33 カフェテリアにて(前)
カフェテリアは、規模こそ小さいものの、大学の学生食堂とそっくりな雰囲気のざっくばらんな空間だった。数人の所員とおぼしき人たちがまばらに座って、思い思いに遅い昼食や休憩を取っているようだった。程良くざわついているけれど、うるさいほどではない。
ツクモはコンセントのある隅の席に陣取ると、自分用にコーヒー、わたしには希望を聞いて紅茶を買ってきてくれた。分厚くて、ころんとした丸っこい形がかわいい、大振りのマグカップを二つ、プラスチックのトレイに乗せて戻ってくる。
「紙コップじゃないんだ」
「去年からね。研究室に持って帰りたい人はマイカップを持ってくるようにしたんだ。それか、このカップを借りていって後で返すか。今のところはそれでうまくいってるらしい」
「どうして去年から?」
「こういうところで使い捨てのプラスチック製のストローや蓋を消費していて、環境問題に配慮していない企業だっていうイメージを持たれると、社会的にマイナスだから、近いうちにグループ全体で使い捨て容器を最小限に止めて洗える食器にシフトしていく方針なんだ。ここは規模が大きくないから、どうやって切り替えていくかの実証実験をしてるってわけ」
「いろいろ考えることがあるんだね」
「いやあ、ほんとだよね」
まるで他人事のように軽いため息を付くと、ツクモはワープロのアプリケーションまで立ち上げたパソコンをこちらに向けた。初めて見たアプリだったけれど、縦書きがデフォルトで、国文学を扱いやすそうなインターフェースだった。
「オレが口述するから、とりあえずベタ打ちしていって」
「漢字は?」
ツクモはプリントアウトをわたしに見える向きで置いた。
「分かれば入力、即座にわからなければとりあえずカナで」
「了解」
わたしの対面に座ったツクモは、逆からでも手書きの行書がすらすら読めるらしい。比較的読みやすい字形の文章だとはいえ、図形の認識能力が半端ない。つくづく、変わったところの多い人間である。
多分、わたしのタイピング能力に配慮してだろう、ツクモは江戸時代の古文をゆっくり読み上げて、わたしはそれを仮名遣いと漢字に気をつけながらパソコンに打ち込んだ。無駄話もなく、集中して作業に取り組む心地よい時間が過ぎていく。自分の裁量に任される部分の大きい大学生活に流されて、日頃は少々怠惰なことを言いたくなることもあるが、こうして淡々と作業するのはむしろ好きなほうだ。かなり作業に集中してしまったらしく、ツクモの口述が止まっても、その場の異変にはしばらく気が付かなかった。
「そこまで入れたよ。次は?」
顔を上げて問いかけて、はじめて、ツクモが入り口のほうを見て凶悪な表情を浮かべているのに気が付いた。
「……どうしたの?」
気になってわたしも振り返り、その視線の先をたどった。
ツクモとそんなに年齢の違わなさそうな青年が、人探し顔できょろきょろしている。染めているのだろうか、明るい栗色の髪には強めのパーマがかかっていて、あちこちの方向に毛先が跳ねていた。白っぽい、装飾的なデザインのシャツに、細身の黒いパンツ。ちょっとごつごつした靴。男性向けのファッション誌からそのまま抜き出したような、カジュアルだけどスキがない感じの服装だ。
ツクモは低い声でわたしにささやいた。
「パソコン閉じて。できれば気づかれずに逃げたいけど……それはもう無理かも」
その青年がツクモに気づいて、こちらに近づいてくるのと、ツクモが手を伸ばしてプリントアウトを裏向きに伏せるのがほぼ同時だった。訳が分からなかったが、とにかくわたしも急いでパソコンを閉じた。
「ああ、築井君。こんなところにいたんだな。研究室の前まで行ったんだがお留守のようで。受付で聞いたら所内にはいるようだったから、あわよくば顔が見られるかも、と探していたんだ」
彼はにこやかな表情で言った。だが、その口調はどこかわざとらしく固い調子で、口元は笑っているのに目は油断なくあちこちに気を配っている様子で、奇妙な印象を受けた。
わたしはどうしていいかわからず、向かいのツクモを見た。彼は珍しく張りつめた、苦い顔をしていた。
何なんだ、いったい。
「何か、急用でも?」
問いかけたツクモに、青年はアメリカ映画の俳優が面白いジョークを聞いた時みたいに、両手を天井に向けて軽く広げて見せた。
「いや、そんな大したことじゃないんだ。作業のお邪魔をしてしまったみたいだね。続けていてくれてよかったのに」
「君みたいなお客さんがいらしているのに、そんなわけにはいかないだろう」
ツクモの声はふだんの陽気で機嫌のいいトーンとは全く違い、冷淡でとりつく島がなかった。文字通りに受け取ると歓迎しているようだけれど、その実、よそ者がいるときにできる作業はない、と明確に伝えるような応答だ。
こんなツクモを見るのは初めてで、わたしはあっけにとられて事態を見守っていた。
「ここには何をしに?」
