04 命の恩人
「いやあ、すっかりお世話になってしまって。オレ、倒れちゃったんだねえ」
築井文史朗、と名乗った青年は、ブランコに座っているわたしに、買い直してくれたレモネードを渡しながら言った。
「ありがとうございます。……何ともなさそうでよかったです」
わたしは、あらためて新品のキャップを開け、甘酸っぱい液体を一口飲んだ。
結局、ダメにしてしまった飲み物をお詫びに買い直したい、という彼の押しに負けて、こうしておしゃべりにつきあうことになってしまった。
熱中症だったんだろうけど、こんなに普通に復活するものなんだろうか。あまり身近で見たことがないからわからない。
彼は自分用に買ったスポーツドリンクを一気に半分ほど飲み干して、ちょっと顔をしかめた。
「ぬるいなあ」
「たぶん、お昼ごろに補充したばかりなんです。あの自販機では一番売れるんじゃないかな」
午前中、シニアのグラウンドゴルフクラブがあったとなれば、『夏の運動時の水分補給にはスポーツドリンクを!』と謳う、集落に一つしかない医院の待合室にあるポスターに、お年寄りたちが真面目に従ったことは想像に難くない。
スポーツドリンクはこの自動販売機の限られた販売枠で三枠を占め、お茶類と並ぶスペースを確保しているが、夏場になるといつ買ってもぬるい。スポーツでここを利用した人たちや、山道を下ってコンビニやスーパーまで行くのがおっくうな近所のお年寄りたちが買いに来て、冷える間もなく売れてしまうのだ。通りの先のタバコ屋のおばさんが管理しているはずだが、さぞ補充が大変に違いない。もっとも、その分実入りはいいはずだ。
「へえ、さすが地元の子、詳しいね」
返事をしながら、スポーツドリンクをリュックサックの横に置くと、彼は当たり前のようにシャツのボタンを外し始めた。
「なっ、何してるんですかっ」
わたしは焦って顔を背けた。何でこんなところで急に服を脱ぐわけ?!
「もう、これ、完全にびちゃびちゃ。肩をあげるのも一苦労なんだよね」
彼はわたしの様子も意に介さず、飄々と言う。
横目でちらっと眺めると、長袖シャツの下に、普通のTシャツも着込んでいたようだった。
安心してちょっと肩の力を抜いたわたしをよそに、彼は脱いだ長袖シャツをぎゅっと絞った。ぼたぼたっと音を立てて水が落ちるのを見て、わっすごい量、などとはしゃいだ声で呟いている。Tシャツはとりあえずそのまま着ておくつもりらしい。よかった。
リュックサックからゴミ袋のようなものを取り出して、濡れたシャツやタオルをまとめた築井さんは、改めてわたしに向き直った。よく動く、色の濃い瞳が、わたしにすっと向けられた。
「お嬢さんはオレの命の恩人だ。名前を教えてくれる?」
後から思えば、初対面のこんな怪しい人に、教える名前などない。と構えるのがいつものパターンだったはずなのに、このときはなぜかつり込まれるように答えてしまった。完全に、彼のペースに飲まれていたからだろうか。
「宮森郁子です。有り無しの有りに、おおざとがついて、郁の字です」
「ふみこさんね。よし! 今日から君はふみちゃんだ。どうぞよろしく」
えええ? よろしく? 今日からって、からって何?
しかもふみちゃん? いきなり? よしって、ちっとも、よくない!
ツッコミどころが多すぎて、頭の中が大渋滞だ。
それを、特に否定されなかったと受け取ったらしい築井さんは、にこっと笑ってわたしに右手を差し伸べた。
「オレのことは、モンシロと呼んでください」
「呼びにくいです。一文字しか省略されてないし」
モンシロウ。ちょっと変わった名前だと思う。文学の文で文史朗なら、素直に読めばブンシロウさんじゃないだろうか。わたしの名前もしょっちゅうイクコと読まれるので、おあいこだけど。っていうか、モンシロチョウみたい。
「じゃあ、モンちゃんで」
「よけい呼びにくいわっ」
思わずツッコんでしまった。きょとんとした彼に、軽くため息をつきながら補足説明する。
「初対面の異性を、いきなり愛称呼びはしないと思います」
「えー、オレはそんなの全然気にしないのに。ふみちゃんは気にするの?」
握手を求めるように差し出された手は、ひっこめられる気配がない。気にしていないのはよくわかった。
「じゃあ、譲歩する。ちゃんづけが嫌なら、モンさんでいい。ついでに、敬語はなしがいいなあ」
どこが譲歩だ。なんのついでだ。
「はじめまして、築井さん。お目にかかれて光栄です」
わたしは思いっきり無視して、握手の手をとった。
「こちらこそ、ふみちゃん」
一点の曇りもない笑顔で返された。どうしよう。どこからどう切り取っても変な人だ。
ただ、きれいに整った顔だちを思いきりくしゃっとさせたその笑顔だけは破壊的にかわいい。これまた、どうしよう、だ。
わたしはどぎまぎしてあわてて手を離した。
