31 サンプルの採取(後)
完全にへそを曲げていたわたしの前に、ツクモは、ソファの横に置いていた自分のバッグから何かを取り出して置いた。
「お詫びに、これ、どうぞ」
そっぽを向いていたわたしは、好奇心に勝てず、それを横目で見た。
以前話題にしていたツクボウのグリッターアイシャドウ。これが、きゅんとするくらい愛らしい品だった。普通にお店に売っている商品も、発売当初から、中身の発色の良さや伸ばしやすさに加え、コンパクトになっている、花びらの形を模したパッケージデザインが秀逸と評判だった。それと全く色や形が同じなのに、ミニチュアみたいに正確にバランスを維持したまま、三分の一くらいのサイズになっていたのだ。
つい、つりこまれてしまった。
「え、なにこれかわいい! こんなサイズあったの?」
「ううん。決まったお得意先にしか出さない試供品。最近、ツクボウ化粧品に行った時、広報の知り合いに頼みこんで一つ分けてもらってきた。ほら、パンフレットついてるだろ」
確かに、アイシャドウのコンパクトの下に、ポストカードくらいの台紙が付いている。『君は、見るたびに、色が変わる』というキャッチコピーが小さく添えられ、女優の甘木凉音がアンニュイな表情を浮かべてこちらを振り返っている写真だ。
「あれ? この凉音ちゃん、CMと衣装が違うよ」
「気づいた? その女優さんの主演映画バージョンなんだって。M市の小児病院の実話をもとにしたストーリーらしいんだけど」
M市は私の住んでいる町の隣にある市だ。そんな身近にロケが来ていた作品だというので、撮影自体は一、二年前だったけれど、わたしも由奈ちゃんも公開を楽しみにしていた。
「聞いたことあるよ。えー、じゃあ、この凉音ちゃんは映画の衣装なんだ!」
「みたいだね。オレはよく知らないけど、広報の人はそう言ってた」
すごくレアな試供品だ。これはテンションが上がる。
「もう一つ、もらってきたものがあるんだ。こっちはそんなにレアってわけじゃないけど」
ツクモはバッグからもう一つ、今度は封筒のようなものを取り出した。
「再来週の金曜日、時間ある?」
「ツクモがバイトを入れなければ」
「ふみちゃん、映画やドラマが好きって言ってただろ。だから興味あるかなと思って」
「何?」
「その映画の試写会。全国公開は九月だったかな? 舞台がちょうど、ほら、M市だったから、その縁でM市でも試写会をやるんだ。うちはスポンサーもやってるから割り当てがあって、その試供品と一緒に、チケットも広報からもらってきた」
「え、ほんとに?!」
ツクモは封筒からカラー印刷された細長い紙片を取り出した。
「二枚あるから、だれか友達を誘って行ってきなよ」
「いいの?! ありがとう、ツクモ。公開前の映画の試写会なんて初めてだよー」
我ながら現金なものだとは思う。でも、これはうれしい。バイトしてよかった。
わたしがチケットを胸に押し当ててうっとりしていると、ツクモは、おっと忘れるところだった、と言いながら、試験管を二本とってわたしの耳元で操作した。さっきと同じ、しゅっ、しゅっというかすかな音が連続する。
「……あ。これって。そういうことか!」
またやられた。なんて単純バカなんだろう、と自分でもあきれてしまった。
「ポジティブ感情のサンプル、いただきました」
にやりと笑ってツクモが言う。
「下心か! なによもう。お礼言ってすごく損した気分」
「ふみちゃんはとっても素直だから、すごくかわいい」
にやにやしながら言われると、さらに腹が立つ。
「うるさいな」
「まあまあ、でも、チケットは本物だし、その日はバイト入れないようにするからさ。ほら、アイシャドウもちゃんと持って帰って。オレはもらってもしょうがないし」
「……うん。ツクモには必要ないよね、彼女さんにあげるんでもない限り」
目元がチョウの羽みたいにキラキラしてても困るだろう。本人より周囲が。
「まあそんなものもらってくれそうな知り合いは、ふみちゃん以外、全く心当たりないから」
「でしょうね。彼女さんなんていないと思った。断言してもいいけど、ツクモのこの性格はモテない」
わたしは舌を出した。ツクモは敢えてのしかめっ面で威嚇してくる。
「そんなの、断言されなくてもわかってる」
『はいはい、モンシロ、そこまでー。ニュートラルのサンプル取れなくなるよ』
半笑いの飯田さんがスピーカーで割り込んで、しょうもない口喧嘩は水入りとなった。
『だいたい、ニュートラルは先に取れって言っただろ。それこそコンタミでわかんなくなるぞ』
後で聞いたのだが、コンタミ、というのは、本来入るべきではない不純物がサンプルに混入することを指しているらしい。
「でも、それやっちゃうと、その後の実験も先を読まれちゃうでしょ」
『まあ、おまえの案件だから俺はいいけどさ。アドバイスとして言うんだが、条件操作の手順と手段はちゃんと考えろ』
最後は飯田さんの指示で、かけ算九九の七の段をゆっくり二回逆唱してから、二本サンプルを取った。これが嫌な感情でもなく、いい感情でもない、ニュートラル感情というわけだ。飯田さんはこの指示はツクモにはやらせようとしなかった。ツクモはサンプルを取るだけの役目だ。
『モンシロがやると、いらんところで宮森さんを怒らせてデータがぶれる』
わかってらっしゃる。わたしは深くうなずいてしまった。














