42 草地の調査(中)
「成虫は飛ぶよ。ほら、あれ」
ツクモは指差した。ウマノスズクサとクズが生い茂った草むらの上を、ゆったりと大型の黒い蝶が飛んでいる。下側の羽からツバメのしっぽのような長い部分が垂れ下がって、その付近に赤い斑点がわずかに散っている、いかにもアゲハチョウ、という形のチョウだった。上側の羽は黒っぽいけれど、グレーの筋状の模様が入っている。
盛夏の日差しの中で見ているせいか、絽の着物を着こなした粋な姐さんを連想した。絽は織り地に透け感があって、織り模様のラインや下の襦袢の色が見える、真夏だけに着る着物の生地だ。絽が似合う時期に着物を着るのは、普段から着慣れて板についている上級者だけ、というのが母の口癖だった。しかも、黒だけど、赤い模様が散っているから礼服ではない。うん、渋くてちょっとあだっぽい、大人の女だ。……オスかもしれないけど。
「あんなかっこいいのになるんだ」
思わず感心してしまった。
「ふみちゃん、網とって。チョウのほう」
わたしは、開けた芝の上に置いていた、チョウ用だという捕虫網を取りに戻った。森で使っていたものや、さっきのバッタ用より柄が長く、先端の網も大きい。コミュニティスペースの公園でツクモが振り回した挙句、わたしの頭に被せた因縁の品である。
ツクモはわたしから網を受け取ると、慣れた手つきでさっと振るった。一振りで大きなアゲハチョウを竿先の網袋に取り込み、逃げられないように地面に伏せる。
わたしもだいぶ手順がわかってきて、指示される前にバタフライネットを取りに行った。戻ってくると、ツクモは網の中からアゲハチョウをつまみ出しているところだった。羽をばたつかせて暴れないように、付け根のあたりを揃えて指に挟み、押さえている。
すぐに入れられるように、まだ空だったバタフライネットを開けて待っていたら、案に相違して、ツクモはチョウをわたしの顔の前に持ってきた。
「ひゃっ」
思わず、変な悲鳴をあげてしまった。
間近で見ると、チョウもやっぱり昆虫である。あの仮面のような独特の無表情な顔が怖くてとっさに目をつぶると、ツクモの声が聞こえた。
「見なくていいから、匂いをかいでごらん」
匂い?
言われて、鼻から息を吸い込んでみた。花の匂いとも違う、ふわふわとしたどこか甘い、粉っぽいような香りが鼻孔をくすぐる。
「なんか甘ったるい感じの匂い」
「そうそう、それ」
ツクモが動いたのだろう、目の前の明るさが少し動いて、手から、持っていたバタフライネットが取られる感触があった。
「チョウはもう入れたよ、大丈夫」
言われてわたしは目を開けた。
思わず息をのんだ。
「ツクモ近い」
心配そうにのぞきこむツクモの顔がなかなかのアップの状態で目の前にあったのだ。
「気分悪くなってない? ごめん。ふみちゃん、チョウは平気かと思って近づけすぎちゃった」
いや、チョウもだけどツクモも。
「何事にも程度というものはある。急に顔の前にきたからびっくりしちゃった」
わたしは、できるだけさりげなく言うと後ずさり、網と一緒においていた荷物のところに戻って水を飲んだ。あんな風に顔を近づけて、目をのぞき込まれると心臓に悪い。
「匂いの話をしたかったんだ」
ツクモは完全にチョウの話だと思っている。まあいいや、と訂正するのはやめた。
「匂い? あの甘い匂いって、このチョウの匂いなの?」
ツクモもわたしの隣に来ると、自立するように骨組みをセットしたバタフライネットを下に置いて、水筒を手に取った。
「そう。ジャコウアゲハの名前の由来になった匂いなんだ。麝香って、聞いたことあるだろ。英語だとムスク。古くから珍重されてきた天然の香料だ。その香を使っているかと思うくらい強い香りがする、ということで、ジャコウアゲハという名前がついた。さっきの幼虫は、ふみちゃんが臭いって言っていたあの草を食べて大きくなる。あの草には、有毒な成分が含まれていて、幼虫はそれを体内にだんだんため込んでいくんだ。だから、あのチョウは、成虫でも幼虫でも、捕食者が食べようとしないでよけてとおる。わざわざ、このチョウの成虫や幼虫に姿を似せる、ちゃっかりした他の種があるくらいなんだよ。それが成体になると、オスだけがあの独特の甘い匂いを発するようになる」
