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昆虫オタクと神社の娘【完結済】  作者: 藤倉楠之
第四章 ツクボウの研究所

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29 飯田さん

 研究所は、広い駐車場と緑の植え込みに囲まれた、三階建ての大きな建物だった。


 入り口の受付で入館者記録簿に必要事項を記入したわたしは、渡されたゲスト入館者証を首から下げて、ツクモの後を歩いて行った。長い廊下には、数メートルおきに、扉が並んでいる。


「ここは入れるゾーンが入館者証パスのカラーで色分けされている。製品にまだなっていない段階の研究素材がごろごろ転がってたりするせいで、セキュリティはちょっと面倒なんだ。ふみちゃんの掛けている緑が、一日限りのゲスト用。今日のふみちゃんみたいに、所員に招かれたゲストなら、少し離れたところから実験を見学したり、共用スペースでインタビューや打ち合わせをしたりできる。研究協力者や、メディアからの取材依頼の対応として内部の人間が呼ぶパターンだけじゃなくて、受付で申し込んで手続きすれば、基本的には誰でも、研究所の図書室や、広報資料を閲覧できるメディアルーム、社員食堂として運営しているカフェテリアを使える。だから、社会科見学の中高生や、企業訪問や図書館の専門書を調べる目的の社会人や大学生、時々はランチしたいだけのご近所の住民がくることもある。

 各部門の所属の研究者たちは、自分の部門のカラーのドアを開けて中にはいることができる。分子生物学・生化学は紫、バイオロボティクス・ミメティクスは青、微生物・疫学は赤。遺伝子工学は黄色。研究内容に応じて、二色、三色のパスを持つ人ももちろんいる」


「ツクモのグレーは?」


「これは、どこでも入れる。オレは呼ばれたらどこでも手伝わなきゃいけない何でも屋だからね。でも、落とすと色々面倒だから、パスに埋め込まれたICチップと生体認証のダブルチェックでロックを開ける仕組みになってるんだ」


 ツクモは、正方形を対角線で二つに分けて、左上を紫、右下を緑で塗り分けたプレートが掲げられたドアの前で立ち止まった。


「ここは、紫パスを持っている人は、緑パスの人を連れて入っていい、という意味」


 ツクモが、札の下にある大きめのインターホンのようなものの蓋をあけて、のぞき込むようにして何やら操作すると、ドアの方でかちゃりと小さな音がした。


「どうぞ」


 ドアを開けて通してくれる。中は、コンパクトな応接セットがある会議室のような場所だった。濃い目のグレーが中心のモノトーンでまとめられた、シンプルで実用的な部屋だ。その向こうはガラス張りになっていて、応接セットのあるこちら側のスペースの何倍も大きい研究室の様子がうかがえた。こちら側に背を向けて設置されたいくつものモニターに、パソコンというにはあまりに大きなコンピューターがやはりこちらに背中を向けてつながれていた。背面にいくつもある小さなLEDランプが、不規則なリズムで光ったり消えたりしている。そのほかにも、何をするのかわからないどころか、どこからどこまでが一つの機械で、どこからが別の機械かすらもわからないような、大きな機械がいくつも並んでいた。


 空間を仕切るように、ホワイトボードや、ホワイトボードと同じように使うのであろう透明のボードが、これもいくつも置かれている。ボードは、わたしにはよく読めない数式や英語が走り書きでぎっしり書かれたり、メモや付箋がたくさん貼り付けられたりしたものもあったが、まっさらに拭きとられて、何も書かれていないものもあった。作業デスクはいくつもあったが、今、ガラスの向こうにいるのは、どうやら一人だけのようだった。


「そこ、座ってて」


 応接セットを示される。由奈ちゃんに誘われて、大して気乗りもせずに行った就職課のビジネスマナー・セミナーがこんなところで役に立つとは思わなかった。わたしは、ドアに一番近い下座の席を選んで、浅く腰かけた。


 職場でのツクモが非常識な昆虫オタクモードなのか、年長者向けのそつのない猫かぶりモードなのかはわからないが、いずれにせよ、ツクモが選んできたのが、常識もない、遊んでばかりの大学生だと思われたらちょっと悔しい。わからないことは多いにせよ、少なくともまじめにやろうという姿勢だけは見せたい、と思って、服装も、白無地のコンパクトなオープンカラーシャツに黒のテーパードパンツを選んできた。リクルートスーツまで着たらやりすぎかもしれないし、これなら一応ちゃんとして見えるだろう。それに、スカートと違って、ここで何かの作業を言い渡されても対応できる。


