48 ツクモからの電話(後)
散虫香をさわって、目のかゆみやのどの痛みが出る。そんな話は、わたしは今まで聞いたことがなかった。父も何も言っていなかったと思う。
『聞いたら、ミユキさん、かなりひどい花粉症の持ち主なんだ。症状が出て、自分でもアレルギーだってすぐに分かったらしい』
「えー、花粉症って、スギ? スギの花粉なんて入れていないよ。お父さんが毎年あれの材料を採集するのは五月後半の梅雨のぎりぎり直前の時期だけで、そこから一年、乾燥させた生薬の形でストックしておいたものを調合するんだよ。そもそも、羽音木のあたりは、七曜神社のご神域だから、植林はしていないんだ。昔のままの広葉樹が中心で、スギやヒノキはほとんど生えていない。お守りを触っただけで飛ぶような花粉が入っているとは思えないけど」
『うん。もちろん、飯田さんもまず花粉の成分が含まれていないか、研究室で調べた。でも、入ってなかった。実はミユキさん、アレルギーを起こしやすい体質で、スギやヒノキ以外にも、血液検査でいくつかアレルゲンになりうる物質がわかっている。でも、飯田さんが確かめてみたら、どれもはずれだった。入ってないんだ』
「どういうこと?」
わたしは混乱した。ミユキさんはお守りが原因でアレルギー反応を起こしたらしい。なのに、お守りにはミユキさんのアレルギーの原因になる物質が入っていない、とツクモは言っている。
「どうして、入っていない物質のアレルギー反応が起きるの?」
『飯田さんの推測は、交差反応だ』
「交差反応?」
ええとね、とツクモは言いよどんだ。自分では当たり前に分かっていることを、わたしに説明しようとして言葉を選んでいるようだった。
『アレルギー反応は、本来は無害なはずの物質に対して、身体の免疫機能が過剰反応を起こして排除しようとした結果として起こるんだ。具体的には、くしゃみや鼻水が出たり、場合によっては目や鼻、のど粘膜が炎症を起こして腫れたり呼吸困難になったりする症状が現れる。ここまではわかる?』
「うん」
無害なものでも、身体が一度間違えて敵として認識した結果、その後に同じ物質が身体の中に入ってくると、やっつけようとする仕組みが働く、という説明はわたしも聞いたことがあった。
「ミユキさんの身体に備わっている免疫の仕組みは、何かの拍子に、無害な花粉やそのほかのいくつかの物質を、有害だと覚えてしまった。だから、こういうものが体内に入ると、ミユキさんはアレルギー反応を起こす。でも、ミユキさんの免疫機能は、この花粉に似た性質を持つほかの物質にも過敏に反応しやすくなっている。これが、交差反応だ。未知の病原体から身体を守るためには必要な機能だったんだ。でも、これが、免疫系の誤動作であるアレルギーでは問題を複雑にしてしまう」
「花粉と成分とかが似たものでも、アレルギー反応がでちゃうってこと?」
『その通り。何がこの交差反応を引き起こすのかも当然研究されているから、飯田さんは文献を当たって、ミユキさんにアレルギーを起こさせたかもしれない、犯人候補の怪しい物質をリストアップできる。でも、これもうまく行かなかった』
「どういうこと?」
『入っている植物が特定できなかったんだ。飯田さんが、匂い成分と、ミユキさんに交差反応を起こさせうる成分、両面から調べても、散虫香に含まれるいくつかの植物が特定できない。飯田さんのデータベースは国内の植物に関してはかなり充実しているんだ。未知の植物が含まれている可能性があるとオレは思っている』
「未知の?」
『これまでに注目されたことがないどころか、全くの新種である可能性もあるってこと』
「……まさか」
また大げさな。わたしは笑いかけたけれど、ツクモの声はいたって真剣なトーンのままだった。
『散虫香は大々的に宣伝はしてなくて、常連さん……って言っていいのかな、いつも決まった人か、その人に口コミで聞いた人が求めに来るんでしょ? なんか、そんな話だったよね』
