05 わたしの家
結局、築井さんを連れて、わたしの家に行くことにした。父はまあたぶん家にいるだろうし、父の下着なら、この前セールで買った新品の買い置きがあったはずだ。さほど背が高くなくて、しっかりメタボ気味な父と、長身でがっしりしているけれど、胴のあたりは引き締まって身のこなしが軽そうな築井さんでは体型は違いすぎたけれど、ゴムウエストのハーフパンツか何かなら、着られるものもあるだろう。
とっさの判断だったとはいえ、この人を水浸しにしたのはわたしである。最後まで面倒を見なければなるまい。
わたしはコピー用紙を一パックかごに入れた自転車を押して、築井さんは重そうな登山リュックを背負って、だらだらと山道を登る。歩きながら、築井さんは次から次に、昆虫の名前を教えてくれた。
「見てふみちゃん! あそこのオレンジのチョウ。とまらないかなあ、とまればたぶんわかるんだけど。あ、ほら、アザミにとまった。ツマグロヒョウモンのメスだ」
「……はあ」
「あ、ほらそっち! カラスアゲハ!」
すかさず、カメラを構えて撮影に余念がない。柄を縮めてリュックサックの横に収納した網を取り出さないだけ、彼も最後の分別を手放してはいないようだったのが、せめてもの救いか。
また今日は、地元民のわたしにも、いつになく虫が多いようにみえた。いちいち築井さんが指差すせいで、普段気がつかなかったものにまで気がついている、というだけでは説明が付かないほどの数である。
「あ、そこ! 踏まないで! ハンミョウがいる。かわいいなあ。ほら、ちょっと止まって、また進むでしょ。ミチオシエって別名もあるんだよ」
「ちょっと、また写真撮るんですかー?」
「何を言うんだふみちゃん。昆虫は一期一会だよ!」
「って、あぶない! 築井さん車来てます!」
「あとちょっと、ちょっとだから」
地面にほぼ腹ばいになる勢いで、昆虫をアップで撮影しようとするものだから危なっかしくて仕方がない。カーブが多く見通しがきかない上に、普段この辺に徒歩の人間はほとんどいないので、たまに通り過ぎる車のドライバーの方も突然視界に入ってくる私たちに驚いているようだった。いつ、スピードを出しすぎた車にはねられてもおかしくない。
いつもの八倍時間を掛けて、いつもの十倍神経をすり減らし、結果としていつもの百倍ぐらい疲れ果てて、やっとのことで私は自宅の入り口まであと一カーブのところにたどり着いた。
げっそりしているわたしとは対照的に、築井さんはこの上ない上機嫌である。
「向こうのお寺の方もすごいと思ったけど、こっちの比じゃないよ。ふみちゃんに出会えてよかったなあ」
こんな残念な状況でなければ、築井さんくらい見目麗しい殿方に、『出会えてよかった』なんて言われたら舞い上がってしまうだろうか、とぼんやり考えた。生まれてこの方二十年、異性に言われたことなんか一度もない言葉である。
だが、彼が出会えてよかったと思っているのは、実際には、アオスジちゃんやツマグロちゃん、ハンミョウ君に無数の甲虫類である。取り違えてはいけない。というか、一切まったく、金輪際、取り違えようがない。
わたしは、無意識に自転車のハンドルから片手を離してポケットを探り、お守り袋を握りしめた。馴染みの、爽やかな薄荷や柑橘の香りが立ち上る。耳元でうるさく飛んでいた蚊の気配がすうっと遠のいた。
もっと早くこれに頼っていれば、もう少し早く、家にたどり着けたかな。
香りをかいで、そんな現実逃避のような考えが頭に浮かんだ。神社でお授けしている、虫除けのお守りなのだ。
数がたくさん作れないので積極的に宣伝はしていないが、蚊やムカデに刺される被害がへって霊験あらたかだと、近隣の農家さんや庭師さんをはじめ、外仕事を多くする人たちから口コミで好評を博している。まあ、ただのお守りだから、実際には、築井さんを夢中にさせている無数の昆虫たちを追い払うほどの効果は当然ないのだが。
「もう少しでつきます」
わたしは、見えてきた鳥居を指差した。七曜神社、と書かれた扁額が掲げられている。まっすぐ奥は社殿。鳥居をくぐらず、その横にある私道へ折れると、木立ちの中に、今の時期はのうぜんかずらが外壁に咲き乱れている、ごく普通の住宅がある。
「わたしの家。その神社の隣です。父が宮司をしているんです」
◇