「それも、敵に食べられないため?」
ツクモは首を横に振った。
「オスだけだからね。捕食者みたいな他の種ではなくて、同種の他個体に対してコミュニケートするための物質だと考えられている。つまり、この前説明した、昆虫のフェロモンだ。この場合は繁殖行動に関わっていると考えられている。メスにアピールするためだ。オレや飯田さんがこの前話題にしてたのは、こういう物質のこと。このチョウの匂いは強くてわかりやすいから、説明になるかな、と思って。でも、実際には人間にはかぎ取れないくらい薄い濃度で作用する昆虫フェロモンもあるんだ」
「そういえば、わたしからとったサンプル、結局、結果はどうなってたの?」
どの昆虫に作用するか、文献を当たってみないとわからない、と言っていたのを思い出した。
「正直言うと、よくわからない。ぴったりこれだ、というものは見つからなかった。でも、いくつかの昆虫で知られているフェロモン物質と近いものがあった。いろんな昆虫が寄ってきていたことから考えても、特定の種が問題になっているわけではないんじゃないかと思う。もっとも、この前言っていたように、昆虫のフェロモン研究はまだわからないことだらけで、わからないことでわからないことを解釈しようとしているような状態だから、五里霧中もいいところなんだ。でも、何かはある。そんな段階。しいて言えば、ネガティブのはセミとか、甲虫の一部のパターンにすこし似たものがあったかなあ。ポジティブのは、ちょっとトンボっぽかった。ガとチョウの一部に似た物質は両方で多かったように見えた。でも、この辺はもう、オレの印象にすぎないから」
「なんか、変な感じ。自分のことなのに、自分のことじゃないみたい。今だって、別に、お守りをジップ袋に入れたからってすぐにチョウやバッタにたかられるわけじゃないと思うよ。時々は忘れて家を出ることだってあるもん」
「うん。やっぱり、感情状態はすごく影響が大きいんじゃないかと思う。それに、ふみちゃんがその化学物質を発したとしても、たまたまふみちゃんの近くにその影響を受ける昆虫がいなければ何も起こらないわけだしね。だから例えば、窓を閉め切った大学の講義室でふみちゃんが激怒したって、何も起こらないと思う」
「そんな状況、想像できないけど」
わたしが笑うと、ツクモも一緒になって少し笑った。
「ここはやっぱり、他の地域と比べて少し昆虫の数が多いし、活性も高いような気がする。だから、この羽音木集落にいるときに影響が目立つんじゃないかな」
「そうかー」
「飯田さんにも言われたんだけど、この話はまだ他の人には言わないほうがいいんじゃないかって思うんだ。少なくとも、散虫香をちゃんと持っている状態なら、ふみちゃんはここ羽音木集落でも問題なく日常生活を送れてきただろ。でも、こんな何もかもわからない状態で、何かがあるかもしれない、っていうだけで、情報が先歩きしちゃうと、ふみちゃんが思わぬトラブルに巻き込まれる可能性がある。昆虫というより、人間がらみのね。好奇心であれこれしつこく詮索されたり、なにか、よくないことがあった時にふみちゃんのせいにされたりしても困るだろ」
「ツクモは? 好奇心で詮索したいんじゃないの?」
ツクモは苦笑した。
「気にはなるけど、ふみちゃんが迷惑に思ったり、嫌だと思ったりすることはしたくない」
「あれは大分衝撃だったけど。実験」
「うー、それは悪かった。ごめん」
まあ、あまり意地悪するのはやめてあげよう。
「うん。ツクモが言いたいことはわかるよ。びっくり人間みたいに扱われて、衆人環視の前であれこれやらされたり、うちの庭木にカミキリムシがついて枯れちゃったのはお前のせいだ、みたいな難癖をつけられるようなことになると嫌だなあ。そういうことだよね」
「うん、そう。神職者は、歴史の中でもいろいろ、集団の怒りを向けられて苦労する立場に立たされたこともあるしね」
この前読んだ古文書を思い出してしまった。
「いくら私が神職の娘だからって、今はもう、そんな時代じゃないと思うけど」
「うん」
ツクモはうなずいた。
「でも、ちょっと気になることがあって」