「そうだよ」
誰にいくつお授けしたかも、その都度記録しているのでわかる。祖父以前の代から、散虫香は作成とお授けの記録を必ずとっておくように言い伝えられていたらしい。今、帳簿の最新のページには、あの後でわたしが書き込んだツクモの名前と、二つ、という記録が並んでいる。
『散虫香の材料は一子相伝。ご神域である羽音木山の奥の谷で採れる。神職以外は立ち入り禁止だから、奥の谷には科学的な調査が入ったことがない。こうした条件を考えあわせたとき、可能性だけで言うなら、まさか、では済まないんだ。これまで限られた人しか使ってこなかったせいで、その中にミユキさんみたいにアレルギー反応が出やすい人がたまたまいなかったために、問題が表面化しなかった可能性がある。詳しく調べたいから、アレルギー関係に詳しい、研究所の他の部門の人にも相談しようとしているところなんだけど』
チョウの次は植物か。
「でも、もし本当なら、それはまずいなあ。今後、他にも、ミユキさんみたいに知らずにさわって苦しむ人がいるとすると申し訳が立たない」
『うん。どう対応するか、ふみちゃんパパに相談してみる必要があるかもしれない』
わたしは、ため息をついて目をつぶった。これは手強い仕事だ。
「お父さんに説明するの、ツクモ、手伝ってくれる? わたし一人では荷が重い。知ったからには何か対応しないと、深刻な被害が出てからでは遅いけど、そもそも今の話をお父さんにうまく説明できる自信がない」
心細い声になってしまった。自慢ではないが、根っからの文系なのである。さらに言えば、父も生粋の文系で、理系科目はからっきしだと常日頃から豪語している。わたしの勉強だって、高校入試の受験勉強が本格化したあたりから、間違ったことを教えるといけないから、と言って見てくれなくなってしまったくらいなのだ。わからない人間とわからない人間が向かい合って話をしたところで、建設的な進み方をするとは到底思えない。
『もちろん。オレで力になれることなら喜んで』
ツクモはきっぱりと言ってくれて、ほっとした。つぎに羽音木に調査に来るときに、時間を作って話してくれるという。
わたしからも、いい報告があったのを思い出した。
「そう言えば、病院の院長先生の言ってた資料、見つかったんだって。原本は県の郷土資料館に寄贈したから、もう医院にはないらしいんだ。でも、先代の院長先生がすごくマメな人で、寄贈する前に古文書の中身を一ページずつ全部デジカメで撮影して、手元にその画像データを残しておいて、自分で少しずつ翻刻や研究を進めていたみたい。その、手元に残した画像と進めていた翻刻のデータをコピーしてもいいよって言ってくれたの。母がフラッシュメモリにもらってきてくれたから、今度病院にお礼に行かないと」
『すごい! 分量、結構ある?』
「うん。昔から医院をやってる家系だからね。ご先祖様の日記とか、そんなものらしいよ。今の病院に建て替えるときに、古い資料がたくさん出てきて、そのあと、ライフワークみたいに整理作業をしていたんだって。翻刻は全部までは到底できなくて、画像データしかない文書もかなりあるみたいだけど」
『楽しみだなあ。メールで全部送ると添付ファイルが大きすぎるだろうから、じゃあ、それはフラッシュメモリを預かる形で受けとるよ。次に会うのは、試写会の日かな』
「うん。わかった。それまでに、わたしも見せてもらっていい?」
『もちろん。面白いことがわかったら教えて。あーあ、本当は明日にでもふみちゃんに会いに行きたいんだけどなあ』
「ツクモが会いたいのはわたしじゃなくて、マツムシとタガメと古文書でしょ」
わたしが切り返すと、ツクモはくすくす笑った。
「そんなことないよ。ふみちゃんにも会いたい。ふみちゃん、面白いから」
どういう意味だ。仕事をしろ、仕事を。














