03 アオスジアゲハと昆虫麻酔薬
「つめ、つめたいっ」
彼が身じろぎして、声を上げたのは、どのくらいたってからだったろうか。その間ずっと、わたしはどうしていいかもわからず、必死で水をかけ続けていた。数十秒にも数分にも思えた。
「気がつきましたか!」
わたしはホースをその場に落とすと、急いで駆け寄った。
さっきまで真っ赤だった顔色が、ずいぶん普通に戻ってきている。彼はひじを突いて上体を少し起こした。
びしょびしょに濡れた、真っ黒い長めの前髪から、水がぽたぽたと滴り落ちる。口は少し開いて、少しでも酸素を多く取り込もうとしているかのように、はあはあと肩まで動くような深い呼吸を繰り返していた。ぎゅっと目を閉じて、つばを飲み込み、めまいをこらえているような仕草に、わたしはなぜか頬がかっと熱くなるのを感じて、あわてて目をそらした。
この人は外見が無駄に整いすぎてる。
この光景は、あれだ。なんというか、うら若い乙女が見ちゃいけないやつだ。
目をそらした先の、公園の片隅で、二羽のオレンジ色の蝶がくるくるとダンスを踊るみたいにお互いに追いかけっこをしているのがみえる。三羽目が合流して、ダンスはさらに複雑になった。
このままそっぽを向き続けているわけにもいかない。深呼吸をひとつして、視線を戻して、一応、尋ねた。
「急に倒れたのでびっくりしました。気分、少しはよくなりましたか?」
「あー……――」
彼は何かを言い掛けて、急にがばっと起き上がった。立とうとしたが目が回ったようでその場にしゃがみ込む。だが、必死に顔を上げて何かを探すような仕草を見せた。
「オレ、どのくらい気絶してた?! チョウは? アオスジアゲハ!」
半狂乱で見回す。
さっきの網袋は、彼が倒れたあたりの、炎天下のグラウンドに転がっていた。
「良かった! 水はついてない!」
彼はふらふらと網袋の方に歩き出そうとする。
「やめてください」
わたしはとっさに彼の服の袖を引っ張った。まだ足下がおぼつかなかった彼は、それだけでしりもちをついてしまう。
「また倒れたら、今度こそ、どうにかなっちゃいますよ。わたしもあなたを引きずるだけの馬鹿力はもう出せません」
さっきから、腕の筋肉が軽くけいれんしてわなわな震えているのだ。水分不足気味なのに加えて、極度の緊張状態のせいで、さっき、夢中で自分の筋力以上のパワーを使ってしまったからに違いない。一旦、彼の無事がわかって安堵した瞬間から、腕に力が入らなくなってしまったのだ。
「わたしが取ってきますから。あの洗濯ネットみたいなやつですよね?」
「……バタフライネット」
「え?」
「洗濯ネットじゃなくて、バタフライネット。頼む! 早くしないとアオスジちゃんが死んじゃう!」
……命は重い。一寸の虫にも五分の魂。
でも、もう少しわたしに優しくてもいいんじゃない?
わたしだって、熱中症寸前だ。
何でこんなことに巻き込まれてしまったのかと自問自答しながら、わたしはのろのろと日向に出た。意識して深呼吸し、手の震えをしずめると、バタフライネットを、さっき彼が持っていたように、上部の取っ手でぶら下げるように持ち上げた。
中で、黒と青の蝶が驚いたように激しく羽ばたいた。
生きてた。よかった。
足元の地面に小さな黒い影が踊った。見上げると、心配するように、同じような色のチョウが上空に数羽舞っている。
わたしはほっとしながら、それを、ずぶぬれの青年のところに持って行った。水が出しっぱなしだったホースを拾い上げて上を向け、放物線を描いて出る水をがぶがぶと飲んでいた青年は、ホースを置くと、ぶるっと頭を振って、しずくを飛ばした。大型犬みたいな人だ。
「アオスジアゲハ、捕まえたことある?」
彼は、わたしからバタフライネットを受け取りながら尋ねた。視線はチョウに釘づけだ。動きが元気かどうか、羽や足に損傷がないか、確かめているようだった。
「いいえ」
「えー! マジで! なら、ぜったい見なきゃ。日本の誇るチョウの宝石のひとつなんだから。ええと、荷物、どこだったかな」
彼はきょろきょろとあたりを見回した。
ブランコの斜め後ろ、ツバキの植込みの下に、大きな縦型の登山リュックのようなものがおいてあった。
「ちょっと持ってて」
彼はわたしに再度バタフライネットを押し付けると、ようやくしっかりしてきた足取りでリュックに歩み寄り、中からいくつか物を取り出した。
「お嬢さん、それ、持ってきて!」
すっかり彼のペースに飲み込まれて、慌てて水道のコックだけは走って行って元通り閉めなおしてから、言われるがままにわたしは彼のもとに歩み寄った。
彼が地面に広げていたものは、奇妙な取り揃えだった。何か薬品のはいっているような小さい瓶、脱脂綿。アクリルかガラスの、透明な板。真っ白い、少し浅いどんぶりのような器。厚みからいって、磁器かプラスチックだろう。それから、立派なレンズが装着された、一眼レフのデジタルカメラ。
彼は、わたしがびしょびしょになるまで水を掛けたタオルは一旦地面において、荷物から取り出したらしい乾いたタオルで手と顔を拭いた。
