37 もめた理由
「じゃあ、もう一つのほうな。モンシロ、さっきの金山、何だったんだ?」
「何って」
ツクモはプリントアウトから目を上げて、苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「相変わらずだよ。なんかわかんないけど、自分が院に進学したこととか、鴻巣研で昆虫をテーマにしてることを自慢しに来てる。暇なんじゃないのか」
「暇でわざわざ東京から来るかね」
「それか、オレがなんか新しいことや面白いことを見つけていないか、横取りできないか、と思って偵察に来てるか。あんな奴の目的を考えることで、思考リソースをとられたくないな。オレは今、目の前の面白いデータに没頭したいんだけど」
「宮森さんに迷惑をかけっぱなしにはするな。あいつは何を言ったんだ?」
「オレのことだったら別に、あんな奴に何を言われてもよかったんだ。ほっとけば。今までだってそうしてきたんだし」
「だから、今日あんなにもめたのがなんでかって聞いてるんだよ」
飯田さんは少々イライラしてきたようだった。ツクモの歯切れがやけに悪いせいだ。
「だって」
ツクモはふてくされた。
「あいつ、ふみちゃんを馬鹿にしたんだ。男子高校生だって」
わたしは思わず口をはさんでしまった。
「いや、あれ、馬鹿にしたんじゃなくて、本当にそう思ってたんだと思うよ」
「最初はそうだったかもしれないけど、オレが訂正した後も謝らなかったし、さらに、どうせ人前に出せないくらいの礼儀作法しかないだろうって、知りもしないくせにさらに悪く言った」
うん、まあそういう事実はあったかもしれない。
「お前、それでキレたのか」
飯田さんはため息をついた。
「道理で。らしくないことしてるなって思ったけど、そういうことか」
「そんなこと言われて、黙ってるほうがおかしいだろ」
「言い分はわかるけどな。あいつの挑発に乗るんじゃない。あいつはとにかく、お前を怒らせて何かを引き出そうとしてるんだ。宮森さんがターゲットになったのは、宮森さんをつつけばお前が反応するのを見抜かれたからだ。弱点だと思われたんだよ」
「ただの研究協力者だって何回も言ったんだけど、全く聞かないんだ」
「そりゃあ――」
飯田さんは何かを言いかけて飲み込んだ。
「で、最後あいつが帰った時、お前、電話がどうとか言ってただろう。あれは?」
「うわ、それだ」
ふてくされて、飯田さんがそうしているようにソファの背もたれに寄り掛かっていたツクモは慌てて身体を起こした。
「おふくろに電話したんだ。たぶん。あいつはそういう嫌がらせをするんだよ。あー、もう。どうしよう」
「お母さんに何を言われたと思ってるの?」
わたしは尋ねた。
「再来週、試写会の後で、映画の舞台になった病院のために、母がチャリティ・ガラを企画してるんだ。そこにオレが行くって言ったんだと思う」
「チャリティ・ガラ?」
全く耳なじみのない言葉にわたしが首をかしげると、ツクモは気が重そうながら説明してくれた。
「資金集めパーティーって言えばいいかな。社交のための場を設定して、そこで参加者から寄付してもらったものをオークションしたりとか、いろいろ、お金を集めるようなことをして、それを慈善活動に寄付する、というイベント。人脈を作りたい人とかが集まって、紹介したりされたりするという、お金には換算できないメリットがあるらしい。オレはそういう感覚、全く理解できないけど。寄付はしたい人が自分ですればいいと思うんだけど、母は人が集まる場所を設定して、知り合いと知り合いを結びつけるのが好きなんだ。いろんな大義名分をとらえては、そういうにぎやかな催し物をやりたがるんだよ。今回は映画がらみで、メディア関係の人を呼んで、若手のモデルさんや俳優さんを売り込みたい知り合いがいたんじゃなかったかな」
「それがツクモに何の関係があるの?」
「家族が企画したイベントなんだから、顔を出せって。若い人間がいると華やかになるとか、なんだとか、とにかく合理的じゃないことばかり言ってくるんだ。一人じゃ格好がつかないから、女の子を連れて来いとか、適切な知り合いがいないなら母が知り合いのお嬢さんに声を掛けるから、とか、もう、非合理性の塊。二十一世紀に入ってからの話とは思えないくらい。本当に苦手なんだ。理解できない理屈ばっかりだから。いつも逃げ回ってるんだけど、それも気に入らないらしくて、しょっちゅうそれでケンカする」
「そのお母さんに、金山さんは、ツクモが行くらしいよって電話をしちゃったってこと?」
「多分そう」
「宮森さんを連れて? 今の文脈だとそういう話なのか」
飯田さんは剣呑な顔になった。
「十中八九、そういうことをしたと思う」
「お前な。嫌なんだったら自分でおふくろさんにちゃんと電話かけて断れよ。金山に牛耳らせてんじゃねえよ」
