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昆虫オタクと神社の娘【完結済】  作者: 藤倉楠之
第四章 ツクボウの研究所

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36 ガスクロの結果

 飯田さんはツクモから散虫香の話も聞いていたようで、わたしが実験の後またポケットに入れていると話すと見たがった。香りの研究が専門なだけあって、どういう成分が入っているのか気になるらしい。


 守り袋を手に、あれに似ているこれに似ていると、既知の香りと比べて頭をひねる飯田さんとおしゃべりしていると、インターホンのチャイムのような音がした。


『買ってきたから開けてー』


 ツクモだ。


「内側からは開きますか」


「開くよ」


 わたしは急いでドアを開けにいった。ツクモはトレイを両手で持っていて、インターホンのボタンはトレイの角で押したらしかった。厚みのある大きめのカップ自体が重そうなのに加えて、熱い飲み物がなみなみと入って、三つもトレイに並んでいるのだから、持ってくるのには神経を使っただろう。


「重かったー」


 ぼやくツクモは割といつも通りの様子に戻っていた。わたしはトレイごと受け取って、テーブルに運んだ。


「おつかれ。モンシロ、どっちから話す?」


 飯田さんは言いながら膝の上にひじを突いて、両手の指を組み合わせると、やや前屈みの姿勢になった。飯田さんの向かい、わたしの隣に座ったツクモの顔をじっとのぞきこむ。


「どっちって?」


 ツクモはコーヒーを口に運んだ。一口飲んで置く。


「ガスクロの結果と、さっきのもめ事」


 ちょっと顔をしかめて、ツクモは宙をにらんだ。


「さっきのショートケーキ理論で言うとガスクロが後なんだけど、直感は逆がいいって言ってる」


「じゃあそれでいいよ。ガスクロが先な」


 飯田さんは一旦ガラスの向こうに引っ込むと、棒グラフのようなものがたくさん書かれた紙の束を持ってきた。同じものを三部用意してくれていたらしい。わたしとツクモに一部ずつ、残りを自分の手元に置いて、説明し始めた。


「まあモンシロは見ればわかるから見ておいて。宮森さんはこれ初めてだよね?」


「はい」


「結論から言うとビンゴ。結構とんでもない結果がでてる。正直これが何も聞かされずに持ち込まれてたらコンタミを疑って追試を勧めたレベル」


 三枚のグラフをテーブルに並べ、指さしながら言う。


「こっちのグラフがニュートラルで、こっちがネガティブね。こことここ、全然形が違うでしょ。この棒グラフが伸びてるところは、サンプル中にこの成分が含まれるっていう意味で、ネガティブではいくつものバーがニュートラルに比べて大きい。ポジティブのほうも、ニュートラルより大きいグラフがいくつもある。まだちゃんと計算してはいないけど、この差はおそらく統計上有意だ。つまり偶然では説明できない」


 わたしがきょとんとしているのを見て、ツクモが横から助け船を出してくれた。


「ふみちゃんがいやな気持ちの時の耳のあたりの空気には、ふつうの時の空気と比べて、複数の種類の化学物質が多く含まれているってことね。それがなぜか、は、この分析からはわからない。でも、その物質がある、ということは確か。あと、ネガティブとポジティブでは、増えている化学物質の種類が少し違うね、飯田さん」


「だな。この差も多分有意性があると思う」


「何が多いんですか?」


 飯田さんが答えてくれた。


「物質名をあれこれあげても、ぴんとこないと思うから、ざっくり言うと、昆虫のある種の行動を引き起こすことがわかっているいくつかの物質に似ているもの、が多くなってる。いわゆる昆虫フェロモンの類似物質って言ってもいいかもね。それも、ポジティブとネガティブでは、増えている物質の種類が少し違うんだ。単に偶然と片付けられないレベルで、検出されている物質の量が違う。たとえば、こっちの物質がぐっと増えて、こっちの物質がかなり減ってる」


「それって、どの昆虫が反応する、というのが決まってたりするんですか?」


「フェロモンをコミュニケーションに使う種はいくつも知られてるけど、何か一つの物質がこの昆虫のフェロモン、と決まっているわけではない。調合された香料がブランドごとに特徴のある香水を作り出すみたいに、いくつかの物質の組み合わせのバランスが、どの昆虫のどんな行動を引き起こすかを決定づけていると考えられているんだ。今この表を見ただけでは、俺にはどの昆虫のどんな行動が起こるのかを予想することはできないな。俺は香料の方の専門で、昆虫は門外漢だから」