それから、白い器の中に脱脂綿を入れると、小さい瓶の口を開けて、蓋に取り付けられていたスポイトで、中の液体を慎重な手つきで吸い出した。脱脂綿にスポイトの中身をしみこませてから、器に透明な板で蓋をする。今度は、わたしが持っていった網を外側から手でそっと押さえて、チョウを狭い一隅に追い込み、ファスナーを開けてそっとつまみだした。チョウの羽が壊れないように配慮してか、丁寧で優しいしぐさだった。
彼は器の蓋をしていた透明板を少しずらしてチョウを中に入れ、素早く蓋を閉めなおした。
チョウは一瞬羽を羽ばたかせて暴れたが、すぐにおとなしくなった。
「死んだんですか」
思わず聞いてしまう。彼はむっとした口調で言った。
「殺すわけないだろ。無益な殺生はしない主義」
「じゃあ、麻酔ですか?」
「そう。うちの研究所で開発されたばかりの、昆虫麻酔薬。三分後には、何の後遺症もなく元気に飛び立つんだ。三分しかないから、急がなきゃ」
彼は透明板を外すと、器の中のチョウに触れた。羽の付け根をそっと押して、開かせる。美しい羽の表模様があらわになった。
彼は一眼レフを構えて、幾枚も写真を撮った。裏返して、裏模様の写真や、胴体の様子も丁寧に写真記録に収める。透明板には、定規のような目盛りが着いたテープも貼られていて、彼は各部のサイズがわかるように、今度は透明板の上にのせて目盛りに合わせ、チョウの向きを変えながらさらに写真を撮った。
満足いくだけ撮影できたのか、彼はカメラを置いた。わたしを手招きすると、器の中のチョウを指さした。
「こんなに間近で、生きたままのアオスジアゲハを観察するチャンスは、めったにないよ?」
あいにく、そのチャンスの貴重さを理解できるだけの、昆虫への情熱がわたしにはない。昆虫全般、むしろ苦手なほうだ。残念な話である。
とはいえ、小さいころには人並みに、大きいチョウにあこがれる気持ちもあったような気がする。何度も空に向かって網を振り回し、それでも届かなかったのがこのアオスジアゲハだったな、と思い出した。シジミチョウやモンシロチョウは捕れても、それより大きなチョウとなると動きが速くて、幼い子どもの手には余る。虫好きの男の子が捕まえた黄色と黒のアゲハと、黒に赤い模様がすこしだけついたアゲハが、わたしが間近で見たことのある大型のチョウのすべてだった。わたしは懐かしさにひかれて、彼の肩越しに器の中のチョウを眺めた。
「きれいですね」
「だろ?」
彼は、わたしが見えやすいように、ひっくり返して裏側も見せてくれた。
黒と青、二色だけのチョウだと思っていたのだが、裏側にはわずかに赤の模様も散っている。
マットな質感のブラウンがかった黒地に、大胆に入ったトルコブルーの模様、そこに差し色でほんの少し入っている真紅が、エキゾチックなデザインの絞り染めのワンピースを連想させた。こんな色味のドレスは、よほど大人っぽくてスタイルのいい美女でないと着こなせないだろう。わたしには縁遠い。
「羽の青い部分をよく見てごらん。うっすら透けてるだろ」
言われて、わたしも彼の隣にしゃがみこんで、間近でよく見てみた。
「あ、本当だ。知りませんでした」
上側の羽と下側の羽というのだろうか、左右で二枚ずつある羽の、重なったところで見るとわかる。模様越しに、下側の羽がわずかに透けてみえた。部分的にシースルーか。ますます、大人っぽいドレスのチョウだ。
「チョウの羽の色は、鱗粉という、粉というか、ものすごく細かい鱗のようなものでできているんだ。知ってた?」
「はい。羽を触ると、指につくやつですよね」
おぼろげに、幼いころ見た昆虫図鑑に書いてあったことを思い出した。近所のれおくんが見せてくれたんだ。昆虫が大好きで、捕まえた黄色のアゲハや黒いアゲハを見せてくれたのも、そういえばれおくんだった。もっとも、れおくんは小学生の時に引っ越してしまって、今はどうしているのかも知らない。
「チョウの羽のベースになる部分は、本来、こういう風に透明に近いんだ。アオスジアゲハの青い部分は、黒い鱗粉がもともとないから、この色に見えるんだよ」
「へえ」
「チョウやガのなかには、鱗粉がほとんどなくて、羽全体が透けている種類もいる。スズメガとかね。そんなに珍しくないから、この辺にも飛んでいるんじゃないかな」
そのとき、器の中のチョウが大きく羽を震わせた。
「あ」
私はとっさに手を伸ばして、透明な蓋を閉じようとした。けれども、その手を彼がぎゅっとつかんで、わたしの動きを押さえた。
「もう、彼は帰る時間だから。このまま」
二、三度、動きを確かめるように、チョウはその場でゆっくりと羽を動かした。それから、ふわりと舞い上がって、クスノキの上のほうへと飛んで行った。さっきから数羽来ていたお仲間の群れにまぎれて、あっという間にどれだかわからなくなる。
「彼なんですか」
「そうだよ。アオスジアゲハのばあい、羽の模様はほとんど違わないから、胴の先端の生殖器の形状で見分けるんだ」
彼は空のずっと高いところに行ってしまったチョウを目で追いかけながら言った。
うら若い乙女の手を取ったまま、なんちゅうことを言う輩だ。
「写真にはちゃんと撮ってるよ。見る?」
わたしのほうに向きなおって、嬉しそうに言う。
「けっこうですっ!」
思わず語気が荒くなってしまった。彼の手を振り払って一歩下がる。
赤くなったら負け。いかがわしい写真ってわけじゃない。チョウの話だよ、チョウの。
自分に言い聞かせた。でもやっぱり、頬が上気するのは止められなかった。