 そんなわたしの内心の気配りをわたしの『上司ボス』は知っているのかどうか。……たぶん知らないだろう。


 ツクモは、研究室とを隔てるガラス仕切りに取り付けられたドアを操作して開けた。先ほどとそっくりの操作盤の横には紫一色のプレートが掲げられている。ツクモは中には入らず、首だけをつっこんで呼びかけた。


「飯田さん、例の子、連れてきた」


 呼ばれて、モニターに半分隠れるようにして何か作業をしていた白衣の男性が立ち上がった。


「今行くよ」


 ほとんど刈り上げたような短い髪が、頭の上で芝生のようにつんつんと上を向いている。黒っぽいふちの太い眼鏡、やせているが敏捷そうな体つきとあわせて、第一印象はなんとなく厳しそうな雰囲気の男性だった。年のころは、おそらく、ツクモより十歳くらい上、三十代半ばくらいか。


 わたしも急いで立ち上がった。


 男性は、ツクモが首を突っ込んでいたガラスドアから会議室風のスペースに出てくると、わたしに向かって軽く会釈してくれた。意外に気安い笑顔だったので、少しほっとした。


「どうも。研究員の飯田です。ここでは普段、香料や揮発性の薬剤に関係する研究をしています」


「宮森郁子といいます。よろしくおねがいします」


 わたしも名乗って、しっかり頭を下げた。


 飯田さんがわたしの向かい側のソファに腰を下ろしながら、勧めてくれたので、座り直した。


「こちらこそ。モンシロの手伝いしてるんだって? こいつ、大変でしょう」


 のっけから、何とも相づちの打ちにくい切り込みである。曖昧に笑ってみた。


「こういうバイトは初めてなので、慣れなくて、ご迷惑をお掛けしているかと」


「嘘。迷惑かけてんのは絶対モンシロ。よく、ここまでちゃんと来たよねえ。虫捕りの時に会ったんでしょ。こいつの風体も説明も、絶対怪しいじゃん」


 あの妙な略称――一文字しか省略されていない――が実用化されている場面を実際に見ることになるとは思わなかった。


「飯田さん意地悪。別に、変なことは言ってないよ。ちゃんと説明したよ。バイトの勧誘の時も、調査依頼の時も、分析のことも」


 ツクモはふてくされたように言った。


「分析のことはいつ? 昨日の夜、モンシロから例の仮説を聞かされた時は、宮森さんの同意をとっているようには俺にはとても思えなかったけど」


「来るとき、車の中で」


「それを、ちゃんとした事前の説明っていうのかな。宮森さん、断りようがないじゃないか。――ほんと、やっても大丈夫? 断っていいんだからね? ここでコーヒーだけ飲んで、機械が動く様子みて、それで帰ったって」


 後半はわたしの顔を見て言ってくれた。


「はあ」


 これまた返事が難しい。曖昧な相づちを打ってしまう。


「分析を断られたって、モンシロは調査助手はいたほうがいいし、予算はちゃんと通っててクビにする理由はないから、宮森さんが仕事を失う心配はないんだよ。なにしろ、こいつの調査に、まる一日同行して音をあげなかっただけで、宮森さんは超貴重。完全にマイペースで先の見通しが全くないんだから。宮森さんが辞めることになっちゃったら、次が務まる人材が見つかるかどうか」


 それにしても、ツクモはひどい言われようである。ちらっとツクモを見ると、不満そうではあるけれど、神妙に座っている。背はツクモの方が高いけれど、頭の上がらない兄貴分の前で、小さくなっている感じだ。


 その様子を見ていたら、つい、口元がほころんでしまった。緊張が少しほぐれてきて、わたしは言葉を選びながら、飯田さんの問いに答えた。


「いえ、きちんと説明していただきました。断っていいことも、この分析でどんな結果が出たところで、それですぐ何かが変わるわけではないことも。わたしも、お話をうかがってみると、正直、気にはなるんです。結果が何も出なければ、それはそれで構いませんし。こういう科学研究の分野には今までまったく関わりがなかったので、どんなふうに行われるのか見せていただくだけでも勉強になると思ってお受けしました」


「おお、宮森さん大人だねえ。モンシロよりよっぽどちゃんとしてるわ。お前はこの社会常識をちゃんと見習えよ」


 飯田さんは隣に座っていたツクモを肘で小突くと、立ち上がった。


「シリンダ持ってくる。サンプルはすぐとれるよ」


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― 新着の感想 ―
[一言] 何だか妙な雰囲気になってきましたね。 これだとかえって断りにくいかな。
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