50 災難
ホームセンターで無事にインクカートリッジを見つけて購入し、集落に上がる道に自転車を乗り入れたのは、まだ三時過ぎだった。やや傾いた日がじりじりと照りつける。草いきれで、むっとするほど湿度が高い。山暮らしの自転車生活で、地味だが一番気分が滅入る欠点がここである。出かけるときは下り坂で颯爽と進んでいけるのだが、外で何かして疲れて帰ってくるときには、えんえん上り坂なのだ。原付か、せめて電動アシスト式自転車が欲しいけれど、父にそう言えば、あきれ顔で、自分で稼いで買え、と言われるだろう。高校まではもちろん、何のアシストもなく毎日往復して通った道だし、この土地の中高生はみんなそうしているのだから、堕落と言えば堕落した精神なのだが、こんな日は住んでいる土地の標高を呪いたくなる。
立ちこぎでどうにか登れる程度のだらだらした勾配をしばらく進んだ時だった。集落のほうから、かなりのスピードで降りてくる白っぽい車が見えた。
さっき、量吉さんの家に止まっていたものと似た車だった。
自動車同士ではすれ違うのも慎重にしなければ脱輪の危険があるような、幅の狭い道路である。立ちこぎでハンドルを取られがちな運転では危険だ。わたしは目につきやすいカーブの外側で自転車を一旦路肩に寄せて止め、降りた。自動車が行き過ぎるのを待とうとしたのだ。
だが、その運転は私の予想以上に乱暴だった。わたしが自転車を止めてその場にいるのを、まるで見ていないかのように、白い乗用車はスピードを落とさずカーブにつっこんできた。
エンジンの、ちっとも回転数が下がらない轟音。
ぶつかる!
わたしは恐怖に駆られてとっさに自転車をさらに路肩に引いた。
きゅっとタイヤが路面にこすれて鳴る音さえ聞こえた。風がぶわりと巻き起こる。
ガードレールが整備されていないのが災いした。通過する自動車に気を取られて、慌てて後ずさった結果、引き寄せた自転車の後輪が路肩から外れて大きくバランスを崩した。とっさに押さえようとしたが、踏ん張ろうとした右足から、返ってくるはずの地面の感触がなかった。身体が宙に放り出されるような感覚。
「きゃあああっ!」
思わず、悲鳴がのどをつく。視界がぐるりと回転した。事故に遭ったとき、スローモーションで空が見える、なんて本当にあるんだ、と頭の一部がのんきなことを考えた。
がしゃん、と音を立てて、自転車が自分の上に降ってきた。慌てて頭をかばう。鉄の塊が腕に当たる。がつん、と骨に響く衝撃のあと、鈍く強い痛みが広がった。次の瞬間、足が木の枝かなにかに引っ掛かり、こちらには鋭い痛みが走った。
「いったぁ……」
一瞬のうちに、すべてが終わった。
からからと音を立てて、自転車の後輪が空回りした。
車のエンジン音は何のためらいもなく遠ざかっていった。わたしがここにいたことも、落ちたことにも気が付かなかったのだろうか。
わたしはのろのろと自転車の下から這い出した。
腕。両方動く。骨や関節の痛みもなし。
斜面に手をついて、そっと足に体重を掛けてみた。
足首もひざも、ちゃんと動く。体重がかかっても、痛みがひどくなる場所はない。
どうやら、骨折も捻挫もせずに済んだらしい。
切り立った崖などではない、草むらや藪のある斜面だったため、大けがには至らずに済んだということだろう。擦りむいたり、ひっかいたりしたらしい皮膚表面の痛みはいたるところに感じるし、自転車をまともに受けてしまった左腕は、衝撃を受けた瞬間より今のほうがよほどずきずきするが、とにもかくにも、動けそうだった。
安堵のため息をついて、わたしはわずかに震える手で、身体についていた枯れ枝やちぎれた葉っぱを払い落した。間一髪命が助かったという感覚に、心臓は激しく打ち続けていた。
じじっとセミが鳴いて、羽音が聞こえた。さっきまではいなかったはずの、左側の灌木から、競い合うように二匹のセミがやかましくミンミンと鳴きはじめる。
ふとツクモの声を思い出した。
『しいて言えば、ネガティブのは、セミとか甲虫の一部のパターンにすこし似たものがあったかなあ』
感情が高ぶると昆虫が寄ってくる、わたしの特異体質。この前会ったときに言っていた。このセミ、もしかして、わたしが呼んだのか。
げんなりしながら、自転車をつかんで、斜面の上に押し上げた。どうにかこうにか、路肩に転がすことに成功する。肩で息をしているのに気が付いて、いったん目を閉じた。ゆっくりと呼吸を繰り返す。一気に緊張し、それがゆるんだせいで、濃いコーヒーを飲みすぎた時みたいに足元がそわそわした感じになって、気分が悪かった。