機先を制して問いかけたのはツクモのほうだった。
「ご挨拶だな。学問の志を同じくする旧友を訪ねてきちゃいけないのかい?」
「事前に連絡の一つもくれれば、もっときちんとお出迎えしたのに」
「君の予定はいつもいっぱいだからね。連絡したって断るじゃないか。直接来るしか会えないんだから、仕方がない」
「当てもないのにわざわざ東京からかい? 申し訳ないね。そこまでしていただかなくてもよかったのに。それで、ご用件は?」
青年は甘ったるい声で応じた。
「ちょっと先月、大学院の研究の都合でガイアナに行く用事があったものだから。チョウの調査でね。君も興味があるだろうと思って、資料や標本を見せてあげようかと思ったのさ。やはり南米のチョウは迫力が違う。次は数週間滞在する予定なんだ。院生の身分だから、先生に行けと言われればどこにだって行かなくちゃいけないけれど、今鴻巣研で、チョウを扱えるのは僕だけだからね、明けても暮れてもチョウとガばかり相手にしているんだよ。あいつらを見ていたら、昆虫ばかり追いかけまわしていた君のことを思い出したものだから、顔だけでも見られたらと思って、気分転換に寄らせてもらったんだ」
ぼやいているような内容だが、行間に滴るような悪意が感じられた。ツクモが大学院に行きたくても行けなかったり、家業のしがらみで大好きな昆虫のことばかりしているわけにはいかない状況なのを、『旧友』を自称するこの青年が知らないわけがないだろう。知っていて、わざわざえぐってきているのだろうと想像させるほど、彼の態度は露骨に不愉快だった。
こんな、他の人もすぐそこのテーブルにいるオープンな場所で、この人は何を思ってこんなことをしに来ているんだろう。唐突すぎてさっぱりわからない。フラッシュモブみたいにアクターが急に現れて、前衛的な不条理劇の芝居をするワークショップなんだ、と言われたら納得したかもしれない。
ツクモの顔に、一瞬強い苛立ちがよぎった。わたしの前で見せている、自分の感情に素直であけっぴろげなツクモならとっくに怒っているだろうと思わせるような、激しい表情だった。もっとも、ツクモがよく見せるのはちょっとした不満やふてくされ程度で、本気で怒っているところは、森の中で一度見ただけだったけれど。
その表情も、ほんの一瞬で消えた。ツクモは見事に冷静な態度で、青年の提案をはねつけた。
「ご親切はありがたいけど、今、こちらも忙しいんだ。また整理されてまとまって論文として専門誌に掲載されたら読ませていただくよ。そんな生のデータの状態で見せてもらっても、わざわざそれを解釈するのに時間をかける余裕なんてないしね。まだ、君の名義ではどこにも論文を発表していないだろう? 熱心な君のことだから、きっと素晴らしい大作を用意しているんじゃないかと思って楽しみにしているんだ」
わたしにもわかるけん制だ。さっき、大学院だのガイアナだのをわざわざ強調してきた意趣返しだろうか。ツクモの言葉のトゲに、青年も一瞬鼻白んだ。
「それは、ぜひご期待に添うように努力しないといけないね。僕としては君の研究も気になるよ。学生時代から、君の才能は尊敬しているんだ。それこそ君のほうは、何本ももう発表された論文があるくらいだし。今は何にとりくんでいるのかな」
「そちらも、次が発表されるまで楽しみにしていていただかないと。こうして、研究協力もしていただいてるから、事前にあれこれ話すことで、協力者の方々にご迷惑が掛かってもいけないし」
「おや。こちらの男子高校生君は、研究協力者だったの? 僕はまた、君がてっきり、高校生のお弟子さんを取ったのかと思っていたよ。学閥に属さずフリーランスだと、色々自由でいいなあと思っていたところだ。君のところは、こうして研究環境が整っていてうらやましいよ。学部卒でも、ここでならなんの問題もないものな。論文を発表するのだって、社員の研究者に手伝ってもらって、自分の名前で出せばいいんだし、院の専門教育がなくたってどうにかカタチは整えてもらえるんだろう。大学院はもちろん全部自分でできる実力をつけなくちゃいけないし、何かとしがらみも多いから君の環境は実にうらやましいね。鴻巣先生はあちこちに顔が利くから、それでも僕は恵まれているほうだとは思うけれど。君、どこの高校? その制服、見覚えがないなあ。この辺の田舎でも、偏差値が高い高校はそれなりに知っているつもりだけど、僕の存じ上げないところかな。田舎の底辺高校でも昆虫さえ触れれば、築井君の助手なら務まるだろうと思ったからお弟子さんかと思ったんだよね」
今の一息で、この人、幾つ嫌味を言っただろうか。
ツクモも、なぜかとばっちりでわたしも、ここまで愚弄される筋合いはない。いくら白の開襟シャツに黒のパンツにナナフシ体型だからといって、男子高校生呼ばわりされる筋合いも。
わたしもさすがにカチンときて、口を開こうとした。














