいぶん心配そうにしていた。それでも、母が、まあ大丈夫でしょう、と鶴の一声を発したため、父もそれ以上不安を口にするのはやめたようだった。


 そのかわり、チャリティに手ぶらで行くもんじゃない、と言って、寄付として(つむぎ)の反物を用意してくれた。神社と懇意の織り元に頼んで適価で譲ってもらったという。当日のイベントの一つに、ツクモのご母堂が、チャリティオークションを企画していたのだ。価値のわかる人が買ってくれれば、それなりの額になるはずだ。


 ツクモも、若い人たちはともかく年輩の参加者には着物を普段から着る人も多いので、きっと受けがいい、とご母堂の太鼓判を伝えてくれた。本人は、よくわからない、と笑っていたが。


 なんだかずいぶん大事(おおごと)になってしまった。


 大人の世界は難しい。


 外で自動車のエンジン音がした。きっとツクモだ、と思って外に出たら、見たことのない、車高が低めの流線型の車だったので驚いた。臙脂色っぽいメタリックな塗装もあいまって、何か別のものを連想させる。


 それでも、運転席から降りてきたのはやっぱりツクモだった。


「お待たせ。ふみちゃん怪我はもう大丈夫?」


「ぜんぜん平気。見た目以外は完全復活だよ」


 腰に手を当てて胸を張ってみせると、ツクモも目に見えてほっとしたように笑った。


 よかった。多分これで元通りだ。


 あの電話の後の、会って一言目をどう言うか、実は結構緊張していたんだな、と気がつかされた。


 安心ついでに、つい、聞いてしまった。


「この車、どうしたのツクモ。まさか、クワガタを意識して選んだとか言わないよね?」


 一番最初に連想したのはクワガタではなく、もう少し身近でもう少し嫌われ者の昆虫、かさかさと素早い〈頭文字G〉だったのだが、それを言わなかったのはせめてもの情けである。


 ツクモは口をへの字にした。


「兄貴にやられた」


「どういうこと?」


「面倒がって社用車ばっかり借りてて自分の車を決めなかったら、公私混同だって怒られて、私用の車を買うことになったんだ。一昨年かな。一応、最初の一台だけは買ってやるっていうのが、母方の祖父との子どものころからの約束でね。あとは自分の才覚で買え、って。オレは普段車には全然興味ないからわかんなくて、しょっちゅう借りてた社用車と同じやつを選ぶつもりだったんだよ。そしたら、横から、オレの昆虫好き並みに車好きの兄貴が強引に口を出してきて、いいの選んでやるっていうから、四人は乗れて普通免許で大丈夫なやつ、という条件で任せたらこれ」


「スポーツカーはお兄さんの趣味か」


 ツクモの昆虫好き並み。尋常じゃないということはその一言でよくわかった。


「こんな実用的じゃない車があるなんて知らなかったんだ。荷物乗らないし、舗装してない道走れないし。調査には超不向き。兄貴の乗ってるのはいつも二人乗りだから、四人以上乗りって言っておけば、普通のを選んでくれるだろうと思ってたんだ。まさかこんなことになると予想もしてなくてさ。兄貴のやつ、オレの用途知ってたくせに自分が時々乗りたいからってガン無視したんだよ」


「それでいつもは社用車で来てたんだ」


「調査は研究の一環だから仕事扱いでいいんだけど」


 今回はさすがに仕事ではないので借りられなかったのだという。


「狭くて低くて、乗りにくい車でごめん。お友だちも、後ろの席とっても狭い」


 いつもよりちゃんとしたスーツ姿なのに、決まり悪そうにしょんぼりしているので笑ってしまった。


「普通はこういう車はドヤ顔で乗り回すんじゃないの」


「兄貴はね。オレは完全にしてやられた気分。オレより兄貴のほうが乗ってるんじゃないかな、これは」


 それでも、買い換えたりせずに二年近く使っているらしい。なんだかんだで仲のいい兄弟なんだろう。右から左に、確かめもせずに買うものとしては、庶民感覚としては大きすぎる買い物だけれど、その辺の感覚のずれについては今さら論じる気にもなれない。


 ツクモは社務所で事務仕事をしている父に挨拶に行ったので、わたしも自分の荷物を取りに行ってきた。


 慣れないハイヒールを神社の駐車場の砂利にとられて苦戦していたら、後ろから追い付いたツクモがさっと荷物をとってひじを支えてくれた。


「けがしたばかりなんだから、この上ハイヒールで転ぶのはまずいだろ」


「なにそれ」


 わたしは頬を膨らませた。


「お父さんとの約束が果たせないと困るからね」


「約束?」


「ふみちゃんを今日無事に連れて帰ってくるって。ふみちゃんが転んで捻挫したら、約束違反になる」


「なんで転ぶのが前提みたいになってるの」


「足元怪しいんだもん。目下一番気を付けなきゃいけないのはどうやらふみちゃんの自損事故だ」


 にやっと笑って、ツクモはわたしのひじに添えた手に少し力を込めた。腹立つ。


「ちゃんと歩けるよ!」


 ツクモの手を押しのけようとしたけど、こいつは塗り壁である。力では全く対抗できなくて、自分の方がよろけてしまった。


「言わんこっちゃない」


 ツクモは笑い混じりに言いつつ、ぐっとわたしの腕を引いて崩れかけたバランスを立て直してくれた。


「この辺の地域のことはふみちゃんが詳しいだろ。それと同じで、オレのほうが多少詳しい分野もある」


 昆虫とか、山歩きとか、翻刻とか、パーティーマナーとか。


 ヤバい。わたしのほうが詳しい分野、得意な分野ってなんだっけ。羽音木のことだけ?


 女子なのに、ハイヒールでまっすぐに歩くこともできてない。


「オレ自身はさっぱり興味なかったけど、そういうかかとが高くて細い靴を履いてる人と一緒に歩くときどうしたらいいかは、色々あって叩き込まれてるから。この路面は確実に難易度D。集中してないと、足を取られる。でも、安心して。ふみちゃんはちゃんと無事に今日一日過ごさせるから。一日履けば、その靴も随分慣れると思うよ」


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[一言] お互いのことをいたわりあっている感じもします。
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