41 草地の調査(前)
次の調査は五日後だった。
昆虫の調査は、季節が変わってしまわないうちに、できればあまり日を空けずに行いたい、とツクモは言っていた。わたしに言わせれば、夏休みはまだ始まったばかりだと思うのだが、自然観察という観点では、十日も間があけば、いろいろ変化してしまうところもあるのだとツクモは言う。だが、やはりそこはツクモも勤め人としてままならぬところもあるらしい。研究所の都合で、飛び石にしか日程が取れないようだった。確保できた日程は、昆虫が最優先。古文書の調査は空き時間にわたしがデータの取り込みを進める程度で、後回しだ。
今日の調査は、草地、田畑。まずは許可取りの心配がないところ、ということで、神社の田んぼと茶畑、草刈り場を予備調査の場所に選んだ。
神社では、裏山の手入れを兼ねて下草を刈って田畑に鋤き入れるけれど、それだけだと作業が大変なのに加えて、森のすぐそばに田畑を作ると、管理が何かと難しい。日当たりが悪くなったり、落ち葉や花殻が作物の上にたまって収穫が難しくなったり、鳥獣害が出やすくなったりする。それで、森と田畑の間に、ワンクッションとしての草刈り場を設けているのだ。
高齢化が進んで氏子会でも人手が足りなくなった近年では、年に一度くらい大型の機械をお願いして、伸びすぎたススキや灌木をばっさり刈って、鋤き込めるように細かく破砕してもらう。
大きな木がなく明るい草地は、森とはまた生物相が違うらしい。ツクモははりきって、この前とは違う網やかごを用意してきていた。撮影セットはこの前と同じだ。影のない白い背景で昆虫の写真を撮ることができる、ボウルやアクリル板と、研究所特製の昆虫麻酔薬。聞いたら、飯田さんが他の仕事の合間に開発したんだそうだ。ツクモ以外にはあまり使う人もいなさそうなので、外部に発表したりはしていない。発表するとなると、論文にまとめたりしなければいけないので労力がかかるという事情もあるらしい。
「見てふみちゃん、キリギリス!」
緑色の大きいバッタを掲げて、ツクモははしゃいだ声を上げた。なんだあの大きさ。羽を広げたら、ツクモの手の大きさくらい軽くありそうだ。
「やめてー! バッタ系もそんなに得意じゃないっ! ジャンプして、なんなら羽で軽く宙も飛んで、大きい音出して鳴くとか怖い行動の三重苦でしょ」
「やだなあ、鳴かないよ。ほら、注射針みたいなのがお尻から伸びてるだろ、これが産卵管。キリギリスのメスは鳴かないよ?」
「当然のことを確認する口調で語尾を上げないでっ! ツクモの常識は世間の非常識! わたしは苦手なの!」
「なんだよこんなに綺麗な緑色なのに。ねえ、キリちゃん」
「バッタに愛称をつけるな話しかけるなっ」
「待って、そこ、フキバッタがいるっ!」
わたしの言葉を遮るように、ツクモはわたしのすぐ脇のクズの葉の茂みを指差す。クズは、手のひらくらいの大きな丸い葉っぱをもち、藤の花を小さくしたみたいな紫色の甘い香りの花を付ける雑草で、和歌にも詠まれているような日本古来の植物だ。でも、とにかく繁殖力が旺盛なので、畑の周りでは嫌われ者でもある。
「ふみちゃん動かないで。キリちゃん持ってて」
「だから無理だって。バッタは持てない」
そもそもその指示は両立しない。
「もうー。キリちゃんはちょっと噛むときがあるくらいで、何にもしないのに。そのかご開けて、入れるから」
噛むんかい。うかつに持たなくてよかった。
私はツクモに言われて持っていた、プラスチックの飼育ケースを開けて差し出した。ツクモはキリギリスをその中に入れて素早くふたを閉めると、持っていた柄の短い捕虫網でさっき指さしたクズの葉の上をさっと撫でるようにした。
間に合ったらしい。網の中で、何か小さいものがぴょこぴょこと跳ねているのが、わたしにも見えた。