「それで、築井さんはここで何をしていたんですか?」
「見ての通り、昆虫採集。ここ、すごいねえ。チョウの影が濃い。こんなにいっぺんに色々見られるなんて、テンション上がる」
わかりやすく興奮した様子になる。
「先週、何代前かわかんないご先祖の十三年ごとの法事で、墓参りに来たんだよね。そっちの山のほう」
彼は、わたしの自宅がある方向とは少し違う、お寺の参道のほうを指さした。住職は、わたしが小学校に通っていたころの校長先生だ。今はもう先生としては引退して、住職一筋になっている。
「そしたら、あれこれ色々、目にしたもんだから。トンボ、甲虫類、チョウもびっくりするくらいいるでしょ。採集・撮影セットを持ってこなかったのをあんなに後悔した日はなかったってくらい。いや、本当は持ってくるつもりだったんだよ? でも、おふくろに泣かれてさあ。親戚一同の前でくらい、法事の日くらい、虫のことは忘れてくれって。お寺の境内で虫を取って、ご先祖様がお盆に帰ってきて虫に宿っているところだったらどうするんだって。別に殺すつもりじゃないんだから、いいと思うんだけどね」
それで、矢も楯もたまらず、お盆が明けるのを待ちつつ、装備を整えて、今日再訪したのだという。彼の家の法事は、七月のお盆に合わせて営まれていたのだ。
法事の日にも、ご母堂に言われなければ網を持ってくるつもりだったのか。ふと、礼服を着たまま、網を振り回している築井さんを想像して、笑ってしまった。
「なに? オレなんかおかしいこと言った?」
「ええ、かなり」
さぞや御母堂もお困りのことだろう。だが仕方ない。この人をこんな風にのびのび育てたのはたぶんその御母堂なのだから。
「時間を作るのにちょっと無理して、睡眠時間を削っちゃったのがよくなかったのかなあ。ふみちゃんがここにいてくれなかったら、オレ、死んでたかも」
「そうですよ。熱中症を甘く見たらだめですよ? 装備を整えたんなら、なんで長袖にそのデニムなんですか。熱中症まっしぐらじゃないですか」
わたしが聞くと、逆に、憐れむような目で見られた。
「昆虫採集は、肌の露出を最低限に抑えるのが鉄則だよ? 木の枝でひっかき傷をつくったり、ヒルやムカデや、思わぬ昆虫に刺されたりすることもあるからね。ふみちゃんの格好は論外。腕も脚も出しすぎ」
わたしは、自分のひざ丈のショートパンツにコンフォートサンダルをひっかけた足元を眺めた。この服装で露出が高いと怒られたのは初めてだ。自分ではすんなりスリムだと思っているけど、気の置けない女子友達からはひょろっとやせていると評される体型もコミで、色気がないとあきれられたことなら山ほどあるけど。
「わたしは昆虫採集じゃないですから」
「ふみちゃんは何してたの?」
十年来の友達が休日の過ごし方を聞いてくるくらい、さらっと聞くな、この人。
「宿題に必要な紙が足りなくて、そこの文具店まで買いに」
「文具店はあるんだ。コンビニは?」
「車で十分ですかね。遠くはないですよ」
「じゅうぶん遠いよ。じゃあまさか、洋服売っている店なんてないよねえ」
田舎なめんな。洋服屋くらいあるわ。スーパーの二階だけど。
「コンビニのそばにありますよ。車で十五分」
わたしの答えに、築井さんは困ったように眉尻を下げた。
「何で車基準なんだよ。その車に乗れないんだってば。っていうか、車でさらにもう五分走る距離、そばって言う?」
「車、乗れないんですか?」
面食らって、聞き返してしまった。ここから一番近いふもとの鉄道駅だって、歩けば四十分はかかる。小学生はスクールバス、中高生や、車通学ができない大学生――わたしのことだ――は自転車。普通の大人は、車で移動するのが当たり前の地域である。
「じゃあ、何で来たんですか」
「車。そこの駐車場に止めてる」
彼は元校舎の裏手のほうを指差した。学校として使われていたときには、先生方の駐車場だったところだ。
「え? なら、乗れるじゃないですか」
「これでどうやって?」
両手を広げて聞き返された。わたしは改めて彼を見た。怪我もないし、さっきの具合悪さをもうみじんも感じさせない、しっかりした姿勢や話し方だ。倒れたのが嘘のようで、車を運転するにはおそらく何の支障もないだろう。
何が問題なわけ?
「どういうこと?」
「いい? ふみちゃんはオレの命の恩人だ。だからこれは、断じてふみちゃんに文句を言うつもりじゃないんだけど、でもそのおかげでパンツまで完全にびしょびしょなの。この状態で社用車に乗ったら、さすがに総務のおねーさんに怒られる」
見る? と、デニムのウエストをめくろうとする。
「きゃああああっ! やめてくださいっ」
やっとまともに悲鳴がでた。顔から火が出そうだ。
築井さんはそんなわたしを見て、お腹を抱えて大爆笑した。