「じゃあ、ツクモは?」


 わたしが視線をむけると、ツクモも首を傾げた。


「それぞれの状態がどの昆虫のパターンに近いかは、オレも文献を当たってみないとわからないや。今、もう、本を当たってみたくてうずうずしてるけど。昆虫フェロモンの研究もまだまだ手つかずの部分も多いから、未知の物質とかこれまで知られていない組み合わせに、思わぬ反応を示す昆虫もいるかもしれないしね」


「じゃあ、やっぱりわかることは少ないのか」


 わたしは肩をすくめた。


「文献をあたるのもいいけど、並行して、ふみちゃんを観察して、寄ってくる昆虫が何かを研究する方向性も」


 うきうきした様子でツクモが言い始めたので、最後まで言わせずばっさり切り捨てた。


「絶対やだ」


「えー、いい考えだと思ったんだけど」


「ツクモにだけね。わたしにメリットは一個もない。ストレスしかないからやりたくない。とりあえず今日は、昆虫が集まってくるのには、何かわたしが関わっている――多分、わたしが発しているらしい化学物質という要因がある、とわかっただけってことだよね」


「まあ、そうだね」


 飯田さんはクールにうなずいた。片や、ツクモはうれしそうだ。


「でも、それがわかったということだけでもすごいよ、ふみちゃん。これが、たとえば神社の言い伝えと関係している可能性だってないとは言えない」


「どういうこと?」


「神主の女性が祈祷した時、チョウがたくさん集まってきた記述があったじゃないか。あれは、単なる伝説じゃなくて、ふみちゃんみたいに特異体質がある神主さんが引き寄せた可能性だってある」


「ツクモ、忘れてる。平家の姫君も、江戸時代のすごい神主さんも、わたしの直接の先祖じゃないんだよ。わたしの先祖は、そのあと、山で発見された身元不明の女の子のほうなんだから」


「あれ。そうか。まだ筋が通せないか」


 いい線いってると思ったんだけどなあ、とツクモは腕を組んだ。


「モンシロはいろいろ思いつきで飛ばしすぎ。まずは目の前にあるデータに向き合えよ。俺はとりあえず、ネガティブ感情時とポジティブ感情時の構成成分の違いにちゃんと注目したほうがいいと思うな。わざわざ負担をかけてとらせてもらったデータなんだから、最後まで大事に読めよ」


 飯田さんは軽くいなすようにツクモに言うと、わたしのほうに向き直った。


「宮森さんも、こんなところまで来て分析したのに収穫ゼロは申し訳ないから、ささやかだけど、俺からできるアドバイスをさせてもらうな。この三つのグラフを比べてほしいんだけど、ネガティブの時もポジティブの時も、ニュートラルよりグラフが伸びてる項目が多いだろう。ということは、ニュートラル状態で一番、化学物質が少なかったということになるんだ。おそらく、感情の動きをよりフラットにできれば、化学物質の影響が小さくできるはずだ」


「ということは、カナブンに襲われて困ったら、七の段をゆっくり二回逆から唱えて、心を無にしてみたらいいってことですか」


 わたしのあえて真面目くさった口調に、飯田さんは笑いをかみ殺した。


「そういうことになるね」


「今日いただいた中で、一番役に立つお土産です」


 わたしは飯田さんに深く頭を下げた。実に実効性のあるアドバイスだ。問題は、カナブンに襲われてパニックになっているときに、七の段が思い出せるかどうか、ということだけだ。


 ツクモは、わたしと飯田さんが話している間に、早速気になったことがいくつかあるらしく、もらったプリントアウトにいろんなメモを書き込んでいた。ほとんどが英語の走り書きで、わたしには読めなかった。新しいプラモデルを手に入れて、組み立てるのが待ちきれずに、家に着く前から説明書を取り出してしまっている子どもみたいだ。


 飯田さんは、大分ぬるくなってきていたチャイをごくりと大きく一口飲むと、ソファに深くかけ直して、背もたれに背を預けながら、何でもないことのように話題を変えた。


「じゃあ、もう一つの方な。モンシロ、さっきの金山、何だったんだ?」


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ヘッダ
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フッタ

― 新着の感想 ―
[一言] 神主の遠縁の娘だったかもしれんぞぉ? というか臓器移植を受けた方の中に時折、臓器提供してくれた人間と似た体質の人間になるというケースもある。 もしかすると神主の何かを摂取して神主と同じ特異…
[一言] こっちはいいのですが、もう一つの方がどうでしょう。
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