52 ドットとスクエア
「ぶつかりそうだった時は、ナンバーもドライバーも見てないの。だから、確証はないんだけど」
わたしは、空き家で見た車のことを説明した。
「ふだん、羽音木集落は、関係ない車が止まっていることは少ないから、気になったんだよね。東京のナンバーもそんなに頻繁には見かけないし。突っ込んできた車は、たまたま色と形が似ているだけで、マナーの悪い、抜け道目的の別の車だった可能性だってあるから、はっきりとしたことは結局何も言えないんだけど」
『その空き家には誰がいつまで住んでたの?』
「一人暮らしのおじいちゃん。ほら、年明けに亡くなった、マツムシの」
『親類縁者は?』
「わたしの知る限り、近い親族は一人娘とその息子だけ。おじいちゃんにとっては孫だね。前話したセミ事件、覚えてる? あの子」
『もちろん。虫好きの風上にも置けないやつ』
吐き捨てるようなツクモの口調に、わたしはこんな状況なのに思わず笑ってしまった。
「そう、その、れおくん。セミ事件の後、秋だったかな。お母さんとれおくんだけ引っ越しちゃったから、おじいちゃんはそれから一人暮らし。折り合いが悪かったみたいで、この辺のしきたり通りに集落で葬式を出したときにも二人とも来なかった。後で遺骨だけ引き取ったって。それ以外の親戚は、ご近所に住んでて付き合いのある本人のいとこ、わたしも面識のあるおばあちゃんなんだけど、その人くらい。ちなみに、そのおばあちゃんは運転はしないよ。だから、車が止まってるのを見たときは、とっさに娘さんかれおくんが遺品の整理にでも来たのかなって思ったんだよね」
『おじいちゃんの名字は?』
「森崎だよ。どうして?」
ツクモはうなった。
『なんか、気になる。引っ掛かる。ちょっと調べてみるね。例の脅迫と絡んでないといいんだけど』
「まさか。れおくんたち、もう十年以上も前に引っ越して、それ以来、一度も来ていないんだよ。ツクボウの産業スパイとは関係ないと思うけど」
いくらなんでも気にしすぎじゃないだろうか。
『その白い車がふみちゃんにぶつかりそうになったものと同一だったとしても、たまたま空き家の前に一旦停めていた通りすがりの車だったっていう説も、たまたま森崎さんの娘さんかお孫さんが来ていたけど下り坂では何かに動揺して不注意だったからふみちゃんに気がつかなかっただけっていう説もありうるよ。空き家の前に止まってた車とふみちゃんにぶつかりそうだった車は別物っていう説も、もちろん可能性としては排除できない。でもその可能性だけで安心して、確認できることをしなかったり、もうすこし深刻な悪意が絡んでいるかもしれない別の可能性を検討しておかないのは片手落ちだからね。森崎さんの娘さんやお孫さんを今疑っているわけじゃないけど、できるかぎりで確認はしてみたい』
ツクモが急に大人に感じられた。この人、昆虫が絡まなければこんなにちゃんとしているのか。
『森崎さんのおじいちゃんと娘さん。それぞれ、下の名前は?』
「量吉と、ジュンコ。量吉は、重さを量るの『量』に、大安吉日の『吉』ね。ジュンコさんのほうは、漢字は知らないんだ」
『ひとまずは十分だよ。息子さんは、れおくんね。こっちも漢字は?』
「わかんない」
『まあ、念のためだから』
語尾が少しぼやけて、がさがさいう音が聞こえた。メモを取っているらしい。
その音が収まると、少し改まった口調でツクモは尋ねた。
『ふみちゃん、本当に、ひどいけがはしていない?』
「うん。ちょっとずきずきするけど、平気」
『そう。よかった。……本当によかった。よけきれなくて事故に遭ってたら、こんなこと言ってられなかったかもしれないと思うと、今本当に怖いんだ。自分でもびっくりしてるんだけど、手が震えてる。ふみちゃんが全力でよけてくれて、無事でいてくれて、……ふみちゃん、ありがとう』
