32 ツクモの研究室
結果が出るまでしばらくかかるというので、ツクモがその間に研究所の他の部分を案内してくれることになった。
「といっても、他のラボは、今回の件にはあまり関係ないから、見てもらえるところは多くないんだけどね。やっぱり、部外者の出入りを嫌がる人も多くて」
廊下を歩きながら話す。あたりはしんとしていた。防音がいいから、話し声はそんなに気にしなくていいと言われてはいたが、やはり少し気になって、声のボリュームを控えてしまう。
「企業秘密ってこと?」
「うん、まあ。会社のことだけじゃなくて、研究者ってずっとここでやっていく人ばかりでもないから。ここで研究して書いた論文が学術雑誌に掲載されて、それがいい研究だと、他の人の研究に影響を与えてたくさん引用されたりしていくだろ。そういうのが実績になって、大学とか、海外の研究所なんかに転職していく人もいるんだよね。ここにはここの得意分野があって、それがその人の興味と合わなくなっていく場合もあるから。研究実績は個人の人生設計にも関わるから、絶対にすっぱ抜かれたくないってことになる」
「理系の研究所ってそんな感じなんだね」
「場所によっても違うんだろうけどね」
「ツクモもいつかはどっか他に行ったりするの? 築井だから、ずっとここ?」
「オレは行きたくても行けないんだ。博士号持ってないから」
「博士号? って、なんで? あれって偉い教授の先生が定年のころにもらうやつじゃないの?」
文学部にいると、定年間際の教授が博士号論文を出版して記念パーティを開く、とか、特別講演をする、という話を時折聞く。一生を研究に捧げてきた名誉の称号、というイメージだ。
「あー、ふみちゃんのとこの文学部はそんな感じなんだ。じゃなくて、大学院に、修士課程、博士課程、ってあるじゃん。あれの、博士課程までちゃんと出て、その時点で博士論文書いて審査に通るととれる方のやつ。理系の研究者は、あれがないと基本相手にされない。オレは学部卒でここに来ちゃってるからね。ここでは丁稚奉公だって言っただろ。半人前ってことなんだよ」
ツクモはグレーと緑に塗分けられたプレートの部屋の前に来ると、操作盤を覗き込んで、ロックを解除した。
「ここが一応オレに割り振られている研究スペース。どうぞ」
中に通してくれた。
中は、さっき通してもらった研究室とは全く違った。まず、狭い。さっきの部屋が、ガラスの向こうまで含めると高校の教室軽く二つ分くらいはあったのに対して、こちらは例えて言うなら、高校の先生たちに教科ごとに割り振られている、教材準備室くらいだ。普通の教室の半分くらいの大きさだろうか。両側の壁に、ずらっと作り付けの本棚が並んでいていて、四分の三くらいは新しいものも古いものも含めて本がぎっしり詰め込まれている。残りの四分の一には、ファイルケースや大小さまざまな紙やアクリルの箱類が、これまたぎっしり詰め込まれていた。本棚以外の床にも所狭しと段ボール箱がおかれ、場所によってはそれが二段、三段に積みあがっている。
デスクがこちらに正面を向けて、つまり、パソコンのディスプレイはこちらに背を向けるように置かれているのは先ほどの部屋と似ていた。でも、デスクの上のカオスはさっきの部屋の比ではない。資料が雑然と積み上げられ、いたるところに付箋が貼られている。よく見ると、本棚の棚板や壁板にも、所狭しとばかりに、付せんやメモ用紙にテープをつけたものが貼り付けられていた。部屋の手前側に応接セットがあって、奥側にデスクがあるのは一緒だけれど、間の仕切りはない。デスクは一つしかないし、この部門の所属はツクモだけだとそういえば前言っていた。ツクモが一緒でなければ入れない部屋だから、基本的に間仕切りは必要ないということなのだろうか。応接セットの周りにも、段ボール箱がはみ出してきていた。
「これ、どこに何があるか、ツクモはわかってるの?」
ツクモはきょとんとした。
「わかってるよ? なんで? じゃなかったら困るじゃん。必要最低限のものしか置いてないし」
これでわかるのか。必要最低限という言葉の意味が崩壊しそうなものの量だ。でもたしかによく見ると、こういうところに紛れていそうな、たとえばお菓子や飲み物の空いたパッケージとか、くずごみみたいなものは一切なかったし、埃もたまってはいなかった。
他人にはカオスにしか見えないこの空間も、ツクモの中では秩序があって調和のとれた居心地のいい場所らしい。
「じゃあ、ここの物がもし動かされちゃったら、わかるってこと?」
「もちろん」
「……掃除に入る人も大変だね」
深く同情してしまった。こんなにものが広がっているとやりようがないのではないか。
「大事な研究メモを捨てられちゃうと困るとか、色々あるからね。掃除関係は基本自分でやって、ごみを共有スペースに出して片付けてもらう方式だよ」
そこ座って、とツクモに指さされたソファにも、あちこちに紙束が置いてある。わたしは場所や順番を崩さないように、わずかに残されたスペースにそっと腰かけた。
ツクモはデスクの前に座ると、PCを立ち上げて何事か操作した。
部屋の隅のレーザープリンタが静かにうなりをあげ、紙を吐き出し始めて、プリントの指示を出したのだと分かった。数枚の紙を吐き出し終わったところでプリンタはまた静かになる。ツクモはたまった紙を手に取ってクリアファイルに納めると、応接セットの側に戻ってきた。
「午前中読み取りをした古文書のデータ。こんな風に、簡単にプリントできるようになる。文書そのものの所有者の許可があれば、研究目的で利用できるようにデータ共有される仕組みがあるんだ。いろんな分野の研究者が関わっている保存プロジェクトで、興味のある人が各自見たい資料にアクセスして活用する。このプリントアウトをお父さんに見てもらって、そういう活用の仕方をしてもいいかどうか改めて聞いてみて。わからないことがあれば、オレが何でも説明するから。そのうえで、神社としてこの文書は公開したくない、というものは外すし、全部だめ、と断られるなら、それはそれで構わない。オレとしては、自分が見たい文書を直接見せていただいてるし」
「わかった」
わたしは差し出されたファイルを受け取ると、改めてその紙に視線を落とした。
つい数時間前まで、文書保存用に木箱に一緒に収められている散虫香の、強い柑橘と薄荷の香りのなかで、和紙をめくって読んでいたはずの文書が、A4のコピー用紙に印刷されているのが、何とも不思議だ。
「ねえふみちゃん、オレここだと座るところないや。カフェテリアに行ってコーヒー飲もう。普段はここにお客さんは通さないんだ」
「何それ。自分の部屋でしょうが。散らかしてるのは自分の責任」
と軽い口調で言いはしたものの、わたしも立ち上がった。ちょっと動いて紙の順番が変わっただけでわかるようなら、うかつに物を動かしてしまいたくはない。それではいくらなんでも落ち着かない。
「散らかしてるんじゃなくて、空間を最大限に活用してるの」
ツクモはうそぶきながら、棚からノートパソコンを取ってくると、充電ケーブルと一緒にバッグに入れた。
「結果待ちの間に、カフェテリアでできるところまで翻刻しよう。ふみちゃん、入力してね」