ナイロンの白っぽい織物の奥に追い込んだバッタを、網の上部を握って逃げないようにしてツクモはまじまじと観察した。
「見たことない色だなあ。フキバッタは羽が小さくて移動力が低いから、この地域で独自に分化した変種の可能性もある。バッタが得意な先生に見てもらわないと。そっちの小さいケースに入れるから、ふみちゃん、逃がさないようにして後でこの葉っぱも入れてあげて」
先日の沈んだ様子はすっかり影を潜め、今日のツクモは水を得た魚のように昆虫を追い回していた。その様子にわたしは内心少し安堵した。
やっぱり、ツクモにこのテンションがないと、こっちも調子が狂う。テンションが戻った分、バイトのきつさが増すのは残念なところではあるけれど。
あいかわらずの三Kバイトである。暑さでくらくらするくらいきついし、キリギリスにかまれるなんて危険があるとは。三つ目のKはもちろん、昆虫。バッタの虫かごを開けて、葉っぱを入れておけとか正気か。昆虫は捕まえたり触ったりしなくていいと最初に言っていたのに、約束違反すれすれだ。
もっとも、もうその約束は何度破られているか、そもそもそんな約束をツクモが覚えているかどうかすらわからないけれど。
「あ、ウマノスズクサが生えてる」
ツクモは、フキバッタを入れたケースをわたしに押し付けると、今度は、草地の斜面に生えている細長いハート型の葉っぱのつる草を指差した。よく見かける雑草だ。
「あー、それ臭いヤツでしょ。小学生の頃、友達と投げ合いしたなあ」
鬼ごっこの変種だ。臭い葉っぱが当たった人は臭い〈オニ〉で逃げる役。葉っぱを投げ返して〈臭い〉をほかの子に移さないと、逃げる仲間に戻れない。今の小学生だと、〈ばい菌移し〉のいじめの元になるからと、先生に禁止されてしまうかもしれない遊びである。わたしの遊び仲間では、一人ねらい禁止、タッチ返し禁止とか、足の遅い子や年下の子が〈オニ〉で遊びが膠着するとつまらなくなるので、そうなったら足自慢の子があえて〈臭い〉を受け取りに行って仕切り直す、という細かい不文律や暗黙の了解があった。セミ事件のれおくんなどは足が速くなかったので、しょっちゅうガキ大将のお兄ちゃんたちが『れお、オレに〈臭い〉よこせよこせ!』などと仕切り直していたのを覚えている。
ツクモはそんな遊びはしなかったようである。投げ合いという言葉にはいっさい反応せず、しゃがみこんで葉っぱを裏返したりかき分けたりし始めた。わたしがフキバッタのケースに恐る恐るクズの葉を押し込んで、急いで蓋を閉めていると、うきうきした声で呼ばれた。
「いたいた。ほら、ふみちゃん」
ハート形の葉っぱをひねって、わたしのほうに向けると、上にのっている汚れのようなものを指さす。
「げっ。なにそれ。鳥のフンじゃん」
「違うって」
ツクモはくすくす笑った。いや、どう見ても鳥のフン。白と黒のまだらの、ちょっと細長い塊だ。と思っていたら、そのフンがふっと頭を持ち上げた。
「うわっ動いた!」
「ジャコウアゲハの幼虫だよ。かわいいでしょ」
「ええー」
言いながらも、つい好奇心でのぞき込んでしまった。ちょっと怖いので、ツクモの肩越しにだけど。
頭を振り上げた格好は、小さいながらも辺りを威嚇しようとしているようだ。
「うん、確かにちょっとかわいいかも。健気感がある」
ついそんな感想が口をついて出た。わたしもだいぶ、ツクモに毒されてきてしまったようだ。
「ふみちゃん、いもむしは平気?」
ツクモが嬉しそうに聞いてくる。くそう。調子に乗るな。
「さわりたくはない。でも、ジャンプしないし飛ばないし鳴かないでしょ」
「成虫は飛ぶよ」
ツクモは顔を上げてあたりを見回し、ほらそこ、と草むらの上の宙を指差した。