わずかに、その語尾も震えていた。
「……うん」
本当にそうだ。あの車をよけていなければ、止まってくれると甘く見て自転車を降りていなかったら、今頃ここにこうしていなかったかもしれない。
ツクモの言葉は、すとんと腑に落ちた。
「ありがとう、ツクモ。心配してくれて」
『ごめんね、ふみちゃん』
「今度はツクモが謝ってる。変なの」
『もしそれが産業スパイにかかわったトラブルなら、オレが巻き込んだかもしれないから。ふみちゃんはオレが守るって言ったのに、約束を守れていない』
何の話だろう、と、一瞬考えて思い出した。
「あの、森の中でトンボの実験した時のこと? あれって、あの実験かぎりの話じゃないの」
危なくないよね、と聞いたわたしに、言ったのだ。
あれってまだ有効だったんだ、と思ったらくすぐったくて、ちょっと笑ってしまった。
『違う。オレはいつでも、本気のことしか言わないよ。調査や実験のことで、絶対にふみちゃんに迷惑をかけたり、危ない目にあわせたりはしたくないんだ』
心外そうにツクモが言う。
確かにそうだ。ツクモは、冗談を言ったり猫をかぶったりはするけど、今までわたしに嘘とごまかしを言ったことはない。
「わかった。じゃあ、本気のことしか言わないツクモに聞くけど、本当に、擦り傷だらけで大きいあざがあるわたしがお母さんのパーティに行っても、ツクモは困らない?」
『困らない。オレはふみちゃんに来てほしい』
やけにきっぱり断言する。これはちょっと意外だった。
「あれ? 飯田さんと話してた時よりは、ツクモも乗り気になってるの?」
『おふくろの手伝いさせられたって言っただろ。もう全くやる気でなかったし、料理も花も普段はぜんっぜん興味沸かないけど、ふみちゃんが来て見てくれるんなら、と思ったら、どうにか準備にモチベーションが沸いたから。苦手なことの手伝いさせられて、オレが労力を払ったんだから、オレが見せたい人に見てほしい』
何それ。
不覚にも、ちょっとかわいい、と思ってしまった。
『それに、何が一番、金山の思い通りにさせないことになるかっていうと、オレが苦手なはずのああいう場で堂々と楽しんでることだと思うんだよね。あいつは関係なく。あんなのほっといて、ふみちゃんと楽しく過ごせばいいんだって気が付いた。あいつが何を仕掛けてきても、オレが全力でふみちゃんを守るから、来てくれる?』
ツクモはずるい。こういうところで、さらっと、何でもないことのように、わたしが長年、いつか聞きたいけど絶対そんな状況なんて訪れないよなあって思っていた言葉を一度ならず再び言う。森の中でも、今も、どこかで、ちくしょう、ツクモのくせに、とは思う。お兄さんぶって『絶対』なんて言ってるけど、そんなこと軽々しく言えないって冷静に考える自分も、わたしは守ってもらわなくちゃいけない、かよわい妹分やお嬢様なんかじゃないって反発する自分もいる。けど、それでもやっぱり、あこがれの言葉は、聞けば嬉しいのだ。
全力で守る、か。
「うん。じゃあ、行く」
『ありがとう。当日、神社まで迎えに行くから』
「えー、ツクモS市からでしょ。すっごい遠回りだよ。そっちからだと、うちまで来たら、いったんM市通り越して、それからまた戻ることになっちゃう。準備もあるんでしょ。いくらなんでも、せめてM市の駅まで出るって」
『これだけはおふくろにオレの条件を呑ませたの。当日はふみちゃん迎えに行くから、自分でやってって。試写会に来るお友達は? M駅で待ち合わせなら、途中で一緒に拾ってくよ』
そう言われては、うなずくしかない。
「ありがとう」
『こっちこそ、来るって言ってくれて、ありがとう』
電話は切れた。わたしは振り返って、掛けたままだったワンピースを見た。
裾模様の水玉と正方形が、金曜日を楽しみにしているような気がしてきた。














