39 不仲のきっかけ
「なんか、ごめんね。巻き込んで」
ツクモは、ハンドルに手を置いて、ぽつりと言った。
夕方、わたしを送ってくれると言って、自動車を走らせてしばらくたった後だった。大学からの帰り道とほとんど一緒だし、JRの駅まで送ってくれれば後は定期で帰れるからいいと言ったのだが、ツクモが聞かなかったのだ。
こんなにテンションの低いツクモは初めてだった。
結局、飯田さんの言う通り、ツクモはわたしを梅嶋屋に連れて行って、店員の、飯田さんの奥さん――ミユキさんという――に勧められるがままに、シンプルでかわいいベージュのハイヒールと、お揃いの革の小さなバッグを買ってくれた。わたしはバイト代から天引きして、とお願いしたけれど、まあまあ、といなされてしまったので、これは買ってもらったことになってしまうのだろう。飯田さんは迷惑料だなんて言っていたけど、自分で言い出したことにそんな風にしてもらう筋合いはないので、居心地が悪かった。
ミユキさんはドレス選びのコツもいくつか教えてくれて、ツクモは服も買おうかと言ってくれたけれど、さすがに固辞した。梅嶋屋にはファストファッションのテナントが入っていなかったし、時間もなかったので、服は後日ミユキさんのアドバイスをもとに由奈ちゃんに相談して自分で選ぼうと決めていた。
「本当に、いつやめてもいいんだ。ふみちゃんがやっぱりやめたい、って思ったら、いつでもすぐに言って。来てもらうからにはオレがちゃんとついてるし、ああいう集まりも楽しいと思っている人はたくさんいるから、ふみちゃんが楽しめるポイントもあるかもしれない。さっきも言った通りふみちゃんは何の心配もする必要がないくらいきちんとしたお嬢さんだから、そういう意味では全く問題ない。でも、ふみちゃんが来なくたって、何とかするし、今までもしてきたんだから、オレのことは心配しなくて大丈夫。飯田さんが強引に話をまとめすぎて、あの場では言いづらかったかもしれないと思ってるんだけど」
「そっちこそ、やっぱり迷惑だったら言ってよ。わたしはツクモがあんな風に人をコケにした言い方をする人の思うつぼになっているのが嫌なだけ。それでツクモが困らないし、多少なりとも何かの足しにはなるって思ってくれるんだったら、わたしは行くよ。飯田さんは関係ない。わたしの意志で言ってるの」
「ありがとう。……飯田さん、変わってるだろ」
ツクモが言うか。その言葉はそっくり自分に返ってくるとわかってるんだろうか。
「いい人なんだけど、ときどきヤンキーモードに入っちゃうんだよね。負けてんじゃねえぞ、かましてこい、みたいな、やたら漠然としたことをすごいテンションで言うときがあるんだ。高二くらいまでバリバリ反抗しまくって、違法行為は一個もしなかったらしいけど校則違反とケンカは日常茶飯事だったんだって。だからなのか、時々妙に勝ちにこだわることがあって」
コードと校則は破るためにある、か。なかなかインパクトのある発言だった、と思い返して口元が緩んでしまった。
接客中にいろいろ気安く話してくれたミユキさんは、明るくて気っ風も手際もよくて、センスも最高に信頼できて、飯田さんが自慢するのもわかる有能な店員さんだった。今はいかにも清楚で上品な、デパートの制服がよく似合う黒髪の女性だけど、飯田さんと出会った時はつけまつげバチバチ、明るい金髪を巻き毛にしたバリバリのギャルだったんだそうだ。ミユキさんがギャル系アパレルショップの店員をしていた頃に、たまたま知り合った当時まだ大学院生で駆け出しの研究者だった飯田さんに惚れ込んで、ミユキさんのほうから一途なアプローチをして一緒になったらしい。産後仕事に復帰するときに、もと勤めていたギャルショップだと保育園のお迎えが大変なので、梅嶋屋に転職したのだと言っていた。元ヤンキーで、超がつく高偏差値の大学から大学院へと進んでそのまま研究者をしている人と、元ギャルのカリスマデパート店員さん、色々意外すぎる組み合わせだけれど、すごく仲が良さそうなご夫婦だった。
「ツクモのこと心配してた。優しい先輩なんだね」
「うん」
と言ったものの、やはりツクモは元気がない。
夏の遅い日ももう暮れて、あたりは次第に薄暗くなってきていた。高速道路の防音壁に遮られて、景色は空しか見えない。空の薄青に、茜色に染まった雲のもくもくとしたかたまりがいくつか浮かんでいた。すれ違う対向車がヘッドライトをつけはじめている。ツクモもヘッドライトをつけた。明るい光に前方が照らされ、その周囲がさらに一段階暗く沈んでいった。
「なんで、金山さんと仲が悪いの」
元気のない理由はそこだろうと思って、聞いてみた。言いたくなければそう言うだろうし、そうしたら素直に引き下がるつもりだった。
「わかんない」
ツクモは短く言った。しばらくそのまま黙って前を見て、運転していた。これは、言いたくない、かな、と思って話題を変えようとしたとき、ツクモはぽろっとこぼれ出すように言葉をつないだ。
「最初から、うまくかみ合わなかった」
「最初?」
「中一の春。中高一貫の男子校で同学年だった。でも、入学式より前に知り合いだったんだ」
「そうなんだ」
「オレの母方の遠い親戚なんだ。彼の方はお父さん方のつながりの。お父さんはもう亡くなっていたんだけど、同じ中学に行くことになって、知り合いが一人でもいたほうがいいからって、彼のお祖父さんが取り持って、春休みのうちにお母さんが彼を連れてオレと母に会いに来た」
