30 サンプルの採取(前)
「シリンダ持ってくる。サンプルはすぐとれるよ」
飯田さんが立ち上がりながら言ったが、ツクモも立ち上がった。
「オレがやる。例の、感情負荷条件のことで、ちょっと試してみたいんだ。シリンダ、多めにもらっていいよね?」
「ちゃんと補充しとけよ」
「わかってるって。飯田さんも向こうに出ててよ。コンタミあるとやだもん」
「んなもんあるかよ」
わたしには意味がよくわからない軽口をたたきながら、二人はガラスの向こう側の、機材やコンピューターが並んでいる部屋に入っていった。飯田さんはそのまま、自分の作業に戻ったようだった。ほどなく、ツクモがステンレスのような光沢の金属のトレイに、ジップ付きのポリ袋と、少し大きめの試験管のようなものを何本か載せて戻ってきた。
向かい合ったソファの間のローテーブルにトレイをおいて、ツクモはわたしの隣に座った。
「ふみちゃん、お守り持ってる?」
「うん」
わたしはポケットから守り袋を出した。ツクモがジップ付きの袋を広げてわたしの方に差し出したので、その中に落とす。ツクモはきっちりジップを閉めると、その袋をローテーブルの上に置いた。
試験管は、空っぽで、ゴムのふたのようなものがきっちりはまっていた。そこにガラス管が貫通していて、その先をなにやら操作できるようになっているようだった。
「この中はほとんど真空になっていて、サンプルの気体を採取したいところでこのバルブを操作すると、周囲の空気を吸い込むんだ。使えるのは一回かぎり。といっても、空気をとるだけだから、まず失敗はしない。それで、こっちのふたを使ってきちんと閉めたら採取完了。ふみちゃん採血したことあるよね? 自分で、血が抜かれてるところ見たことある?」
「ある。あの注射、針が太くて痛いから嫌い」
わたしは根っからの健康優良児で、小さいころからほとんど、小さな風邪くらいしか引いていない。ここ数年は、病院といえば年に一度のインフルエンザの予防接種と健康診断のときしかご縁がないくらいなので、特に注射に慣れているわけではないけれど、好奇心から、採血の時など看護師さんの手元をつい観察してしまう。自分の血を見てぶっ倒れるような繊細さの持ち主でもないし。
「最初に、注射器みたいな道具を空で血管に刺してから、ガラスの試験管みたいなのをぶすっと差し込んでくるでしょ。そこまでは全然血も出てないのに、試験管を差し込むと、血がすーっと中に入るの、わかる?」
「そういえばそうだね。血管にさしてるはずなのに、最初は血が出てないってことか」
不思議に思ってもみなかったけれど、そういえばその理屈をちゃんと知っているわけではなかったことに気がついた。
「あれも、試験管の中を真空に近くしてあるから吸い込むんだ。原理としては一緒。こっちは注射針をつかわないで、気体を吸い込ませるところが違うけど」
「なるほど」
「さーて、どっちからやろうかなっと。ふみちゃん、好きなものは後に取っとくタイプ? 先に食べちゃうタイプ?」
ツクモは妙に楽しそうに質問した。
「後かな。ショートケーキのイチゴは最後の一口と一緒に味わう派」
一人っ子だからそんなのんびりできるんだ、きょうだいが多かったら好きなものを先に食べないと生き残れないんだよ、と、今時珍しい五人きょうだいの四番目の友人に力説されたことをふと思い出した。ツクモはお兄さんがいると言っていたけど、どうだろうか。
「あ、オレも。わかるわかる」
そうだよね、と言いながら、ツクモはふいにわたしのほうに身体を傾けると、肩のあたりに両腕を回してぎゅっとわたしを抱き寄せた。
「…………っ!」
人間、驚きすぎると声が出なくなるらしい。
ツクモがあまりに自然におしゃべりしながら、唐突に暴挙にでたので、わたしは完全に不意を突かれてしまった。
耳の後ろあたりに顔を寄せて、ツクモが小さい声で言う。
「やっぱり、ふみちゃんいい匂い」
その声は耳にも、彼の身体にぎゅっと押し付けられた格好になった肩にも響いて、いつもより少しだけ低く聞こえた。緊張で心臓がバクバクになる。
どういうことだ。今、何の状況?
やっと、声が出た。
「ちょっと待って、何してんのツクモ!」
両手を使ってツクモの腕を押しのけようとするが、力の差は歴然で、ちっとも動かない。
ふいに、スピーカーを通したような声が響いた。
『モンシロそろそろやめろー。北上さんにチクるぞ』
飯田さんだ。ガラス張りで、完全に向こうからも見えていることに気が付いて、わたしは硬直した。これ以上ないほど、顔が熱くなるのが分かる。
ツクモが顔を寄せているのと反対側の耳のそばで、しゅっ、しゅっと、かすかな音が二度聞こえた。
「オッケー、ありがとふみちゃん」
ツクモが腕を緩めてわたしを解放した。
「何なのこれ! ちゃんと説明して!」
わたしが怒鳴ったからといって、この場合は、マナー違反をとがめられる筋合いではないと思う。ツクモはいつの間にか手に持っていた二本の試験管のガラス管に、手早くキャップをしながら言った。
「ごめんね。予告すると効果が薄れるから、事後説明になっちゃった。今のは、ネガティブ感情時のサンプル採取」
「ほほう。ネガティブ感情時?」
わたしの声の温度低下には気が付かなかったらしい。ツクモは嬉々として説明した。
「前も、ふみちゃん、これは嫌だって言ってたでしょ。道具なしでできて、危険もなくて、手っ取り早く強い嫌な気持ち、つまりネガティブ感情を惹起できるシチュエーションということで、選ばせていただきました」
「あほか! わざわざ人の嫌がることをしちゃいけませんって、小学校で習ってきませんでしたか!」
「悪かったよ。ふみちゃんの嫌がることをしないと、嫌な気持ちのデータが取れなかったから。悪いことだという認識はあります。すみませんでした」
「科学の進歩のためなら仕方がない、という留保がどうせついてるんでしょ。反省なんかしてないくせに」
「あ、わかる?」
「そういうとこが腹立つんだよ!」
スピーカーのスイッチを、今は切っているようで、声は聞こえなかったけれど、ガラスの向こうで飯田さんが爆笑しているのが見えて、よけいに腹が立った。向こう側に、こちらの声は聞こえているらしい。
あの試験管の中身が緊張時のデータになるのは確かだけれど、ネガティブ感情という意味では怒りがマックスの今の方がよっぽどサンプルとして価値がありそうだった。
ただ、そんなことをこの二人に言ってやる気は毛頭ない。実験なんか失敗すればいいんだ、この、マッドサイエンティストどもめ。
「まあまあ、これで、ネガティブのほうは終わりだから。ね?」
ツクモは二本の試験管に何か書き込んだラベルを貼ると、使っていない試験管からは離して、トレイの端にそっと並べた。
なにが、ね、だ。