気持ちを落ち着ける方法があったはずだ。研究所で飯田さんとツクモに教えてもらったことが脳裏に浮かんだ。
七の段。逆唱。意味のないことで頭を一杯にしていったん心から感情を追い出すのだ。ポケットに入れていた散虫香のお守りを手に握りしめながら、ゆっくり二回、唱えてみた。幼いころからいつも身近にあった、さわやかな柑橘と薄荷の香りがたちのぼり、それ自体にはわたしにとって何の意味もない、ただの数字の羅列が意識を満たしていく。七の段を逆からなんて、一番非日常的な九九の唱え方だと思う。
あの時はばかばかしいと思っていたはずなのに、意外と効果があった。心臓の激しい鼓動が少しずつおさまって、地面に足がしっかりとついた感覚が戻ってくるのを感じて、わたしはゆっくりと目を開けた。
自転車のかごに入れていたはずのリュックサックが、足元の斜面に転がっているのに気が付いて、拾い上げた。帽子はどこに落ちてしまったのか、周囲を見回しても見つからない。お気に入りのキャスケットだったのに。だが、これ以上探し回る気にもなれなかった。
リュックサックを背負うと、ずきずきと痛む腕を庇いながら、なんとか斜面の上に這い上がった。さっき押し上げたままに転がっていた自転車を起こす。幸い自転車も、走らせられない程の損傷は受けていないようだった。だが、腕の打撲がずきずきと痛んでいる状態では、上り坂を漕いで登るのは難しい。
わたしは一つため息をついて、肩をまわした。ちゃんと動く。よし。帰って、擦り傷や切り傷の手当をしなくては。
蝉しぐれが、四方の山から降り注ぐ。真夏の空気はよどんで風一つなく、動くものはほとんどない。あっという間に去っていった車は、かすかなタイヤ痕以外、その存在の証拠を何も残していなかった。まるで、今わたしが見舞われた災難はわたしにだけ見えた幻みたいな気がした。ずきずきとあちこちに感じる痛みは、幻というにはあまりにリアルだったけれど。山の物の怪に化かされて、何もないところで転落した、こっけいな説話の登場人物になってしまったみたいな気分だ。
わたしは自転車を押しながら、一歩一歩、上り坂を歩き始めた。
◇
帰宅したときに、家に誰もいなかったのはラッキーだった。あちこち傷だらけで、細かい草の破片がついている姿はあまり親に見せたいものではない。特に、娘のドジを大いに面白がる陽気な両親に恵まれた場合には。
とりあえず、シャワーを浴びて、傷口にしみる汗とほこりを洗い流すことにした。
手早くシャンプーとトリートメントをすませると、ボディーソープを手に取った。よく泡立てると、腕の打撲にのせて、押さえないように慎重に手のひらを滑らせた。それでも、顔をしかめるくらいの鈍い痛みがあった。これは、なかなか派手なあざになるかもしれない。
足元をよく注意していなかった自分のせいだ。仕方がない。そう思っても、惨めな気分は拭えなかった。
全身に無数にある細かい傷口に、ボディーソープは、絶対しみるだろう。構わず、もう一度手のひらにたっぷり泡を立て、思い切りよく全身に塗り広げていく。案の定、あちこちがひりひりと痛んだ。思った以上に、切り傷が多いようだった。半袖にショートパンツで、肌がむき出しになっていたところが多かったせいだ。後ろざまに倒れ込んだためか、薄いTシャツの生地を貫いた小枝か何かにひっかかれて、背中にもいくらか傷があるようだった。
『ふみちゃんの格好は論外。腕も脚も出しすぎ』
脈絡もなく、初めて会ったときツクモに言われた一言を思い出した。その瞬間に、一気に現実感が戻ってきた。この傷だらけの腕や足は幻なんかじゃない。涙がこみあげてきた。
何してるんだろう、わたし。
金曜日には、由奈ちゃんと選んだ一目惚れのワンピースを着るのに。もうあと五日しかないのに、これじゃあ台無しだ。腕も足も、きっと当日までには完全にはなおるまい。かさぶただらけでアザのあるみっともない状態に違いない。
文句のつけようがないきちんとした女の子に見えなくちゃいけなかったのに。
ナナフシって言われたのが嘘みたいに、人並みに普通に、でいいから、二十歳らしい可愛げがちゃんとある女の子になって、隣に立ちたかったのに。
熱くも冷たくもないシャワーに混じって、頬を涙がすべり落ちていく。後から後からあふれてくる涙は、なかなか止まらなかった。














