43 草地の調査(後)
「気になること?」
聞き返すと、軽くため息をついて、ツクモは水筒から一口、水をあおった。
「研究所が、土曜日、侵入と盗難の被害にあったんだ。日曜日の朝に発覚した」
「あんなに厳重にセキュリティで守られてたのに?」
わたしは驚いた。カードと生体認証、二重チェックだと言っていた。警備員だっているはずだ。いったいどうやって。
「カードを発行する担当のエンジニアが一人、無断欠勤していて連絡ができないそうだ。そいつのアカウントでスペアキーが作られていた。勤続五年くらいかな、今まで、一見ずっと真面目にやってくれてた人みたいだけど、時々こういうことはあるんだ。最初から、指示があれば寝返る約束で、敵対的な関係の企業とか団体が工作員をほかの会社に入社させる。その人は何年も普通に働いていて、ある日突然、指示にそって寝返る。そういう、時限爆弾みたいな企業スパイ。入社前にはもちろん身元調査をするけれど、そういう人を見つけ出すのは困難だ。作られたスペアキーが厄介だった。グレーなんだ」
グレー。ツクモの色だ。
「グレーの権限が大きいから、狙われたんだと思う。生体認証を突破された方法は、まだ調査中だ。飯田さんは、セキュリティ暗号だって、破られるためにあるんだ、と毒づいてたけど。スペアキーがあって生体認証をクリアしてしまえば、アラートは鳴らないから、警備員はその時には気がつかなかったということらしい。ただ、このカード発行は別組織の関連会社の方でやっていたから、研究所の内情までは知らなかったのか、物を取られたのはオレの研究室だけだったのが幸いだった。カードの権限だけで言えばどの部門にも入れる管理職級だから、とりあえずそこに重要な資料があると思ったんじゃないか。実際はただの下働きだから、資料はそれぞれの研究室にしかないんだ」
「何を取られたの?」
「昆虫麻酔薬の、今使っているヤツの予備と、先週飯田さんが試作してくれた、持続時間が長い三時間版のサンプル。あの部屋にある開発中の試作品っぽいものはそれだけだったからじゃないかと。そっちはまあ飯田さんにしてみれば片手間の趣味の品みたいなもんだし、作り方の自分用のメモは取ってあるから作り直せばいいって言ってくれて、まだいいんだけど、あとは、パソコンを触られた」
「え」
背筋がゾクリとした。犯人は何のデータを狙っていたんだろう。ものを取られるより不気味かもしれない。
「多分、新しくて大きいデータを無作為に狙っていたんだと思う。何のデータが外部に転送されたかまでは突き止めたんだけど、全体的にあわてていて、目的を絞り込めていない、場当たり的な犯行に見えると情報セキュリティ担当のエンジニアは言っていた」
「とられたデータは? 何だったの?」
「大物は飯田さんが社内メールで送ってきたふみちゃんのガスクロの分析結果と、神社の古文書の画像データ。ただ、ガスクロの方は、飯田さんはふみちゃんの名前どころか、何のデータかも書かずに、ネガティブ、ポジティブ、ニュートラルとだけラベリングして送ってきたんだ。だから、もしガスクロのデータが読める人が見たとしても、人の汗やなんかの成分が混ざってしまった、生物かなんかの匂い成分の分析だな、くらいまでしかわからないはずだし、古文書のほうは、ふみちゃんママの話も併せて考えれば、図書館で読める郷土資料や地元のお年寄りが話している内容と大きく変わらない、聞き伝えを書き留めた二次的な資料にすぎない。どっちも、社の製品開発や、その前段階としての基礎研究でさえない、いわばオレの趣味みたいな研究の資料だ。産業スパイの仕業なら大失敗もいいところだ」
「転送先は?」
「海外のサーバを複数クッションに使っていたらしくて、追いきれなかった」
「じゃあ、人を一人抱き込んだりして、長い時間をかけて、すごく準備が大変だったわりに、敵の得たものは少なかったのか」
「そこなんだ。なぜ今、疑われもせずに潜伏できていたスパイを起動させなければいけなかったのか。そうするだけの必然的な理由やきっかけがあったのか。実は今朝、オレ宛てにメールが来た。発信元は追えなかったけど、こう書いてあった。『羽音木山と宮森家から手を引け』」
「何それ……」
わたしは再度寒気を覚えた。ここは普通の山里で、目立ったものは何もない。手を引けとか、そういう脅しめいた文句の似合う場所ではないのに、どうしてそんな謎のメールが届くのか。
「失敗した産業スパイの腹いせ、いやがらせだとも解釈できる。ちょっとした脅しめいた文句のこうした手紙やメールは、正直しょっちゅう来ていて、それ自体が何か現実的な出来事に結びつくことはまれなんだ。でも、オレが羽音木山や七曜神社に関わって調査を始めたのは、本当に最近のことだよね。特別秘密にしていたわけでもないけど、わざわざ人に言って回ったりもしてないから、知っている人もそんなに多くないはずなんだ。だから、わざわざ羽音木を名指ししてきたのが、オレとしては少し腑に落ちなくて」
「神社の文書には、ここの名前が当然出てくるよ」
ツクモが設定していたファイル名にも、羽音木山七曜神社文書、という文言が入っていた。
「うん。そうなんだけど、あれって、それを脅しの文言に使いたくなるほど、わざわざ気にするような文書なのかなって。中身に関して言えば崩し字だから、よく見たら読めるかも、くらいで、ぱっと読める人の方が少ない。明らかに古いわけだから、化学産業の会社を狙った産業スパイはそもそも相手にしない資料だと思う。そんな脅し文句を送ってくる目的は何だろう、という方の疑問があるんだ。そんなことをする理由が思いつかない。だから、会社のセキュリティ担当の人は、盗ったデータを見たうえでの、ただの腹いせのいやがらせ、撹乱だろうって言ってる」
「うーん。そうなのかな」
そうならいいんだけど。
「でもオレは、ちょっとだけ気になる。念のためだけど、ふみちゃん、できるだけ一人で行動はしないで。帰りが夜になったら、駅からは自転車じゃなくて、できるだけお父さんかお母さんに迎えに来てもらったりとか。バイト関係は、オレがちゃんと送り迎えする」
「夏休みだから、そんなに大学に行ったりはしないし、しばらくは何とかなると思うけど」
「オレのほうでも、ちゃんと調べるから。しばらく何事も動きがなければ、ただのいたずらだと判断してもいいと思う」
「わかった」
わたしはうなずいた。ツクモも、脅し文句自体はよくあるものだと言っていたし、気にしすぎるのもよくないだろう。でも、首筋の後ろがチリチリとするような嫌な感じは、なかなか消えなかった。














