51 ごめんなさい
リュックサックの中に入れていたおかげでなくさずにすんだインクカートリッジを取り替える気力もわかず、午後の残りはだらだらと漫画を読んで潰れてしまった。大好きな漫画のはずなのに、機械的にページをめくっているだけで、内容はちっとも頭に入ってこなかった。
母は準夜勤の日で帰宅は夜中になる。あれこれ聞かれなくて済んだのは幸いだった。
言葉少なに父と二人の夕食を終え、自分の部屋に引き取った。
左の前腕には、派手に青あざができていた。今日が日曜日で、試写会は金曜日だ。青あざが黒っぽくなって、一番目立つ頃かもしれない。
買ってきた日にうれしくてハンガーに掛けて、見えるところにひっかけてあった黒のワンピースを見たくなくて、わたしは枕に顔をうずめた。
そのとき、充電ケーブルに繋いだままのスマホがサイドテーブルの上で小さく振動し、着信ランプが小さく光った。一瞬遅れて、着信音が流れる。スマホにもともと内蔵されていたメロディの中で、タイトルがぴったりだと思って、ふと気まぐれにツクモの番号に設定した曲。クラシックの「熊蜂の飛行」だ。
無視するわけにもいかず、わたしはのろのろと手を伸ばしてスマホを手に取り、通話アイコンをタップした。
『もしもし。ふみちゃん?』
「うん」
いつも通りのツクモの声だ。それだけで、また涙がにじんでくる。
『今日、どうだった?』
「神社文書を取り込みながら、医院文書の翻刻データを読んでた」
『ふみちゃん、働き者。医院文書は日記が中心だよね? なにか面白い記事あった?』
聞かれて、報告できることがほとんどないことに気が付いた。
もう、最悪だ。
「おんたにまもり、の、御谷守を見つけた。江戸時代中期くらいの医師の日記」
『すごいじゃん! 何が書いてあったの?』
「まだちゃんと読めてない。ただ、ツクモのご先祖様の、築井氏の奥方について書いてるところみたい。他には、まだ何も」
すっかすかの報告だ。自分でも嫌になる。
『その手がかりは気になるなあ。医院文書は画像ファイルと翻刻の文書ファイルだよね?』
「そうだよ。前院長先生も、全部は翻刻できていないみたいだけど」
『後で、文書ファイルだけ、メール添付してもらえる? それだけでも読んでみたい。画像は容量も大きいし数も多いから、前言ったとおり手渡しでいいから』
「わかった」
『あのね、ふみちゃん』
ツクモはちょっと困ったような声になって、言った。
『オレの思い違いだったら、それでいいんだけど。元気ない。疲れてる?』
「なんで?」
『声が。いつもとちょっと違う。目の前にいて見ていられたら、もっといいんだけど』
「なんで?」
『オレはふみちゃん観察の第一人者を目指してるんだ。この現象はとっても気になる』
「観察かよ」
わたしはちょっと唇をとがらせた。この前は、わたしのことを面白いって言ってた。やっぱり好奇心の対象ってことか。
『どうしたの。何かあった?』
「……自転車で、転んだ」
それをツクモに言うのが、こんなに嫌だなんて自分でも思いもしなかったけど。
いつもからかってくるツクモのことだ。笑ったりするに違いない。
『えー! 大丈夫、ふみちゃん、けがは?』
案に相違して、ツクモは笑いもせず、素っ頓狂な声をあげた。
「大したことない。捻挫も骨折もしてないよ。走れるし、自転車乗れるし、ピンピンしてるよ」
『ピンピンはしてないだろ。やっぱり、元気ないよ』
ちょっと怒ったような声でツクモは指摘した。
「だって」
また涙がにじんでくる。
「だって、あのね、……」
うまく言葉が出てこない。
『うん。何』
「ごめんなさい」
やっとその一言が言えて、にじんでいた涙が一気にその量を増して頬に流れてきた。
『え、何、どうして? なんでふみちゃんが謝るの』
電話の向こうで、ツクモは大混乱している。
「だって、……っ、手も足も、擦り傷だらけで」
しゃくりあげてしまって、とぎれとぎれなわたしの言葉を、ツクモは辛抱強く聞いて、相づちをうった。