「うん」
「あいつも昆虫が好きだと聞いていたから、色々話せるかな、と楽しみにしていたんだ。それで、累代飼養していたカブトムシを見せた。三月だから、まだころころしたかわいい幼虫で、腐葉土を一杯に入れたガラスの水槽を黒い紙で覆って育てていて、たまたまガラスの近くにいたやつを、紙をとって二人で見た。でも、あいつはその幼虫を見て、言ったんだ。『さなぎの時、中がどうなってるか、知ってるか。ドロドロなんだぜ。いったんドロドロになってから、全部組み替えるんだ。切るとわかる』その時、直感的に、ああ、こいつ切ったんだな、と思った。しかも、幾つも。想像するだけで息が苦しくなって、オレはあいつをカブトムシを置いていた部屋から出したんだ」
「それは……」
「その後、別に、あいつが動物の命を奪うことに極端にこだわったというわけではないし、普通の昆虫好きとしてよくあるレベルで標本を作ったりしているくらいだったとは思う。クラブが生物部で一緒だったけど、周りが心配するような変な執着は見せていなかった。それに昆虫にかかわる学問の世界では、けっこう、昆虫を死なせないとできない研究があるんだ。研究のデザインによっては、一万匹とかの規模だったりもする。そういう研究をしている人に、昆虫をかわいがる気持ちがないというわけではなくて、むしろとても好きだと思ってやっている人も多いんだ。もちろんオレだって、今そういう研究をしている人と普通に付き合いもあるし、そういう人たちを嫌だと思ったことはない。だから、オレが気にしすぎていると思うんだけど、どうにもその時から金山とはうまく付き合える気がしなくて」
ツクモは前方に視線を置いたまま、わずかに眉根をよせた。
「それは、ツクモが嫌な気持ちになっても当然だよ。実験のために育てていたカブトムシじゃなくて、大人になるのを楽しみにして、ツクモ自身がかわいがって育てていたカブトムシでしょ。累代飼養って、要するに、親のカブトムシの代から大事に面倒見てきたってことなんでしょ。それを見て、切るとか言われたら、悲しかったり辛かったりするのは当たり前じゃないの。北京ダックは食べられても、かわいがっていたペットのアヒルは食べられないよね。別物じゃん」
「違うかな」
ツクモはひどくあやふやな声で言った。
「それは、全然違うよ」
わたしは確信をもってうなずいた。でも、こんな簡単なことを、どうしてツクモは今まで、わからなかったんだろう。
それが、もしかしたら、ツクモがずっと困ってきたことだったのかもしれない。昆虫のことを山ほど知っていて、難しい科学論文も読めて書けて、崩し字を辞書なしに読めるのに、実験動物とペットは違う、ということが大人になった今も自然と腑に落ちてわからない、というそのギャップが。あれだけたくさん、英語も含めて、いろんな言葉を知っているのに、自分が傷ついた体験をうまく言葉にできないことが。
ツクモが涼しげな顔で何でもないようにこなして見せるあれやこれやが、わたしには驚きの対象でしかないように、ツクモにとっては、わたしには当たり前に思えるそういう気持ちの表し方は、古文書や英語よりも難しく感じられるのかもしれない。
「母は、彼は半年くらい前に東京に引っ越してきたばかりだし、わからないことも多いだろうから、仲良くしてあげなさい、と言っていた。でも、実際は、小学校時代にほとんど親しい友達ができなかったオレのことを気にしていたんだ。昆虫という共通項があれば、友達になれるだろうと思ったんだと思うよ。結果的には、金山とオレはあまりうまくいかなかった。一学期の中間テストが終わるころには、あいつはかなりよそよそしくなっていて、期末テストが終わるころにはもう剣呑と言っていい態度だった。母の遠縁の息子さんだし、仲良くしようとオレは多少の努力もしたんだけど、夏休みころにはもうあきらめた。でも、あいつは母の前ではオレと仲のいいふりをして、なにはともあれ、母の信頼だけは勝ち取ったんだ。家にはしょっちゅう遊びに来ていた。オレも、母の前で友達ができたふりをすれば母が安心するのはわかっていたから、目的はよくわからないながら、あいつが家に来た時には調子を合わせていた。カブトムシの一件で感じたオレの一方的な嫌悪感が、上手くいっていない原因の一つかと思っていたし、だとすると、母を失望させているのはオレ自身の不合理なふがいなさだと思っていたから」
「それで、金山さんはお母さんと仲がいいんだね」
「そうだ」
「小さいころから付き合いがあったわけじゃないの?」
「ああ、あいつは……何だったかな。お父さんが亡くなってから、結婚していなかった女性に子どもがいたことが分かって、そのお母さんと一緒に引き取られたんだ。だから、うちの母も存在自体をそのころになるまで知らなかったと言っていたと思う。そんなの全然気にしなくていいと思うんだけど、お母さんはなんとなくいつも肩身が狭そうな、物静かな人。ちょっと体も弱いらしくて表に出ることが少ないから、そう何度も会ったことがあるわけじゃないけど」
「ふうん」
なんとなく話がとぎれて、エンジンの音だけが響いた。わたしはツクモの話を脳内で反すうし、考えていた。