「もちろん、そうするつもりだよ。でも、母は絶対聞かないと思う」
「本当に嫌なんだったらちゃんと断れ。宮森さんまで巻き込むな」
「もちろん、ふみちゃんは来なくていい。オレの問題だから。あんなの全然面白くないし。でも、もう一年半くらい逃げ回ってるから、ここで断ると母は血圧上がって倒れるとかなんとか言ってくるはずだ。一回くらい、ガス抜きに顔を出さないとどうにもならないと思う」
ツクモは本当にげっそりした顔になっていた。
「同伴者はどうするんだよ」
「あんまり早く来ないっていうと、母が気を回して用意しようとするんだ。もうその用意って言い方がモノ扱いみたいで、オレはすっごい嫌いなんだけど。それはそれで全くやる気がないオレが同行するんじゃ先方にも申し訳ないし、迷惑がかかるから、避けたい。ぎりぎりまで引っ張って、当日にでも、オレがへまをやって振られたことにして、一人で行くからいいよ。また昆虫がらみで失敗して振られて、なんて笑い話にすれば、とりあえずその場のウケはとれるし。大方、あいつの狙いのひとつはそこだ。公の場にオレを引っ張り出して、みんなに笑わせたら、自分がちょっと気が利いてスマートに見えるだろうと思ってるんだ。オレが行かなければそれはそれで、母とオレがまた少しもめることになる。いずれにせよ、高みの見物ができるということなんじゃないかな。本当に、何が楽しいのかわからないけど」
「何それ。ツクモ、思うつぼじゃん」
わたしは無性に腹が立った。
「あんな奴はどうでもいいけど、母は家族だからね。多少は顔を立てないわけには行かない。生んで育ててもらったわけだし。期待に添えない不肖の息子なりに、ガス抜き程度でも、おどけ役でもね」
「ツクモは不肖でも何でもないでしょ。才能ある立派な研究者なんでしょ。そんな言い方する必要ないよ」
「ありがと、ふみちゃん。そんな大したことじゃないから、大丈夫」
ツクモはわたしの頭をぽんぽんなでた。その仕草にわたしの腹立ちは収まるどころかよけい炎上した。
ツクモはちゃんとした大人だ。飯田さんみたいにちゃんとした人が気にかけてフォローしてやりたいと思うくらい、普段は立派に周りに貢献もしている。そんな人が、なんで、自分のすること一つ自分で選べないのか。
「ねえ、じゃあ、わたしが本当に行くのは? 曲がりなりにも、いちおう、二十歳のうら若い乙女だよ。わたしが多少、心得不足だって、精一杯お行儀よくする努力はできるし、一人で行って笑われるのよりはマシかもしれないよ。二人だったら、後で、変なこと言って笑ってきたやつらを、こっそり笑い返してやることだってできるじゃん」
二人がぎょっとしたようにわたしを見た。あれ。無謀だっただろうか。
「……いや、まあ、もし金山さんの言うとおりで、連れて行った方が残念なことになるくらいにわたしが役者として足りてないなら、もちろん遠慮するけど」
わたしが尻すぼみ気味にぼそぼそ言うと、飯田さんは鬼のような形相でツクモを睨んだ。ツクモはその圧に、元はがっしりしている肩を縮めて小さくなりながら言う。
「全然、そんなことはない。ふみちゃんはいつでも親切だし、目上の人には礼儀正しいし、人の話を上手に聞けるし、その気になれば二十代の女性として必要十分に敬語も使いこなしてるし、食べ方飲み方もほんとに綺麗」
「お前、よく見てんのな」
飯田さんが呆れたように言う。
「ふみちゃん観察に関してはこのところ集中的にやってるから。いずれは第一人者を名乗りたいくらい」
なんじゃそりゃ。
妙なことを言って胸を張ったツクモの足を飯田さんは机の横で軽く蹴飛ばした。
「アホなこと言ってんじゃない。もうこれはお前次第だよ。お前はどうしたいんだ」
「オレは――」
ツクモは言葉に詰まって、両手で髪をひっかきまわした。犬みたいにぶるっと頭を振ってから、ようやく再び、口を開いた。
「今ね、ふみちゃんが行ってもいいよって言ってくれて、すごい嬉しかったんだ。実際、ふみちゃんは今のままで十分通用する、ちゃんとしたレディだよ」
思わず顔が熱くなってしまった。こんな風にストレートに、内面を女の子としてほめられたのは初めてだ。
「だから、この状況じゃなければ、よかったら一緒に来てくださいってきちんとお願いしたと思う。すっごくつまんない行事だけど、ふみちゃんと一緒だったら楽しそうだし。だけど今回はあまりにリスクが高い。ふみちゃんが一緒だったらそれはそれで、金山がどんなちょっかい出してくるかわからないから。飯田さんの言う通りなら、あいつはオレに嫌がらせをしようとしてふみちゃんに迷惑を掛けかねない」
「まあそうだろうなあ。合理的な判断だと思うよ」
飯田さんは口をへの字に曲げて腕を組んだ。
なんだろう、この感じ。すごく、納得がいかない。
「えーと」
わたしは考えをまとめながら、ゆっくりと話を切り出した。