『うん、痛かったんだね』
「腕なんか、すっごいあざできて」
『うわあ』
自分がどこかにぶつけたみたいにツクモはうめく。
「もう、ぼろぼろ。ツクモが連れててはずかしくないような女の子で頑張ろうと思ってたのに、探検ごっこ翌日の小学生みたいな、擦り傷のかさぶただらけの状態で、金曜日になっちゃう。これじゃあ、やっぱり、金山さんに笑われちゃう」
一息に言ったら、息が続かなくなった。深呼吸しようとしたけど、しゃっくりみたいになってしまってうまく息が入らない。
『ふみちゃん、まだ痛いの。大丈夫?』
「痛くて泣いてるんじゃないもん。郁子観察の第一人者なんでしょ。そのくらいわかってよ」
自分でも無茶苦茶を言っていると思う。うー、とうめいて、ツクモは必死に考えているようだった。この真面目さが腹立つ。何から何まで全部、わたしの一方的な八つ当たりだってわかってるけど。
『金山に笑われると思ってるの。それで謝ってたの? そんなの、気にするなよ。オレ、ふみちゃんがギブスして松葉づえついてたって、三角巾で腕を首からつるしてたって、一緒にいてはずかしいなんて絶対思わないよ。思うヤツのほうがどうかしてると思うけど』
「そういう大けがは、また違うよ。だって、擦り傷で青あざだよ? 身なりに構ってない、やんちゃでおてんばな、お子様だってことになるじゃん」
『ならないよ。そもそも、どうして転んだの。何があったの』
「自転車で山道上がってるときに、前から、下ってくる車がスピード出しすぎてて、端によけて止まって待ってたんだけど、ぶつかると思ってもっとよけようとしたら、斜面から落ちた」
本当に、ドジにもほどがある。
『何それ。そいつ、車ごと谷底に落としてやりたい』
ツクモは剣呑な口調で物騒なことを言った。
「足元不注意だよ。わたしが悪かったの。ツクモ、ごめん」
『だから、ふみちゃんが謝らない! それは、その車が悪い。ふみちゃん、路肩で自転車停めて待ってたんだろ。ドライバーの注意義務違反。ふみちゃんだって運転するんだから、そのくらいわかるよね?』
言われてみれば、それは確かにそうだ。それでけががなかったことになるわけじゃないし、ツクモに掛ける迷惑が減るわけじゃないけど。それでも、ツクモの言葉で、少し涙はおさまった。
『どこのどいつ? 保険会社にはちゃんと連絡させた? けがしてるんなら、警察に入ってもらって事故の扱いにできるかも』
「わかんないよ。わたしがそこにいたのにも、落ちたのにも気が付いてないんじゃないかっていうくらい、すごいスピードで行っちゃったもん」
『マジで? 救護義務違反もつけられるだろ。ひき逃げ未遂じゃん。ナンバーとかは?』
ツクモは本気で腹を立てているようだった。
「その時はよけるのに必死だったから、ナンバーも見てないし、ドライバーが男か女かも見る余裕が」
そう言いかけて、あれ、と思った。森崎の空き家に止めていた車なら、もしかして、ジュンコさんかれおくんだったのだろうか。でも、わたしの記憶の中のジュンコさんは、いつも声が小さくて穏やかで、ちょっと肩をすぼめたような女性だった。あんな乱暴な運転は似合わない。では、れおくん?
そんな風に一足飛びに決めつけるわけにはいかないだろう。彼らはもう十年以上もこの土地には来ていない。遺品を取りに来る気だってないかもしれない。
そもそも、あの時停まっていた車は、森崎家に用事があった人のものとは限らないのだ。たまたま集落に迷い込んできて、邪魔にならないように空き家の前にいったん停車してナビを操作していた通りすがりの人の可能性もある。わたしはちらっと車を見て、運転席に人影が見えなかったので、家のほうばかり気にしていたけれど、たまたま車内で身をかがめていただけだったのかもしれないし。
『どうしたの、ふみちゃん』
急に言葉を途切れさせたわたしを案じるように、ツクモが問いかけた。