帰ってみると、当てにしていた父は留守だった。仕事の予定を書き込んだホワイトボードには、近在の集落の字と、依頼主の名前が書いてある。新築の住宅の棟上げ式があると言っていたな、と思いだした。祝詞を上げたあと、祝いのおすそ分けとして建築中の家の上から餅や菓子などを撒いて地域の人たちにふるまうのがこの辺の風習なので、近所の子どもや主婦、お年寄りが来やすい午後から夕方に行われるのだ。
わたしは、父のタンスから、パッケージに入ったままの下着と、辛うじて使えそうなコットンツイルのハーフパンツを見つけ出し、築井さんをシャワーに送り込んだ。
あの濡れ鼠のままで家の中をうろうろされたらたまらない。
そうなったのは自分のせいでもあるという事実を都合よく棚上げして、わたしはエアコンのスイッチを入れ、冷蔵庫からほうじ茶を出すと、グラスに注いで一気飲みした。
「あー、生き返る……」
公園で、築井さんに渡してもらったレモネードを飲んだのが遠い昔のようだ。自分用のおかわりと、シャワーから出てきたときに築井さんに出す分、コップ二つについだお茶をトレイに乗せて持ち、居間に移動する。何気なく時計を見上げてわたしはうめいた。
「もう四時半とか、ウソでしょ」
あの、十歩進んで五枚写真を撮るみたいなペースで上がってきたのだから無理もないのだが。
「ドラマまでには、宿題絶対終わらないじゃん」
絶望だ。
目を閉じて、仰向けに床に寝っ転がった。冷たいフローリングが背中に心地いい。
どこを間違えたんだろう。
課題のことをすっかり忘れて、週末、高校の頃の仲良しとカラオケに行っちゃったこと? 家でやればいいやと思って、昨日、大学のメディアセンターでプリントアウトをしてこなかったこと? でも、メディアセンターのプリンタはいつも順番待ちですごく時間がかかるし、課題だってまだ半分くらいまでしかできてなかった。仕上げてからプリントまでしていたら、お囃子練習のミーティングに間に合わなかっただろう。秋祭りに向けてみんな練習しなくちゃいけないのに、宮司の娘が遅れるわけにはいかない。
変な昆虫オタクと係わり合いになっちゃったこと? でも、後ろから網をぶん回され、引っ掛けられたのも、目の前で倒れられてしまったのも、わたしのせいじゃない。
「もー、ぜーんぶ築井さんのせいだ」
わたしは声に出してぼやいた。やってらんない。
「何が誰のせいだって?」
思いがけず近いところで声が聞こえて、わたしは驚いて目を開けた。
「うわっ」
思わず息をのむ。上下逆さまに、こちらをのぞき込んでいる、日本人形のようなあの切れ長の瞳。瞳は間近で見ると、髪と違って真っ黒ではなく、濃い色だが、ほんの少し鳶色がかっている。一度は夏の空気にさらさらと乾きかかっていた髪は、シャワーで湿って、また黒々とした束になっている。
っていうか、近い!
いきなり、至近距離、30センチにこの顔を出されたら誰だって凍り付くだろう。きれいに整った顔立ちというのは、それだけで迫力というか、ある種の圧があるのだなあ、と妙なところで感心してしまった。
三十秒近く、ぽかんとしていたかもしれない。じれったそうに彼はもう一度尋ねた。
「何がオレのせいなの」
「……翻刻の、課題、まだ終わってない。このままじゃ夜中までかかる」
ようやくかき集めた言葉で答えると、彼は形のいい眉をひそめて体を起こした。
「なんだ、そんなこと。持ってきなよ、見てやるから」
わたしもあわてて起き上がった。次の瞬間、わたしは再度悲鳴を上げることになる。
「きゃああああっ! なっ、何でシャツ着てないんですかっ」
「え? 何か? 下はちゃんと着てるよ?」
「いやいやいや。上も着てくださいっ」
「だって、ふみちゃんのおかげで、グラウンドの土混じりの水でぐちゃぐちゃだったんだもん。お風呂場でゆすがせていただきました。だいじょーぶだって、これ速乾性だから小一時間もあれば乾くから」
手に持ったTシャツをひらひらと揺すって、ハンガー貸して、とにこにこする彼は、こちらの動揺など全く気にしていないようだった。
くそう。わたしばっかり大騒ぎしてばかみたいじゃないか。
わたしは極力目をそらして見ないようにしてしのぐしかないらしい。父のTシャツはMサイズ。絶対この人の肩幅じゃ着られない。
わたしは、ハンガーを彼の手に押しつけた。
「課題、持ってきますっ」